『譜精』
おはよう
私は小鳥の歌とともに目覚め
今日も朝の歌を歌う
朝食はパンとコーヒーとサラダ
待ちきれないで頭の中で音たちが踊りだす
ねぇ 僕たちを早く世界に出して
音になれば僕たちは自由に宙を飛びまわり
触れるものすべてに魂を宿らせることができるから
いよいよ私の大好きな時間
私は親譲りの古いピアノに向かう
私の大事なおともだち
古いけれど調律もバッチリ
指を触れると すぐに気持ちを汲んで音を出してくれるの
……これでいい?
……ウン。バッチリ
さっき頭に浮かんだ旋律をもう一度頭でなぞる
指は私を占領してしまった音の精の命ずるままに
白と黒の鍵盤の上に遊ぶ
跳ね回り 飛び上がり
水面をたゆとうように 流れるように
時には重厚に そして軽やかに
私の胸に響くそれは
命の歌 愛の歌
さぁ音たちよ
お前の本当の姿を見せておくれ
私は喜んでお前たちを迎え
心からの祝福をもって全地に響かそう
すべてに勝るお前たちの愛で
どうぞ世界を包んでおくれ
私という名もなき女を通して
このような素晴らしい音の洪水を与えてくださったことを
もし音楽の神様というものがいらっしゃるならば
私はあなたに心からの感謝を捧げます
あなたを永遠に愛し ほめたたえます
ごめんね
何でかな
涙で目がかすんで、お前たちが見えない
私は自分の栄光も 富も 名声も求めない
でも ただせっかくこの世に生を受けたお前たちをこのままにしたくない
聞こえる お前たちの願いが
沢山の人の耳に飛び込んで 一人でも多くの人の魂の一部になりたい
そして 永遠に生きた音になりたい——
子よ
母として 私はお前たちを世の光としたい
そのための努力は惜しまないつもりだった
私は、あらゆる考えうる手段を通して
世に対してお前たちを発表しようと努力してきた
疲れ果てた
何度曲の譜を送っても、デモCDを送っても
返事はなしのつぶて
音の神様が私に与えてくれたのは、曲を作る力だけ
残念ながら、歌の才能は私にはないから——
どうやったら お前たちを生かしてやれる?
どうやったら お前たちに翼を与えてあげられる?
弾けない私は ただの人
歌えない小鳥は ただの鳥
ある日目覚めても
私の頭の中にいるはずの音がいない
家出をしたみたいに誰もいない
おはよう
わたしは挨拶してみるが、返事をする音たちはいない
私の中で音たちが踊らないので
仕方なくピアノ小曲の入ったCDをかけた
でも 音楽に集中できない
味のほとんど分からない朝食を終えた私は
ピアノの前に座りさえすれば かわいいお前たちが戻ってくるんじゃないかと
一縷の望みをかけて
刑場に引かれる死刑囚のように
何とか身体を引きずってゆく
ダメ
私は進む道を完全に閉ざされた
鍵盤の上に突っ伏して 泣いた
こんなに辛いことだって初めて知った
いつも私の最愛のパートナーであるピアノと 心が今はもう通わない
音の精は、もう私に話しかけない
私が腕を鍵盤に叩きつけたので
命の通わない 不協和音という凶器が部屋を満たす
音のバラバラ殺人だ
生まれて初めて お友だちに暴力を振るった
悪意を抱いた
癇癪を起こした
自分で自分がショックだった
私の心は荒んだ
うちひしがれ
この日 初めて
真っ白な譜面に音を一つも書き込めなかった
初めて 真っ白な譜面は真っ白なままだった
母さんをゆるしてね
こんな無力な私から生まれてきてごめんね
世を賑わす有名な音楽家から生まれてきたらよかったね
そしたら、すぐにでもお前たちは世の光 人の希望になれたのに
多くに人々に愛され 多くの人の心に生き続けることができたのに
ごめんよぉぉ
もうすでに楽譜にして千枚以上を数える私の子どもたち
死んでいくしかない彼らに 私は弔いの歌を
鎮魂歌(レクイエム)を歌おうとした
あらまぁ
私は苦笑した
どんな絶望的な状況でも私って結局は音楽に 歌に戻るのね
捨てられないのね
じゃあ最後に歌おう
死んでもいい
ただ いなくなってしまった音たちのために
今まで苦楽をともにしてくれた大事なピアノのために
さぁ、最後にもう一度だけ力を貸しておくれ
風よ もう一度私に吹いておくれ
私は魂を削る覚悟で鍵盤に触れた
ポーン
一つの音
それが 闇夜を切り裂いた
一瞬にして霧がなぎ払われ 吹き消された
むき出しなった私の魂
風景が一変した
小さな部屋の古ぼけたピアノは 漆黒の見事なグランドピアノとなり
私の周りは見渡す限りの大海原
私自身も 綺麗な黒のドレス姿に早変わり
雲の隙間から 目を射るような鮮烈な光の筋が走る
弾きなさい
お前の持てるすべてを懸けて
涙が枯れ果てるまで泣け
そして気がおかしくなるほどに喜べ
幸いなるかな 大いなる宝を与えられた者
幸いなるかな 乗り越えるべき試練を与えられた者
幸いなるかな 死の力を打ち破り、栄光の光をつかみ取る者
熱いよう
私の胸の中に
灼熱の火の玉が宿った
私の頭のてっぺんからつま先まで
何かに取り憑かれでもしたかのように
砕け散った私の心の部品が次々に新しく組み上げられていく
恐れない
くじけない
負けない
たとえ私を囲む現実がどうであろうと
私は揺るがない
お前たちを信じているよ
私は無力でも、お前たちの生きようとする力が
きっと、私の手元を飛び越えて輝く時が来る
きっと来る
絶対来る
私は 時間と空間を越えたところで音を産み続けた
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「……今年は、何だか収穫がないわねぇ」
歌手としても活躍することのある天才ピアニスト、小野田怜羅はため息をついて席から立ち上がった。
「そうでしょうか。これでも、各レコード会社から選りすぐりの人材を推薦してきているのですがねぇ。それでも、先生のお眼鏡にかなうのはいませんか?」
困り果てた声でマネージャーが言うのを最後まで聞かず、怜羅は足早に会議室をあとにした。
……どれもこれも、心に響かない曲ばかり。第一、歌に命が乗っていない。
「どうせ、バックに何かがついた人ばっかり、選考を通過してきたんでしょうよ」
怜羅は思った。
世界のどこかに、ゼッタイいる。
生まれながらの作曲家が。
私が恐れをなすような、ひざまずきたくなるような音の精を宿した者がいる。
私の指が感動で打ち震えるような、私の涙を止まらなくさせる者が——。
怜羅が何気なくミキシングルームに足を運んだら、スタジオディレクターが何かのデモCDを聞いていた。
鼻歌なぞ歌って、何だか楽しそうだ。
エッ?
「……何なの、これ」
瞬時にして怜羅は、雷に打たれた。
彼女の研ぎ澄まされた感性は、同類を嗅ぎ分けた。
歌よりも、頭を殴られたような気になったのは、音だ。
今までの既成の枠を、完全に破壊していた。
何者にも縛られない自由な音の魂は、縦横無尽に飛び回っている。
冷水をかぶせられたかのように、彼女はブルブルと震えた。
「これ、どっから?」
その言葉に、今まで音楽に気をとられていたディレクターは我に返った。
「ああ。どっかのね、さえないなりをしたお嬢さんが置いていったのさ。業界のことはなーんも知らないみたいでさぁ。いきなりどうですか、って持ってきたんよ。
いきなりここに来られても、音楽事務所の推薦がないと難しいですよ、って言っといたけどね。どうしてもって言うから、期待しないでね、って言って受け取っといたのよ。ヒマだし、冷やかし半分でかけてみたんだけどね」
ディレクターは頭をかいて、身を乗り出して怜羅に尋ねてきた。
「どう思う、これ。 ちょっと面白い子じゃない?」
なりふりかまわず、スタジオを飛び出す。
ディレクターは言った。
「ん? さっきの子がこれ持ってきたの5分前くらいのことだからねぇー。駅まで歩いているんだとしたら、走ったら追いつくかもしれないよ」
無茶な加速に、心臓が悲鳴を上げる。
やっと見つけたのよ。
私をひざまずかせる人を。
私に音の神を見せてくれる人を。
弾きたい。
今すぐにでも、あの曲を弾きたい。
あの音たちに永遠の魂を与えた、その人に早く会いたい——。
怜羅には、遠目からでも分かった。
大通りは人ごみであふれていたけれど、彼女の目は見分けた。
音を友とし、自在に操る譜精を。
手を伸ばす。
もう、離さないんだから。
あなたは私と一緒に、永遠を生み出すんだから。
世界を音で満たすんだから。
「待ってえ! あなたの見たもの、聴いたもの、感じたものすべてを私に教えてちょうだいっ! お願いよおお」
人は無数にいたが、名もない女は怜羅の叫びを心に聞いた。
そして、自分に叫ばれたものとしてはっきりと認識した。
名もなき女は、ゆっくりと振り返る。
目と目が会った。
説明のつかない感情の高ぶりに、本物に出会った喜びに、そして魂のパートナーとの出会いに。
怜羅は、ボロボロと涙を流した。
天才と天才は、ついにここに出会いを果たした。
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