『今も燃えてこの胸に』

 家の裏口からドアを開けるとムッと漂ってくる肉の臭い

「いらっしゃい! 今日は豚バラが安いよ」

 お父さんの威勢のよい声がここまで聞こえる

 私はその臭いから逃げるように階段を駆け上がる



 ウチは肉屋だ

 一階が店舗で二階が家族の居住スペース

 下から声がする

「奈緒子、帰ったんならただいまぐらい言いなさい——」

 父を手伝っていた母の声

 私は何も言い返さない

 説明のつかないモヤモヤした気分を吹き飛ばすために

 大して見たくもないテレビを大きめの音にしてつける

 うずくまってうつろな目で画面を見つめる

 内容はまったく頭に入ってこない



 私は自分ちが肉屋であることを呪った

 小さい頃何も分からなくて肉屋を手伝った

 父は目を細めて喜んだ

「おお、お前は将来この肉屋をしょって立つ主人だな」

 喜んで父は肉のことを色々教えてくれた



 でも私はやがて自分の家の稼業に誇りがもてなくなった

 体についた臭いを学校でバカにされた

 肉屋の子といじめられた

 恥ずかしかった

 涙を流すたびに家を憎んだ

 父に素直になれなくなった



 やりきれない想いを胸に抱えたまま

 私は中学生になり高校生になった

 できるだけ家の話題を避ける

 家が肉屋であることを最大限隠す

 友達を家に呼ぶなんてとんでもない

 肉とは縁を切れない生活

 どこまでも逃げられない生活

 二階の狭い部屋をいくらおしゃれに飾ろうが

 どんなに綺麗な服を買おうが

 家という檻の中にあるというだけでどこか臭うような

 汚くなったような錯覚になる

 さっさとこんな家出て行ってやる

 肉屋じゃない粋な仕事についていい男見つけて結婚して——

 その時こそ私はやっと解放されるんだ

 肉屋の娘という名の呪縛から



 父が死んだ

 ある日いつものように普通に仕事場に立って

 直前までいつもと変わらないくらい元気だったのに

 病院に担ぎ込まれたが助からなかった

 悲しかったけど泣けなかった

 何だろうこの気持ちは

 父に素直に心を広げれない

 どうしていいか分からない私のこの気持ち

 苦しさから逃れるために私はできるだけ家に帰らなくなった

 友達と遊び歩いた

 母は私に何も言わなかった

 そして父の代わりに店を守った



 今度は母が倒れた

 過労

 そして腱鞘炎

 母の手は限界に来ていた

 もう食肉包丁をにぎれないほどに

 ごめんねごめんね

 悪いことは何ひとつしてないのに母さんは謝る

 それでも私に何かしろとは言わない母

 私は逃げられない現実と直面した

 明日からの生活をどうする

 どうやって食べていくのだ

 兄弟はいない

 私は一人娘



 今こそ対決の時だと思った

 父との対決

 そして肉屋の娘に生まれた自分との対決

 決着をつけてやる

 私は真っ白な作業服に着替えて長靴を履き

 髪をくくって父が最後まで使っていた肉切り包丁を手にする

 父の魂が宿っているであろうその仕事場に立った



 お父さん

 あなたにとって肉屋とは何だったんですか

 娘が嫌っていることは痛いくらいに感じていたでしょう

 あなたが今までどんな思いだったか

 そして死ぬ前に何を願ったのか——



 包丁置き場のそばに数冊のノートがあった

 随分昔に書かれたものっぽい

 ページが所々茶色く変色している

 私は何気なくそのノートをパラパラと斜め読みした

 しかしやがて私は引き込まれるようにノートをむさぼり読んだ

 そのノートはすべての肉屋としての業務内容を事細かに書いたもの

 明らかにプロではない人間のために懇切丁寧に書かれたもの

 最後のページにこの一行があった



 いつの日にか奈緒子と仕事場に立てますように



 お父さんごめんなさい

 私恥ずかしいよう

 自分の見栄のことしか考えてなかった

 お父さんにとって肉を売ることは命だったんだね

 誇りだったんだね

 いつか私が分かってくれると信じて

 仕事場に立ち続けたんだね



 私はボロボロ泣いた

 仲直りせずにあの世に送っちゃってごめんね

 死んでから分かるなんて何て物分りの悪い私

 こんな娘を許してね

 涙枯れるまで泣いてから

 私はお父さんの包丁を握って戦場に立った

 ノートを精読し

 昔教わったことを必死に思い出しながら

 肉の臭いも血の臭いももはや私の気持ちをくじかない

 燃えている

 気付かない私のそばで燃えていた火の玉が

 今私の中に乗り移った



 父さん

 今間違いなくあなたが私に入った

 どうぞ私の体を存分に使って腕を振るってください

 


 睡眠も削った

 学校も休んだ

 ひたすら包丁を振るい続けた

 腕の限界まで

 油まみれになってコロッケを揚げ続けた

 納得のいく味と食感と揚がり具合を体得するまで

 何百個でも



「……できた」



 一週間後私は閉じていた店のシャッターを開けた

 朝焼けの空に油まみれの顔を上げる

 光が閉じこもり続けた私の目にまぶしい



「父さん、やったよ!」



 この瞬間店の新しい主人が誕生したのだ



「いらっしゃいませ。今日の特買は牛ロース薄切りですよ」

 父のいなくなった店

 いや

 やっぱりいるよ

 私の中に父はちゃんと住んでいる

 真っ赤に燃えて私の中で熱い

「奈緒ちゃん、まるでお父さんみたいね」

 お客さんにそう言われる時が一番うれしい

 あれほど嫌っていた肉屋

 今は私の命

「よかったらコロッケもいかが? 揚げたてですよ」



 お父さん

 あなたの娘に生まれてよかった

 感謝します



 感謝します——

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る