2月30日

どせいさん

第1話

小うるさいテレビのニュースと寝起きの鼻には油臭い朝食の匂いが朝を迎えに来た。

メガネを付けたまま寝てしまったようでコメカミの横あたりがジーンとする。一旦メガネを外し、コンタクトのないぼやけた視界でリビングへと向かう。

「おはよう、ご飯は?」

「おはよう、そこによそってあるわよ」

毎朝起きた時には朝食は完成していて、僕の支度だけが残っている。

「ありがとう。あとさ、来週の土日ちょっと会社でイベントがあって出勤しなきゃならないわ、ごめん」

眉を歪ませ目を細め、まさに「申し訳ない」という表情を作る。その表情を反射するように内心では「同意」と「了承」を得られる確証がある。

「そう、頑張ってね」

朝の煩雑さもあり、声はいつもより低くなっている。

「また子供達遊びに連れて行けなくてごめんな」

「気にしなくていいよ。私たちのために働いてくれてるんだから」

妻は僕を労ってくれる一方で、適切な割合で残念そうな表情を浮かべ、それでも家事の手は止めず、仕事と家族、両方の僕のアイデンティティーを高めてくれる。


歯磨き、マウスウォッシュ、ひげ、洗顔、ワックス。

「じゃあ、そろそろ行って来ます」

「行ってらっしゃい」

もうわざわざ玄関まで出向いてくれるような新鮮さはないが、ちゃんとリビングから廊下に顔だけ出して言ってくれる。

夫婦というのは成熟した関係。円滑なコミュニケーションで信頼関係が確認される。

ただその築き上げた信頼関係が、本心を邪魔することさえある。




カレンダーが凹んでいる。キリの悪い終わり方。厳しい寒さが爪痕を残し、暖かい日差しが肌を撫でるこの時に、世界の鼓動が乱れていた。




二〇三〇年。ついにタイムマシーンが生み出された。ただし民間人が自由にタイムトラベルしてしまうと世の中のシステムが崩れてしまう。政府はタイムトラベルビザを発行し民間人のタイムトラベルを管理した。タイムトラベルは過去への移動のみが許され、さらにそのタイムトラベルが未来へと影響しないように、特定の年の二月三十日への移動に限定された。二月三十日は現実には存在しないため、時の流れを乱すことはない。そしてビザの管理により三月一日になると現実世界へ戻る。つまり、二十四時間だけその時代のパラレルワールドに行けるのだ。多くの人は自分の人生のピークを再体験した。理想的な次世代の旅行、誰もがそう信じて疑わなかった。


第1章



二〇四〇年。今年で僕は四〇歳になった。普通に大学を出て、普通に就職し、サラリマーンとして働き、今では子供が二人もいる。僕が学生の頃はAIが囲碁で人間のプロに勝っただの、人型ロボットだのと科学技術の人気が絶頂期だった。あの頃、みんな未来ではAIに仕事を奪われるだの何だの騒いでいたが、結局今になっても大して変わりはなく、人間が満員電車に乗って長い時間をかけて通勤し、平日が丸々潰れるように働いている。


「すみません、降ります」

後ろの女子高生が言う。長い髪は力の方向に揺れ動き、肩にかけた黒い鞄には明らかに定員オーバーなマスコットたちが繋がれている。

「あ、すみません」

背中側の雑踏に重力をかけて彼女に余分にも十分なスペースを与える。若い女性は接触に関してシビアで、僕のような中年男性も過剰反応してしまう。

ほら、見ろ。電車だって昔と何も変わらない。窓の外ばっか眺めているといつもこうなる。空飛ぶ車もタケコプターもない。ライト兄弟が見たらがっかりするだろう。


「ただいま」

「あ、お帰りなさい。ご飯待っていたのよー」

「裕也、莉奈、お父さん帰ってきたわよ~」

「パパ、おかえんなさい」

「おかえり~」

裕也はいつもスマホを片手に寝そべっている。何も考えていなそうな表情の時、真剣な面持ちの時、いずれにしろその体にはスマートフォンが付着している。逆に元気な娘は遊びたがる年頃でいつもじゃれついてくる。この様子と笑顔からは思春期になって邪魔者扱いされるなど想像もつかない。

「パパ今日は何してきたの~?」

膝の方から聞こえる、と思ったらもう腰の方だった。子供の成長は驚くほど早く、特に小さいうちは女の子の方が、背の伸び方が著しい。

「今日も真空ループを動かしてきたんだよ」

「パパのおかげでみんなが遊びに行けるんだよね~、莉奈もディズニー行きたいよお」

「じゃあ、春休みかゴールデンウィークにでも行こうか」

「わーい、約束約束だよ」

「はいはい、じゃあパパ着替えるからママのとこ行ってなさい」

「はーい」

何気ない親子のやりとり。真空ループとは日本企業の高速移動手段。真空に近い筒の中を空気抵抗なしに移動する。その企業とは、僕が勤務するJBL(Japan Boost Line)、そう、前身はあのJALである。燃料費が高く、乗り降りに時間がかかり効率の悪い飛行機はもう廃れてしまった。僕の日常生活上で学生時代から急変したものといえばこれくらいだ。


夕飯はハンバーグだった。利奈の大好物で、さっきまで見ていたテレビなどそっちのけで今にも一口で食べてしまいそうに見つめる。

「いただきまーす」

それは食物に対する感謝の儀式というより、スタートの号令のように見える。子供だから仕方ないか、と思う一方、普通の大人たちが食事のたびに感謝を意識しているかは甚だ疑問である。

「ママおいしいよう」

「あら、良かったわね」

母と娘は些細な言葉を交わすだけで、十分幸せそうな感情の交換が行われる。一方で僕は息子と中身のあるコミュニケーションが行えているのか。

「あ、そうだみんなに報告があるんだ。この前、父さんが会社から賞状もらっただろ?あれの景品でタイムトラベルチケットをもらったんだ。来月に行くことになった」

「え、父さんタイムトラベルするの⁈ いいな、俺も行きたいよ」

「はは、ニ〇過ぎないといけないからな。裕也も頑張って努力すればいつか行かせてやるからな」

「ええー、今行きたいんだよ」

「まあまあ、お父さんはお仕事頑張ったから会社からのご褒美なのよ。そんなこと言うなら、裕也もスマホばっかりじゃなくて少しは勉強したら?」

笑い声が食卓を囲む。

「そ、そのうちやるよ」

「いつもそう言うじゃない」

「まあ、とりあえずお土産は買ってくるから」

「あらあなたもう何年に行くか決まってるの?」

「ああ、二〇二〇年だ。あの時はオリンピックもあって東京も盛り上がってたしな」

「そんなこと言っちゃって、本当はまだ飛行機に乗りたいだけなんでしょ」

妻は微笑する。


僕は小さい頃から飛行機が大好きだった。飛行機が好きで物理に興味が湧き、物理は大学でも専攻するほど得意だった。そして僕は初心に帰って飛行機に携わりたいと思いJALに就職した。

しかし、待っていたのは厳しい現実。資源の枯渇から燃料価格が高騰し飛行機は廃れ、低燃費な真空ループが遠距離移動の主流となった。

耐え難かった。美しい白鳥が消え、ブラックバスが増える湖を見るようだった。それはまるで、芸術的精神を忘れ、資本主義的実用性に走る人間を表してるようだった。



今日も電車は走る。郊外から都心までの距離は遠く、電車はいつも満員。いつになれば日本の都市問題は解決されるのか。そもそも本気で都市問題を解決しようとしてる人はいるのか。政府の関心はいつも金ばかり。年金、増税、やれ人口減少、高齢化。もう何年もこんなことをしているのか。タイムマシンができても世界は全く変わらない。変わったのは旅行の選択肢が増えただけだ。



そんなことを考えている間に1ヶ月はすぐに過ぎた。

出発の日。妻と子供達は駅まで送ってくれた。ここから霞ヶ関まで四十分。出発地は民間人には明かされていない。とにかく、まずは観光庁付属のタイムトラベル局に行かなければならない。

今日もまた電車は走る。僕は旅行に向かうが、多くの人は会社、学校に支配されている。都会の満員電車は疲弊しきっている。輝いているのは女子高生ぐらいだ。楽しそうに友だと話したり、インスタで無差別にいいねを押したり、メイクしている人もいる。


「まもなく、東京、東京。中央線、総武線、、ーーー、地下鉄丸ノ内線ご利用のお客様はお乗り換えです。We are soon arriving at Tokyo.Please change for ---------」

ふと思う。この車内アナウンスは何年間使っているのだろう。いつも同じ女性の声だ。機械的で聞き取りやすいが、温もりのない声。

今日も電車は走る。だが、少し違う景色が窓の外に広がる。そう、今日は人生初のタイムトラベル。一日だけとはいえ、過去に帰られるというのは僕が学生の頃には想像もつかなかった。いやそれは嘘になる。様々な漫画や小説、映画でもタイムマシーンは出てきた。だが、まさか自分が参加することになるなんて。



「お待ち番号札七四九のお客様。三番カウンターまでお願いします」

やっと僕の番だ。

「すでに申し込みはお済みのようなのでこちらに案内します。どうぞ」

僕はエレベーターの待ち時間が嫌いだ。東京に来てからというもの建物が高いのもあり待ち時間も長い。

エレベーターの到着音は、扉が光るのと同時に、耳の裏を優しく包むような心地よい音だった。

広いエレベーターの中は僕と案内人の二人だけだ。人間は通常、エレベーターの中では狭さからくるストレスを緩和するため、無意識にフロア表示を見てしまうらしい。だが、この広いエレベーターではそのようなストレスとは無縁な代わりに、特有の気まずさが漂っている。どうやら、人間には人数に応じた適切なサイズの空間が必要なようだ。


「では、私の方から簡単に説明をさせていただきます。まずタイムトラベル中もこちらでの時間は進み続けます。つまり山本様がこちらへお帰りになられるのはちょうど明日のこの時間となります。またタイムトラベル中に犯罪行為を行うと、タイムトラベルビザにより強制送還され、厳正に処罰されますのでご注意ください。詳しくはいつでのビザの裏面のコードから確認できます。他に何か質問はございますか?」

「いえ、大丈夫です」

「では、お気をつけて行ってらっしゃいませ」

「え?だってここは、、、」

その瞬間エレベーターは加速した。耳が気圧差に対応しきれていない。エレベーターの扉の隙間から僕の目には入りきらないほどの光が溢れてくる。何も聞こえない、何も見えない。





「まもなく、羽田空港、羽田空港」

気がつくと、モノレールに乗っている。どうやら電車の中で眠っていたらしい。

今日も電車は走っている。だが、少し景色がいつもとは違う。マンションの間をくぐり抜け、不気味な都心へと向かう憂鬱が、高いところから街を見渡し都心から逃げて広大な海へと向かう冒険心に取って代わられた。


無意識のうちにスマホを開く。


その青白いブルーライトは、

情報を整理しきれていない僕の脳を超えて、

全身を光の速度で駆け巡り、

感情とかそういうもの全てが、

集約された虚無感に身を委ねながら、

もう一度スマホを開き、日付を確認した。



AM5:00 Friday 2020/02/30



間違えない。記憶が僕を映し出す。僕は僕が希望した通りの過去にタイムトラベルしてきたのだ。これからロサンゼルス行きの飛行機に乗るのもちゃんと覚えている。

スマホを内カメにし、寝起きの顔をチェックする。

一瞬、訳が分からなくなったが、すぐに把握できたのはよかった。


そこに映るのは僕ではない。二十年前の僕なんだ。


今の今まで僕は批判的目線を忘れられなかった。ロボット展に行っても、大学で物理学を専攻しどんなに壮大な理論を学んでも、現実は何も変わらないとばかり思っていた。


人類の進歩はカタツムリから、一夜にしてチーターへと化けた。


そうこうしているうち、羽田空港国際線ターミナルに到着した。

そこにはたくさんの外国人観光客がいた。夏のオリンピックを控えて旅行先として日本の人気が高まったのだろう。

ああ、懐かしい。僕も大学二年生の時にオリンピックを見に行った。

だが、僕の大学生活にはそれを上回る大きな思い出がある。それは大学一年生の時に、初めての海外旅行でスイートクラスの飛行機でロサンゼルスに行ったことだ。今では真空ループ(僕の会社では忍者ループと呼んでいる)のおかげで格安で海外旅行に行けるが、当時は飛行機か船しかなくとても割高であった。

なぜ、大学生の僕がスイートクラスに乗れたかというと、雑誌の抽選に応募して偶然当たったのだ。スイートクラスに乗ったのはその一回きり。ご存知の通り飛行機はもう飛ばなくなってしまったからだ。だけど、僕はどうしてももう一度乗りたかった。あの、空からの景色の美しさ、シャンパンの味わい(もちろんノンアルコールであったが)、キャビンアテンダントの素晴らしい待遇をもう一度味わうことなく死ねなかった。


すぐにスマホでフライト時間を確認した観光庁によりすでにスイートクラスが予約されている。料金は支払い済みだ。それとこちらでの買い物はタイムシフトビザがクレジットカードとして働くようだ。もちろん当時のお金を使えば問題ないのだが。


6:00 羽田発


急がねば。モノレールはすぐに着く。僕は羽田空港の内部構造を全て把握している。僕の職場なのだから当然だ。

そそくさと手続きを済ませ飛行機に搭乗した。


全ては完璧だった。何度も何度も四十の俺はこの時をイメージしていた。


出発まで待ち遠しい。エコノミークラスだと続々と乗客が入場してくる頃だろう。しかしここはエコノミークラス、落ち着いた雰囲気が漂う。


飛行機はゆっくりと動き出す。チョロチョロと飼い立ての金魚のように滑走路を動き回る。

十分後、離陸が始まる。

「お客様失礼します。手前のテーブルを閉じてしばらくお待ちくださいませ。」


そしてくる、あの加速、あの衝撃。何回飛行機に乗っても慣れない、水平飛行までの不安。僕は二十年の時を経て大好きだったあの感覚を取り戻した。


ロサンゼルスまでのフライトは約十時間。興奮に胸が高鳴る。シャンパンはやはり高級品であるが、大空で飲むからより格別である。同じチェーン店のカフェでも六本木や京都で飲めば駅前の店舗より味わい深い。キャビンアテンダントの可愛いというより恐ろしいほどに整った顔立ち。美人すぎる女性を見るとその裏に隠れた何かしらへの恐怖が心に湧き上がる。性格が悪いとか腹黒いとかではなく、相手の容姿の戦闘能力にひれ伏してしまう。飛行機で見る映画も一味違くてとても良い。至福。家族と過ごすのとはまた別な幸せがここにある。



そのまま僕はリクライニングで眠りについた。目を覚ました後の予定など想定もせず、今の至福を枕に。


飛行機は旋回状態に入った。右の翼が指す方向に大地がいて、ロサンゼルス国際空港を中心に同心円を描く。エコノミークラスでは多くの人が窓の外を眺め、長いフライトの終わりをさぞかし喜んでいることだろう。だが、僕はむしろ寂しく思っている。このスイートなフライトがあと数分で終わってしまうのだ。


ガタン、ガンガン、ガン。


この着陸した際の安心感はなんとも捨てがたい。いくら飛行機が安全な乗り物であると理論的に説明しても、人類は本能的に空を飛ぶことに恐怖を感じるのだろう。

そしてまた乗客にはどこに向かってるのかもわからぬまま、轟音を立て巨大な金魚はゆっくり動く。

やっとロサンゼルス国際空港に到着。大勢の乗客は機内モードを切り空港や飛行機の写真を撮っている。綺麗に撮れた写真をインスタグラムにでも投稿するのだろう。この時代の人間にとって飛行機とはそれほどまでに特別な乗り物だったのだ。僕も手持ち無沙汰であったため何気なくスマホを開く。


自分がいつかも分からぬほど前に設定した意味のないロック画面が開く。アルバムの写真でもなんでもなくデフォルトの設定にあった宇宙のような写真。


「さすがに無愛想だから変えたら? ほら家族四人の写真もあるよー」


妻にそう勧められ一時期家族の写真にしていたこともあったが、ある日スマホを紛失したため、プライバシーに関して不安に感じ、以後顔が写ってる写真にするのをやめた。


意味のないホーム画面を何も考えず呆然と見つめている。

ベルトコンベアの一角に佇む。自分の荷物がせてくるまではいささか不安で、同じ待ち時間であっても鋭敏になった心を刺激し、ストレスを増やし耐性を減らす。それを紛らわすために、やることがなくてもスマホを開いている。

やっとシューターから僕のスーツケースが出てきた。日本の空港に比べるとだいぶ出てくるのに時間がかかる。


フライトが終わった時点で目的の半分以上は達成していた。ロサンゼルスに来たのも、学生時代の思い入れがあったというだけで、特に行きたい場所があるわけではない。学生の時は多分、観光雑誌を見て有名どころを見て回ったが、記憶はぼやけていて、多分、そこまで印象に残るような感動的なものはなかったのだろう。

英語で書かれている観光雑誌を手に取る。観光地を知るだけでなく、街の地図だったり、バスとか電車とか、いろいろな情報が詰め込まれているやつ。



まず、ロサンゼルスといえば行くところはハリウッドかディズニーランドに決まってる。僕は迷わず、バスターミナルでディズニー行きのバスに乗った。

ディズニーランド。そこは日本では夢の国して扱われる。現実のしがらみを忘れて子供心にその世界観を楽しむことができる。

しかし、僕はディズニーを夢の国とは呼びたくない。人間の、五感に訴え、強引すぎずに訪れる人をその世界に取り込み、快楽に没頭させるその手法は、人間の英知の結集、そう、まさしく芸術作品なのだ。人間の営みの結集した超現実的な創造物なのだ。決して夢などではない。

そんなことを妄想しているうちに、ディズニーに到着した。物事を深く考えすぎてしまうのが僕の性分だ。


ウォルトディズニーとミッキーが手を繋ぐ場所で多くの人が写真を撮る。僕は写真は必要でないのですぐに通り過ぎてしまった。日本人には不気味に映る観覧車の真ん中にあるミッキーを横目に、あちこちを歩き回り、世界初のディズニーの芸術を夢ではなく、現実の人間の作品として教授した。


そろそろ土踏まずが痛くなってきた頃であったか、日本のディズニーリゾートに慣れているせいであろうか、ロサンゼルスのディズニーは城を中心に円上に広がるため入り組んだ形の日本のディズニーランドに比べて単調で、飽きるのも早かった。

僕は早めにテーマパークを出て、ハリウッドに向かった。


ロサンゼルスは雨が少ないため映画の撮影に適している。そうして発達したハリウッド映画は二〇四〇年でも絶大な人気を誇っている。

突き刺さる日差しを遮りながらたどり着いた丘には、今まで僕の心に刻まれてきた数々の映画を想起させると同時に、これからも人々に感動を与え続ける潜在能力を感じさせた。映画とはハリウッドに存在するわけではない。人々の記憶にしか存在し得ない、それでもその僕たちに見上げることを求める丘は、映画の存在を感じさせる。

人は故郷を愛し、黄金の幼少時代を想起させる。

そのような力がこの地にも存在するのである。




夜になり、街で家族へのお土産を探している時だった。

道の角にたたずむ小さな雑貨店があった。

なぜかはわからないがとてつもない魅力を感じる。懐かしいような、安心するような。


重い扉を開けて中にはいる。店の中には誰もいない。

ただ壁に大きな、ダリの「記憶の固執」が飾られている。

ぐにゃぐにゃに曲がり溶ける時計たち

この絵の不気味さ、神秘さが僕の目より先に指先に響き渡り波を起こす。


僕は慣れた手つきでスマホを開き、すぐに画面を見た。


ようやくわかったんだ、あの時空港で感じたのは不安なんかじゃない、明確な原因のある恐怖なんだと。


見慣れた僕のスマホの画面には三月一日と書かれていた。





第二章


二〇四〇年 三月一日



夫が遅く帰ることはしばしばあった。仕事への責任感の強い夫は、勤務時間の短縮が進められている昨今でも、遅くまで仕事をすることに抵抗を持っていなかった。

しかしタイムトラベルという特殊な旅行をしていて帰りが遅いのは話が別だ。徐々に不安が強くなり、念のため、タイムトラベル局に電話してみた。

「もしもし、昨日タイムトラベルに出発した山本の妻です。山本がまだ帰ってこないのですが、まだそちらにいらっしゃいますでしょうか」

少し早口になってしまった。

「こちらは受付の河合です。担当の者に変わりますのでしばらくお待ちください。」

「あ、はいすみません、お願いします」


不安のBGMに呼び出し音がなる。アラームのような不快な音ではなく耳に心地よい、まるで歯医者にでも流れていそうな曲だが、何回も繰り返されると徐々にストレスになる。

プチっ、という破裂音を合図に信号が繋がれる。

「お電話代わりました。タイムトラベル局安全管理課の田中と申します。山本様はまだタイムトラベル中でおかえりが少し遅れるもようです」

キャリアウーマンらしいキビキビした機械的な声だった。

「そ、そうなんですか。何か機材などのトラブルがあったのですか?」

「その点について詳しく説明したいので明日観光庁にいらっしゃっていただけませんか」

「今日行きます、いいですか?」

「はい、構いません。受付で安全管理課の田中とお伝えください。予約番号は、、」

「はい、わかりました」

不安は無限に増大する。不安が不安を呼び、重なり合って心への負荷は重くなる一方。

 

子供を連れ、すぐに霞ヶ関に向かった。郊外のニュータウンの我が家から霞ヶ関まで電車で四十分。

電車とは人の感情を表象する。表象するというよりは滲み出た感情の受け皿となる。デートに行く人は緊張感と高揚感、バイトに行く人は憂鬱感と疲労感、電話で遅刻を謝罪して焦りを隠せない人もいる。そんな中、私は不安感をぬぐえず、いつもは電車内でも大声で騒ぐ利奈でさえ、私の雰囲気を読み取り、黙って窓の外を眺めている。裕也はいつも通りスマホを見て、難しい顔をしている。


霞ヶ関は二つポケットの凛々しいスーツと引き締まったネクタイの人たちで溢れている。三月になったばかりで薄手のコートで身を覆う人も見られる。おそらく、お昼休憩が終わる頃なのだろう。

軽くて生暖かい春先の日差しをひゅるひゅると抜け、重苦しい観光庁の建物に入った。


郵便局のような人が多いながらも落ち着いた雰囲気のなか足早に総合案内へ進んだ。呼吸をするたびに、非日常的な、新車のような、確かに無害でしつこさはないけど、心地よさや安心感を全く含まない匂いが流れ込む。

「すみません、先ほどお電話で連絡した山本です。安全管理課の田中様はいらっしゃいますか。えっと番号は」

「あ、お話は伺っております。こちらへどうぞ」


広々としたオープンスペースとは対照的な堅くて息苦しい廊下を案内された。刺々しいほど青白いLEDライトは私の心の影をより一層強く映し出した。

前から非常に引き締まった細身での長身の女性がやってきた。黒のヒールから突き出されるコツコツという打撃音は、直線的な廊下の反響でその存在感を一層強調する。

「こんにちは山本様。私が田中でございます。お子様はそちらの三田が責任もって預かりますのでこちらへどうぞ」

「はい、では裕也と利奈をお願いします」

「はい、お任せ下さい」

しっかりとした口調で三田さん言った。

「裕也、莉奈あっちのお姉さんについて行って、迷惑かけないでね。裕也、ちゃんと莉奈を見ててね」

「はいはい」、「はーい」


「では、山本様こちらへお越しください」

「はい」


広くて遅いエレベーターが私の憂鬱を持ち上げていく。


エレベーターの到着音は動揺の波を際立たせる高音。

「こちらでございます。お足元にお気をつけください」

1階の雑踏感とは異なり、社員の数も少なくなってきて、まるで中央線で副都心から丸の内を訪れたかのよう。

日差しを受け入れるガラス張りの廊下はより一層私の孤独を照らす。

「こちらになります」

重厚感のある低音のノックと、中から聞こえる受諾の声。厚いドアを超えた声は機械の声か人間の声か判別することはできないが、この田中さんが払う敬意からしてきっと生の人間の声なのだろう。

「失礼します。タイムトラベル中の山本様の奥様がいらっしゃいました。山本様こちらへどうぞ」

上質、常湿、上室な部屋の奥に、いかにも上流階級の女性が腰を据えていた。田中さんは部屋の隅へと小さく立ち、視線はその女性へと向けられた。正確に述べると、その女性の顔ではなく胸元辺り。目を合わせたり、顔を覗き込むのではなく、常にわずかに頭を下げる形。まるで半永久的な忠誠を誓うような極端過ぎず、かと言って無意味ではない長いお辞儀。そして忠誠を受けている女性はゆっくりと重そうな椅子を引いて立ち上がった。

「初めまして、タイムトラベル局局長の三井です。まず結論から述べさせていただきます。山本様の旦那様は二十四時間以上たった現在もまだタイムトラベル中でございます。しかし、山本様の旦那様の健康状態はいたって良好でございます。どうかまずは安心なさってください」


私が呆然と立ち尽くしていると、秘書らしき方がお茶を持ってきて座るように促した。

局長の地位を持つ三井さんが秘書の接客を待てないほどに焦っているのがわかった。表情が発する言葉に先行している。

「このたび異例ではございますが、タイムトラベルが少々長引いております。どうか落ち着いてください」

落ち着いてほしいのはあなたの方だ。明らかな早口で論理がめちゃくちゃだ。

「主人は無事なんですか?何があったんですか?」

私も整理ができず、敬語さえも忘れ、はっきりとした事実の内容だけを追求する。前振りや文脈はいらないから情報だけがほしい。

お茶は波を立て、湯気が震える。

「すみません説明が不足しておりました。まずタイムトラベルについて説明します。実はタイムマシーンは現実には存在しません。私たちの呼ぶタイムトラベルとはVR装置による仮想体験なのです。つまりタイムトラベラーは機械の中で眠っていて、夢を見ているような状況なのです。ですから山本様の旦那様はこちらで眠っていて、健康状態に異常はございません」


「主人はここにいるんですか、、今すぐ会わせてください、お願いします!」

私の声色に合わせてお茶の表面は一列になって中心へと向かう。

「すみません山本様、装置は政府の重要機密なのでそれはできません。」

「政府の重要機密って、私の主人が帰ってこないんだから安全確認ぐらいさせてください」

「できません。落ち着いてください」

「落ち着けるわけないでしょう」


その時、というより正確に言うと、二人の言い合いを遮っているわけだから後から来た。でもそれが私たちの口論を覆い隠したから「同時」だと錯覚した。ガラスに映る私たちが波を打ち、冷めたお茶はテーブルからこぼれ落ち、観葉植物が倒れ、軽そうな土が床にばらまかれた。


「山本様こちらへ、急いでください」

秘書はいくらか呼吸が乱れていたが、冷静に、適応的に、腕を広げて私たちの二人の背中を支え、頑丈そうな高めのテーブルの下に素早く誘導された。

唸りはしばらく続き、私たちに束の間の隙間風を与えたのかもしれない。



揺れの終わりはむしろ私たちに冷静さを取り戻させた。私は部屋の隅にたたずみ、秘書ともう一人の従業員が崩れた机や椅子を整理していた。折れた観葉植物は外に運び出され、土はちりとりに回収された。簡易的修正ののち、再び本題に戻った。

「山本様、私どもの不手際でこんな目に合わせてしまって申し訳ございません。しかしお気持ちはわかりますが、政府の規定で民間人を装置室に入らせることはできないのです。どうかご理解ください。」

下手に出られるとぐうの音も出ない。

「わかりました。主人は無事なのですね?」

「はい、それだけは責任を持って言えます」

「では何があったのか詳しく聞かせてください」

「まず先ほど申し上げた通り、山本様の旦那様は仮想現実で西暦二〇二〇年を体験中です。しかしご存知の通り山本様の旦那様はまだ眠りから覚めておりません。ですが、これは機材のトラブルではないと断定できます」

「なぜですか?」

「装置は故障に備えて予備のVR装置が常に作動しており、さらに異常感知センサーも作動中です。しかし山本様の旦那様が利用されている装置にはどんな細かい部品にも異常が見受けられません」

「では、なぜ主人は帰ってこられないのですか。」

「それは旦那様自身の内面的問題が原因だと考えられます。旦那様と他のトラベラーの唯一の違いは、旦那様は脳波が一定して強い状態にあることです」


「どういうことでしょう」

「装置は正常に作用している。二十四時間経過後から脳波を出し刺激し続けているのにもかかわらず、昏睡状態から覚醒しない。これは山本様の旦那様自身が無意識のうちに外部から脳への刺激を遮断していると考えられます」

「そんなことが可能なのですか」

「可能です。昏睡状態といってもタイムトラベラーの脳はかなり活発に働いております。山本様の旦那様は東京大学理学部物理学科卒業で学生時代には何度も雑誌の数学の懸賞を受賞しております。脳波は知的活動が活発な時に強く放出されるため、頭脳明晰な旦那様は人より脳波が強いと予測されます」

確かに普段日常的に接していると気づかないが、夫は社会的にはかなりのエリートだ。会社からも多くの賞状が送られてくる。

「彼の脳波と精神状態が合わさって、脳波が遮断されているとタイムトラベル部の技術課は指摘しております。私どもにとっても初めてのケースでございますので、責任者である私が慌てふためいたことをお詫び申し上げます」


「精神状態とはどういうことですか」

「そうですね、大変申し上げにくいのですが山本様の旦那様は元の世界に帰ることを強く拒絶しているのだと思われます」

「へ?」

「どんな些細なことでも構いません。旦那様は何か不満を抱えていませんでしたか。会社のことでも人間関係でもなんでもいいので」

「そんな急に言われても」

地震の喧騒の後、すぐに用意され、茶葉が泳いでいたお茶も、すっかり落ち着きを取り戻し、黄色く濁っている。


私の目に映る夫は、仕事も子育ても円滑にこなしていた。夫婦関係も毎日たわいもない話で盛り上がったり、冗談を言い合ったりしていた。確かに三十代後半になってからは、セックスレス気味ではあるが、もともと夫は男性にしては性欲が穏やかなため(多分。そんなに恋愛経験も多い方ではないからよく知らない)、肉体関係に対して不満に思っているとは考えにくい。どちらかというと三十を過ぎてからは私から求めることが多かったきがする。


「すみません、ちょっと思いつかないです」

「そうですか、失礼なことお尋ねして申し訳ございません」

「いえいえ」

「では本日の方はお時間もお時間ですし、そろそろ切り上げましょう。あ、渡しそびれていましたが、これ、私の名刺です。何かございましたらお電話ください」

「はい、わかりました。ではこれで失礼します」

「はい、本日はありがとうございました」


不安とは異なる憂鬱を抱えて部屋を出た。

あの鬱蒼とする都会が映るガラス窓の上には飛行機雲が伸びていた。





第三章




よく考えれば、もうとっくに二十四時間は過ぎている。現実となった過去の世界に夢中になり二重の意味で「時」を忘れていた。なぜまだ元の世界へ帰っていないのだろうか。感覚が空想的になっていて、不安に襲われるより先に、何があったのだろうと原因が気になった。まるで電車が止まった時に、人身事故とか車両点検とか、車内アナウンスが流れるまでは、ソワソワしてあたりを見回してしまうかのように。

とりあえず困った時はビザにアクセスしよう。

コードをスマホでスキャンする。

しかし、スマホの画面はカメラのまま。

逆光なのか。場所を変えてもう一度試す。

しかし結果は同じ。いくらやっても同じ。

ビザの故障はありえない。故障ならばすぐに当局からの連絡と場合によっては緊急送還される。

もう一度よく状況を整理する。

確かにタイムトラベルの説明を受けた時、現実の世界で二十四時間経つと自動的に送還されると言われた。しかし、予定時刻から五、六時間以上たった今でも僕はロサンゼルスにいる。二月三十日とは時の流れ、暦には存在しない時間。つまり僕がいるのはパラレルワールドなのである。もし、タイムマシーンに不具合があるとすれば、ビザを通した対処がなされるはずである。ビザの故障もありえない。


考えられるとすれば(JALの後身企業で働く僕には確信でもあったが)、多分僕は二月三十日の日本から時差の関係で、二月二十九日のロサンゼルスにやってきてしまった。そして二十四時間経った今は三月一日なのである。つまりパラレルワールドから、現実の、実際に存在した二◯二◯年の時間の流れに入ってしまったのである。


とりあえずどうしようもなくなった僕はハリウッドの方へ戻ってみた。

またあの店に戻ってきた。まだ明かりがついている。

重い扉を開けると今度はちゃんと店主がカウンターに座っていた。

そして、道路と反対側の大きな壁にはダリの絵がある。

「いらっしゃい、またきたのね」

店主は英語で言った。さっきも何処からか見ていたのか。確か店内に人気はなかったはずだが。

「すみません、少し困ったことになっていて。遅い時間ですが少し店内を見て回ってもいいいですか? 時間を潰して落ち着きたいんです」

「もちろん構わないよ」

少し不気味な店だが時間を潰すにはちょうど良さそうだ。

「悩める若者か」

「悩みというよりは困惑なのですが。それに若者でもないし」

「で? 何に困っているの? 私はこー見えて人の相談に乗るのが好きだよ」

正直に話すつもりはない、未来から来たなんて言ったら頭がおかしい人だと思われる、というのが一般的な考え方だろう。

しかし、僕は一般人じゃない。これは選民思想でも自惚れでもなく、僕はここに、この世界にいてはならない、違う時空にいるべき人間だからだ。それに今すぐ頼れるのは目の前のこの初老の店主しかいない。

「今からちょっと信じられないような話をするのでとりあえず最後まで聞いてください」

洗いざらい全てを話した。未来の、二◯四◯年こと。タイムトラベルのこと。そして二月三十日のこと。さらには僕自身のこと。話すというよりは、炊飯器に溜まった濁り水を水道に捨てるような感覚だった。


「なるほどね。まあ、なるほどって言ってもあまり納得していないけど」

「ですよね、、」

「でもまあ君の言いたいことはわかった。『時間』か」

「そうなんです。時間が移り変わってしまったようで」

「むむ、時間が移り変わる?」

「はい。こっちの、現実の時間に来てしまった」

「ううん。私はそれは違うと思いますがな」

「え?」

突然の流れの転換に驚き顔を見上げる。店主は二人分のカップをもち、その両方から白い湯気が湧き上がっている。

「コーヒーでよろしかったかな?」

「あ、すみません。ありがとうございます」

店主は横のガラス棚からソーサーを二個取り出す。

「こちらにかけてください」

木の丸いすを差し出す。地面と椅子の足が擦れる音で、不快な轟音が奏でられる。

「いただきます」

熱いコーヒーを口先ですする。本来ならば苦いはずのブラックコーヒーも人間の味覚が味を読み取れる温度を超えていて、熱さと湯気の水分しか感じられない。

店主が会話を再開するのを待つ。先ほどの会話の流れを考慮すると店主が「違う」と言ったのだから彼から口を開くべきだろう。

カップが置かれ、金属ほどは不快でなく、木材ほどは心地よくない音がする。

「名前はなんだっけ?」

「はい?」

「君の名前」

「あ、山本真也です」

「山本君は、元の世界と時間がずれてしまってここにいると考えているわけだね?」

「はい。え、何か違うんですか? もっと他の理由が? タイムマシーンの故障とか?」

「いや、そういうことではない。私はタイムマシーンの知識など全くないし、未来の世界に存在するかも半信半疑だ。ただ君の話を聞いていると気になることが一つあってな」

「なんですか?」

「時間。」

「?」

「時間について勘違いしてないか?」

「時間、ですか? なんかおかしいこと言いましたっけ?」

「時間は、時刻じゃない。数字では表せない」

年配の人の風格が漂い、店主の目は焦点が絞られ、まっすぐにダリの絵を注視する形になった。おもむろに何かを語り出す空気が流れたため、僕は返答をやめ、耳を傾ける。

「勘違いしている人が多いが、時間は時刻ではない。数字では表せない。日付とか何時何分とか、全て人間が便宜上区切った単位にすぎない。それは決して時間じゃない。時計が止まっても時間は流れる。時計が発明される前も時間は存在した」

まるで物理の入門書のように淡々と説明され、分かったような分からないようなどっちつかずの心から出る表情を抑える。

「それは今、物理学における時間の話をしているのですか?」

「違います。アリストテレスが生まれる前から時間はあったはずです。物理学が生まれる前から時間は存在していた」

「では、なにを」

「人間の感覚です」

「え?」

「時間とは人間の感覚ではないでしょうか。アインシュタインが言うように時間は主観的なもので」

「つまり、時間とは、過去・現在・未来、の三つから構成されると言うことではほうか」

「そういうことになります。でも、その三つに明確な区切りはありません」

「え、区切り?」

「だって考えてみてください。あなたは現在を語ることはできない。語ろうとすれば、瞬時にその事態は過去になってしまう。つまり人間には現在を表現することはできない。現在を感じようとしても、それを解釈する過程で過去となってしまう」

「確かに現在が曖昧なものだとしたら、過去や未来もぼんやりとした概念になるな。そうすると過去と現在、現在と未来、はたまた過去と未来の境界さえも曖昧になる」

確かにちゃんと聞けば彼の言いたいことは分からなくもない。時間は数字では表せないという意味はそういうことか。

カップの半分になった焦げ茶色のコーヒー。もう湯気は見えず、一気に飲み干す。

「おかわりするか?」

「あ、いえ大丈夫です。ごちそうさまでした」

店主はまだ熱さの残るカップを、シワの深い両手で抱え、奥の部屋へと消えていく

僕は頭の中でもう一度暗唱する。店主の言った言葉の一つ一つ。彼がなにを考えていてなにを言いたいかを先回りする。

パタパタパタ。店主が戻ってくる。平べったく軽くゆるい足取りで。

「はい、これロールケーキ。コーヒーと一緒に出そうと思ってたら忘れてた」

黄色の生地のスポンジにの中に茶色と白が混ざったような、まるでミルクティーのようなクリームが顔を出す。

二本足の通常より細いフォークは、ほとんど力を入れていないのにケーキを切り裂く。それほどまでに質量を感じさせない柔らかさ。

まずは一口を包んで、店主の様子を伺う。彼はゆっくり味わう訳でもなく、どちらかというとモグモグと大きいスポンジを小さくして飲み込んでいく様子だ。

口の中を空にして、会話を再開する。

「では、人間が寝ているときは時間は流れていないのですか? 寝ている人にとって時間とは止まっているものですか?」

店主は僕の話を聞いているのか聞いていないのか分からないような面持ちで最後のピースを口に入れ、ロールケーキを食べ終わる。

その静かな気まずさを誤魔化すためにケーキをいじくり、ゆっくりと咀嚼する。

「そうだね、僕はどちらかというと流れていると思う。朝起きたときは、寝ている時の記憶がないだけ時間の経過を感じるだろ? そしたら寝ているときに時間を感じられないだけで実際には時間は流れているんじゃないか? それを後から取り戻すという形で」

「でも、短い昼寝でもたっぷり寝た気分になるときもあるし、ちょっとだけ寝たつもりが時計を見ると長時間寝てたってこともありますよね?」

僕は自分の反論に自信があった。相手の主張した内容から誤りを模索する。別に店主を打ち負かしたい訳ではない。ただ曖昧な主張なら破壊しなければならないし、強力な主張ならその実力をもっとみたい。

「ぅ」

店主が何かを話し出そうとする。言葉になる前の音を聞き取った僕は集中して耳を傾ける。

「君はやはり陥っているようだね」

出てきた言葉は、先回りしたイメージから大きく外れていて、「え?」という驚きの声すらうまく出せず、「ぁ」というような声が喉の変なところから出た。

「それは時計を基準にした時間だろう。何時間寝ちゃったとか起きたら何分経ってたとか。私が言いたいのはそうやって数値化された時間ではない」

きっと店主は僕を攻撃しようとしたのではない。ただ自分の主張を強調したかっただけだ。だけど、それが核心をついていたからか、とても辛辣に響き、心の枠組みを超えてかっとなってしまう。

「だって、当たり前じゃないですか。さっきからあなた何を言ってるかよく分からないですよ、抽象的なこと言って誤魔化さないでくださいよ」

気づいたら前のめりになっている。僕はもう四十歳であるのに、二◯二◯年に若返ったかのように冷静さを失い、感情の波に乗って口を動かす。

「結局それってレトリックじゃないですか。逆説的なこと言って自分に酔ってるだけじゃないですか」

店主は目を細くしたまま、食べ終わった僕の皿を手元に寄せて、自分の皿の上に重ねた。皿と皿が空気を挟んでいき、最後にカチャンと耳に刺さる金属音が鳴り密着する。

「話し合いだ、もっと冷静に、相手に敬意を払って行おう。今夜は遅くなっても構わない。ホテルは私がとっておいてあげよう。私が自宅に帰るときに君をホテルまで車で送っていく」


ここが二◯二◯年の世界だから、本当に精神年齢や気力までもがカムバックしたのかもしれない。

アルコールがなくてもお互いの思想に言及し心の奥底まで出入りする議論が夜遅くまで続き、気づけば朦朧とした意識のまま、歯磨きもせずに埃っぽい乾燥したベッドの上で瞼を閉じていた。









第四章


夫が、隣の布団が、無機物のまま一人だけで起きる。その布団をなんどもゆする必要もなく、効率的に支度を進める。子供達は寝るのも早いので勝手に起きてきて、散らかしたパジャマを回収し、朝食を用意する。

朝食の量も半分でいいのでトーストに目玉焼きを乗せたのとホットミルクで済ませた。

時計の短針が持ち上がっていく。三月二日は月曜日。新しい周期の始まる新鮮さと憂鬱さを抱え、週末への感傷も捨てられないまま、電車は走っている。私たちの郊外の住宅地では保育所が不足していて、利奈が入園できたのは3駅先の保育園。小さい子供に電車の窮屈さを与える罪悪感を背負いながら、利奈の身長には使いづらい改札機まで見送る。そこからは保育園の先生が迎えに来てくれ、集団で登校する。あの先生は一体何時に起きているのだろう。


何気ない帰り道でも新しい発見があったのはいつの時か。小学生の頃は毎日が新しかった。背が伸びるとともに世界の見方も変わり、自分が大人になっていくことへの喜びを噛み締め、嫌なこともすぐに忘れ、ただただ毎日を生きていた。

思春期に入ると、単調な日々に耐えられなくなり、スマホで新しい刺激を求め、異性のぬくもりを欲し、自分が住む田舎を嫌悪し、ひたすら都会へ出たいと思っていた。東京に行けば何かできる、そんなことを思い浮かべながら、高校では東京に進学できるように必死に勉強した。極力バカとは関わらないようにし、周りを見下し、自分という物語を美化しながら。

無事に東京の大学に進学した私は、すぐに現実を目の当たりにした。テレビに映る東京は現実の東京でないことに絶句した。田舎の学生が一人暮らしをするのは、ごみごみした古くて狭いアパート。毎日満員電車に揺られながら通学するも大学の授業は退屈でテスト前以外に勉強することはほぼない。

友達はできることにはできたが、いつもおしゃれな服を買いに行ったり、カフェのパンケーキを食べにいくだけ。一人暮らしで生活の苦しい私はとてもついて行けない。

だんだんと友達づきあいも面倒になり、一人で読書をすることが多くなった。大学の図書館は朝早くから夜遅くまで入れるため、住環境の悪いアパートより私の滞在時間は長かった。受験勉強に翻弄され、ご無沙汰だった読書は私の内側へしっとりと侵入して来た。

特に小説は私の興味心を鋭く突き立てた。川端を読めば白銀の世界に行きたくなり、井上靖を読めば日本海に行きたくなった。小説は私に旅の切符を与えてくれた。

そうして私は資金調達のためバイトに専念した。居酒屋では客の理不尽さにも耐え、朝早くにはファミレスで注文を取っていた。

もちろんバイトは楽ではなかったが、夢のための努力として美化して乗り越えていた。

資金が集まるとすぐに遠出した。日本の大学教育は崩壊状態だったが、時間は無限にあった。教育機関というより、二十歳の若者に無限のチャンスを与える場であった。

小説の舞台は私の世界になっていった。太宰を片手に、純白の波と紺碧の水のせめぎ合いを見て、三島を片手に、賑わいに隠された京都の裏側を覗いた。

私は旅をするときには絶対に一人である。一人なら旅先で人に話しかけやすいため刹那の出会いが生まれるし、何より余分な時間がかからなくて済む。

私は旅先で出会った人とは連絡先を交換しないようにしていた。もう一生会えない、その思いが相手の大切さを肌からひしひしと感じさせ、旅の最中の関係がより濃厚になる。そう、幾度となく出会いを重ねては別れ、そして忘れていった。

でも一人だけ忘れたくない、もう一度会いたいと思える人がいた。私は掟を破り、ラインのQRコード画面を開いた。

その日から、また異性を求める心が蘇ってきた。でも以前のような好奇心的な、高揚感的な愛などではなく、打算的というか、自分の心を癒すための異性が欲しい。安心して依存したり依存されたりする存在が欲しい。そういったわがままな形でも、自分の中で異性を求める心が芽生えた。

純粋に相手の関心を引きたかった。愛情を表現して欲しかった。私に動揺し、私に影響され、翻弄され、私のために人生を左右して欲しいと思った。

あれは多分、いつだかの長期休暇だった。バイトもやめて、東京ですることもなくなったため、西の方まで電車で移動してきた。石ころのような島々が散らばる瀬戸内海を超えると道路は高い斜面を走り、さらに険しい山々が目に入るようになった。

山の上の小さな小さな松山城が目に入る、建物を詰め込んだ温泉街で疲れを癒した後、四万十川の屋形船で、食事とお酒を楽しんだ。天ぷら料理で油をまとった口は、重さのある日本酒のアルコールもすんなり受け入れる。

当たり前かもしれないが、屋形船に乗っている人たちは大方知り合い同士で乗船していて、それぞれの席で会食を楽しんでいた。私はひとりぼっちであったが、四万十川を見たかったのと屋形船に乗りたかっただけだから、たとえ話し相手がいなくても何の不満もない。

ただ世の中にはどうしても自分の基準だけで物事を判断し、慈善行為だと勝手に思い込み、おせっかいをやく人間がいる。アルコールが入るとその傾向はさらに助長される。

「やあ、君一人? 隣座ってもいい?」

偶然にも私の隣の座布団は空いていて、そこを指差した長髪でヒゲを生やした、それでも確かに二十代中盤の男性が、私の顔を覗き込んでいる。

「あ、え、えっと、は、はい」

一人で夢想にふけっていた私は我に帰るつもりで、冷静な状況判断ができていない。

「じゃあ失礼します」

よっこらせ、という掛け声とともに腰を地面につけ、あぐらをかいた。

「今日は何、旅行?」

「あ、はい、なんか、大学が休みなので」

彼は私のコップにお酒を注ぎながら言った。

「あ、大学生なんだー。大人びてるから社会人かなーと思って声かけてみたけど、、もしかして嫌だった?」

「あ、いえ、一人でしたし、それに話し相手もできて、ちょうどいいというか、」

長髪の顎髭。風体では、一歩距離をおいていたが、話す口ぶりやペース、声の抑揚が、スーっと体内に入ってきて、全く知らない間柄なのに、会話をすることに不自然さを全く感じない。相手の言葉に応じて摩擦なしに反応が出てくる。


私はお酒が弱い方で、徐々に酔いが回りふわふわとした感覚とともに、口数も多くなっていく。

「長島さんは普段何してるんですかー?」

長島とはこの長髪男の名前だ。

「俺な、こう見えてバンドマンやってるの」

「えー、バンドマンですか? ボーカルですよね?」

「え、何でわかったの?」

「だってめっちゃ声綺麗だもーん」

お酒が入っているからか、いつもは他人に無関心な私が、女性らしい話し方になっている。心なしか声のトーンもいつもより高い。

「いやーでも大学生いいなー、自由で。どこの大学? 東京?」

「はい、東京の大学から来ましたー」

「へ~、こりゃまたなんでわざわざこんなに遠くへ?」

「わたし、小説を読んでその舞台を回るのが好きなんです。大江健三郎のフットボールアワーを読んで四国に来たんです」

「へ~、本好きなのかー。知的だなー。俺なんて漫画しか読まないよ」

「漫画いいじゃないですかー。本だけじゃなくて映画や漫画も好きですよー」

「漫画は絵ばっかりだからパラパラ進むけど本ってなかなか進まなくて途中で挫折しちゃうんだよねー」

「ああ、わかるわかる。結構慣れが必要かも」

「好きなアーティストとかいないの? 本読んでる時とか音楽聴いたりしない?」

「あー、本読んでる時は洋楽流したりするかもー」

「洋楽ねー。かっこいいのはいいけど、なにせ英語がわからないからなー」

よいしょ、という掛け声とともに長島は立ち上がる。

「え、どっか行っちゃうんですか?」

「ああ、ごめんごめん。追加の酒取ってこようと思って」

長島は左手で後頭部を掻きながら、奥へと進んでいく。

自分でもビックリした。自分が喋りながら頭を傾けたり、上目遣いを何も考えずに行えるなんて。

「うーい、お待たせ」

「おかえりー、のものもー」


だんだん記憶が早送りになって、体がホカホカしてきて、自分の体重を自分で支えるのがしんどくなる。お互いに話を交わして親密になっていくけど、内容を的確に記憶できていない。


「あはは、そんなことないですよ」

表情が緩んでしまう。

「いやいや、笑った顔がすごく美人だよ。やべ。女子大生にこんなこと言ったらセクハラになっちゃうかな?」

グッと、胸から糸のような細いものが抜かれる感覚が走る。

「そうですね、通報しておきます」

顔の緩み方だけでその言葉は明らかに冗談として伝わっている。

「そっかあ。また親父にぶん殴られるなあ」




「お客さん、お客さん。もう終点ですよ」

客のいない電車に座っていた。目的地はない。

「わ、すみません」

私の実家から三十分以上かかる駅にいた。

だいぶ眠り込んでしまった。カバンを持って立ち去ろうとすると少し足がふらついた。電車は完全に停車しているはずなのに。

あと、膝の上に抱えていたカバンには、あたたかくて手触りの良い水滴がついていた。




第五章



ルームサービスのコーヒーを片手に今後について考える。とりあえず明日占い師の店主に相談することが得策そうだが、また抽象的なことを言われるような気もする。



時差ボケもありコーヒーを飲み終わってそのままソファーで眠ってしまった。目が覚めるとまだ街は夜がおりていた。することもなく、やることもなく、シャワーを浴びちゃんとベッドで寝なおした。


鋭い日差しが窓を突き抜け、体を照らし出す。寝過ぎた身体は睡魔ではない気だるさをまとい、ベッドから出ることを許さない。

十分程度ゴロゴロし、さすがに起きなければならないと悟った身体はバランスを取り戻せないまま着替え始めた。


一時間程度ダラダラすると身体は外気を欲した。チェックアウトを足早に済ませ、昨日歩いた通りを巻き戻す。

昨日と同じ景色、昨日と同じ匂いがする街道。

二度目に通る道は初めて通る道より短く感じる。

昨日と今日、1日という繰り返しは僕に周期を与える。

毎日とは日常、日々の繰り返し。

でも確かに昨日は今日でないし、今日は昨日でない。

新しいものを得て、何かを失う。


そんなことはわかっているつもりだった。しかし人間は目の当たりにして初めて無力さに気づく。

雑貨店は、ダリの絵がかかる雑貨店は、占い師の店主が熱いブラックコーヒーとほんのり甘いロールケーキを切る雑貨店が、今日にない。昨日そこに存在していた雑貨店がここにない。道の角にあったはずの、、、

それはおしゃれなパスタ屋になっていた。小さな扉には来客を知らせる鐘がついている。

僕の入店と同時に店員と客の視線は僕に集まる。この店の大きさにしては鐘が大きすぎる。

「いらっしゃいませ、一名様でしょうか」

若いウェイターがすぐに寄ってきた。

「あ、はい」

「それでしたらこちらへどうぞ」

まだランチには早かったからか、客足はそれほど多くはない。

「ご注文はいかがなさいますか」

「あ、あの、オススメで大丈夫です」

「かしこまりました」

「あ、あのちょっとお尋ねしたいことが」

「なんでしょう」

「ま、前、この店ができる前にここに雑貨屋はありませんでしたか。結構しっかりとした扉があって、こじんまりした感じの」

英語でうまく説明できているのかはわからないが、とりあえず色々言ってみる。


「うーん、ちょっとわからないですね。私がここで働き始めたのも三か月前なもんで」

「そうですか、ありがとうございました」


夢。であるかもしれない。大学の時に哲学の講義で習った。「世界は五分前に始まったということは現段階では否定できていない。五分前に初期状態としてそれ以前の記憶を持っているとすれば、」

僕は昨日の出来事、コーヒーを飲み、相談したことを夢でないとは言い切れない。

でも、夢でもいいかもしれない。夢であっても僕の記憶には占い師の言葉は鮮明に刻まれている。

そう、気付いた時には皿のペペロンチーノは無くなっていた。


「お会計は八ドルになります」

今度は鐘が強く鳴らないように慎重に扉を開いた。それでも少しは音がなる。木造の内装には穏やかな共鳴が起き、僕の退出を告げた。


特にやることなくね。それが僕の心境だった。家族のために帰らなければならないことはわかっている。でも、かと言って何をすればいいのか見当もつかない。

政府がきっと何か対策を練ってくれる。僕はそれを待つだけだ。

せっかくアメリカにいるのだから、もっと観光しよう。

僕はすぐに観光案内所に行った。三月のロサンゼルスは多くの観光客で賑わっている。

電光掲示板を見るとラスベガス行きの直通バスがあるのがわかった。バスで行くのは少々時間を食う。調べて見ると飛行機もあるが、それなりの値段だ。

僕は財布と相談してみようと思ったが、ここで重要なことに気がついた。

「ビザのクレジット機能は二月三十日でないこちらの世界でも使えるのだろうか」

僕は現地のアメリカドルをある程度持っていたので、先ほどまでは全て現金で支払いを済ませていた。しかし何日もこっちにいなければならないとなると、現金は底をつく。

試しに、すぐそこにあるパン屋でドーナツを買ってみる。最悪、カードが使えなくても現金で支払える価格だ。

「カードでお願いします」

「はい、かしこまりました」

いくばくかの緊張感が走る。

「この台にスキャンしてください」

「はい」

震える手を抑えてカードを振りかざした。

ビビ、ビビ。

不快な否定の音がする。

「すみませんお客様、こちらのカードは当店ではご利用になれません」

「はい、わかりました。では、現金でお願いします」

「二ドルになります」

この店だけ使えない、とは考え難い。多分ここはもう現実の、二千二十年の世界。未来の僕の口座からお金が引き落とされるわけない。


不安より先に焦りがよぎる。

いつ帰ることができるかもわからない、お金を確保しなければならない。

しかし十分に身分証明もできない日本人にこの地で雇用があるだろうか。

それから観光するというプランを変更し、バイト(パートタイムジョブ)を探すことにした。とりあえず、日本人の需要がありそうなリトル・トーキョーに向かった。

ダウンタウンの内部でも格段に高層ビルが減ってくる。懐かしい平屋の建物が見えてくるとそこはもう日本語が溢れている。世界最大級の日本人街。

まず目に入ってくるのは赤と白の提灯。そして高く(決して高くはないが、平屋がそれを際立たせる。)そびえる物見やぐら。こんな街は日本に存在しない、そうわかっていても不思議とノスタルジーを感じる。

やはり外国人に人気の日本食といえば寿司のようだ。寿司屋(寿司といっても海苔巻きが中心であるが外国人に合わせたテイスティングなのだろう)が多く軒を連ねる。

学生時代しばらくの間寿司屋でバイトをしていた。注文取りが主な仕事であったが、板前が優しい人で暇な時に握り方を教えてくれた。バイトで学ぶ社会経験など全く役に立たないと思っていたが、意外なところで、別の時空で役に立った。

早速、寿司屋に行ってみる。時間的には準備中なのでいささか入りにくい。


「すみません、ごめんください」

「あー、すみませんお客さん、今は準備中なんで十七時からでしたら、、」

「あ、違うんです。板前さんに用があってきたんです」

「あら、それはまたいかがなさいました?」

「えっと、僕は日本から来た山本と申します。今ちょっとバイトを探していて、学生時代寿司屋でバイトをしていて少しは握れるので雇っていただけないかと、、」

「え、学生時代?兄ちゃん今学生じゃないの?」

しまった。この世界では僕は二十歳の大学生なのだ。

「あ、日本でこの前までバイトしていたという意味です」

わけのわからないことを言ってしまったのは自分でもわかる。

「そうか。でもうちじゃ雇えないな。最近、東南アジアとか中央アジアからの留学生が多くて人手は足りてんだ、申し訳ない」

「そうですか、営業時間外に申し訳ございません」

「おう。あ、待て兄ちゃん、そんなガチな寿司じゃなくていいなら、日本人募集してる奴はいるぞ」

「え、どなたですか?どこにいるんですか?」

「えーっとなあ、ここの通りを突き当たりまで進んで、右に曲がって三軒目だ」

「ありがとうございます、お世話になりました」

運動部のような大きな声を出してしまった。僕の期待を反響させる。

「あ、兄ちゃん待ちな。これ、余り物だけど持ってけ」

それは僕の好きなサーモンの握りだった。

「本当にありがとうございます」

独特の魚臭さが香り、シャリのお酢とわさびがそれを打ち消す。

少し遅めの昼食をほうばりながら、希望の光の垣間見れる、リトル・トーキョーの中心へと向かう。

角を曲がると急に道が狭く感じる。実際に細くなったわけではなく、人がだいぶ多くなってきた。

お土産屋にはこけしが並び、緑茶が試飲される。昨今の健康志向で、日本食、とりわけお茶が注目を浴びている。大学時代の留学生の友達に抹茶を淹れてあげたら、意外にも喜んでくれたのが印象的だった。

そしてお土産屋の隣には僕の目的地があった。

日本のお寿司屋とは大きく異なるたたずまい。まるで東京の路地のラーメン屋に見える。

その店は、さっきの和風の寿司屋と違い、夕方前のこの時間にも営業中だが、さすがに時間も時間でお客は少ない。

「はい、らっしゃい、こちらへどうぞ」

「すみません、店長さんいらっしゃいますか?」

その店員は不思議そうな顔ながらも業務的に対応した。

「少々、お待ち」

店の外見とは裏腹に中身は寿司屋風に仕上げてある。おしぼりとお茶が出され、店員の威圧感もちょうどいい。


奥から、意外にも店員の中で一番穏やかそうな小柄の男が向かってくる。

「お待たせいたしました、私が店長の中津でございます。いかがなさいましたか」

「これは、わざわざすみません。私は日本から来た山本です。こちらでバイトを募集していると聞いたもので、」

「そういうことですか、では明日から住み込みで働いてもらいます」

「え。。そんな面接もなしに即決して大丈夫なんですか?」

「人のなりなど、見た目と話しぶりでわかります。他に荷物はありますか?」

「いえ、これだけです」

「じゃあ、奥に上がってください」


驚きが過ぎると、生きるための金と寝床、そして頼れる人材を確保した安心感に包まれた。これで当分生活に困ることはない。あとは帰るのを待つだけ。


あと、なんにもすることはない。わざわざ。



第六章


電車の中とか、コーヒーの待ち時間とか、そういう時にふと顔を振り返ることがある。あの時、違う選択をしていたらどんな未来になっていたんだろう、とか。

結局、長島さんとはその場限りの関係であった。連絡先を交換し、またどこかで会いましょう、と告げたきり、それから連絡をすることはなかった。確かにもう一度会ってゆっくり話をしたいという気持ちはあったが、ラインしたところでグイグイ行って引かれるのも嫌だし、話も続かないと思ったからわざわざ連絡をつけることはなかった。

けれどやっぱりせっかく仲良くなったのだから、もう一度、それがなんども繰り返した。トーク履歴を開いてキーボードを叩いては、思い留まって取り消しボタンで抹消する。

時間が経てばそんなことをも忘れ、ラインの友達であることも忘れるぐらい、トーク履歴の下の方へ埋もれて行った。



洗濯物を取り込んだ後で、シャワーを浴びゆっくりとお風呂に浸かった。

水面を通して身体が透ける。もう随分と愛を授かっていない身体。

さっき昔の夢を見ていたからか、身体の火照りが激しい。

どうしても我慢できず風呂場で自分でしてしまった。だが、成熟した私の身体は指だけでは満足できない。

煮え切らない想いが、帰らぬ夫への不満が、募る。担当者は言っていた。

「旦那様は何か不満を持っていませんでしたか。」

こめかみを熱い血が流れる。

私はタオルで身体を拭き、習慣としてスマホを開いた。誰からも連絡は来ていない。

タオルを髪の毛に巻いたままリクライニングに座る。またスマホを開き、すべてのSNSを最新に更新し、通知がないことを確認する。

特にやることがなくなってしまった。小説を書く気にもなれないし、家事もひと段落ついた。少し出かけてみようか、なんて思ったりもする。

だが、外の雨は弱まることなく、スマホの天気予報も今日は一日雨だ。

仕方なく映画でも見ようとテレビをつけるが、こんな気分で二時間集中して観られる気がしない。

またスマホを開く。さっきと何も変わらない。なんとなくラインを開き、最近更新されたプロフィールの覧を眺める。そこには高校の友人、大学の友人、ママ友たちの現況が表されている。

しかし、そこに異質な人物が一人。ひとことには「そろそろ潮時か」と綴られている。

その人とのトーク履歴を開いてみる。最後は私からのメッセージだった。

「とっても楽しい旅行だった、ありがとう。また東京で会いましょう(笑顔の絵文字)」

二〇二一年八月十五日午後六時に送信していた。

彼の既読は、了解の意味を示唆しているように見える。

十九年の時を重ねてもラインのトーク履歴は風化していなかった。

あの時の衝動、感傷、動揺が鮮明に蘇り、私の鼓動につながる。内腿に湿り気を感じながら。

異性に連絡するときは、思春期の頃も学生の頃も結婚した今でも緊張がよぎる。

しかし今日の私は気分が少し違う。夫のいない朝を迎え、子供を送る電車を寝過ごし、長い長い夢を見て、マスターベーションをした今日の私は、感覚が尋常ではなかった。


「お久しぶりです。お元気ですか?あと、わたしのこと覚えてますか?」


当たり前だがすぐに既読はつかない。わかっているのに気になってすぐに、スマホを開いてはラインの通知を確認する。

もう何年も経っている。だが、最近プロフィールが更新されたためアカウントは実在しているはずだ。期待してはいけないとわかっていても、わずかな可能性が風船のように徐々に膨らんできてそわそわする。いつもはオフにしている通知をオンにし、サウンドもオンにした。

雨はまだやまない。そろそろ利奈の迎えに行く時間になる。

二人分の傘を持ち、朝と同じように駅に向かう。だんだん雨模様は強くなり傘に打ち付ける音で周りが遮断されていった。

朝の改札までは先生が送って来てくれる。私は改札まで行けば良い。平日は毎日この移動と挨拶と合流が周期的に続く。

「は~い、利奈ちゃんさようなら」

「なな先生バイバイ、また明日」

「今日もありがとうございました」

「はい、お気をつけてお帰りください」

電車は畳んだ傘から滴る雨で床がヌルヌルしている。水を避けて定位置を探す。隣の人の傘がぶつかりそう。

雨の日は朝から生きる活力を奪われ、足回りを濡らしながら体力が自由落花していく。帰宅すると、水分を家の中に持ち込まないようにと、玄関で処理をする。子供達には水など遊び道具でしかなくても、私にとっては憂の現れ。その流れていく様子が、まるで心から染み出して、態度になってしまうように思えてくる。

雨の音が地面を叩いているからか、センチメンタルな言語化が次々と脳裏を流れる。

我に帰り、普段より汚れの多い洗濯物をまとめる。

「利奈、今日は保育園どうだった?」

「雨が降ってたから折り紙ばっかりだった、つまんなかった」

「そうね、利奈もうまく折れるようになるといいね」

「折り紙好きじゃないもん」


ピポン。

知らせのような音が私のスマホからした。反射的に見ると、画面には見慣れない名前が浮かぶ。鼓動が早まり、すぐにアプリを開く。

「お久しぶりです。びっくりしましたよ笑」

すぐさま返信する。

「突然すみません笑笑。プロフィールのやつで気になって笑」

「今も東京に住んでいるんですか?」

「今は埼玉です。長嶋さんは?」

「僕はまだ東京にいます。でもそろそろ潮時かなと、岡山に帰る頃かなと思ってます」

「まだ歌っているんですか?」

「はい、一応。ちょくちょく小規模のライブは行えるんですが、もう年齢的に厳しいかなと」

「そうですか。わたしは長嶋さんの歌好きでしたけど」

「ありがとう。でも僕も精一杯やれたので悔いはないです。そろそろ故郷に帰って親に恩返ししないとなと思って」

「そうですか。よかったら帰る前に一緒にご飯でもどうですか?」

「いいですね、ぜひ行きましょう。いつお時間ありますか?」

「突然ですが、、今日なんてどうですか?」

「いいですよ、いつも暇なんで笑」

「じゃあ今夜七時に六本木駅で会いましょう」

「わかりました。たくさん呑みましょう笑」

利奈を連れて帰るとすぐに準備を始めた。まず利奈がテレビを見ている間に家にあるもので二人分の夕食を作る。利奈をお風呂に入れ、明日の着替えも用意しておく。利奈がお腹がすいたというので先に食べさせた。

「ただいま」

ちょうど裕也が帰って来た。

「裕也、濡れてない?」

「うん、レインコート持ってたから大丈夫」

裕也が玄関のタオルで鞄を拭き、靴下を脱ぐ。

「裕也、お母さん今からちょっと出かけてくるから。夜遅くなると思うから利奈のこと見ていてくれる?」

「あー、いいよー」

スマホを片手に上の空に答える。

準備は整った。クローゼットの奥から少し埃がかかる黒のドレスを取り出す。

短めのネックレスをかけ、小さくて利便性のないバッグを持ち、先の尖って足に合わないヒールを履いて家を出た。オートロックの扉は少し切ない乾いた音で私という一人の大人の女と家族を切り離した。






第七章



もともと早起きな僕だが疲れが溜まっていたのか、随分長く眠り込んだ。

「初日から遅刻ですか。まあ、しょうがない。では色々説明するのでついて来てください」

「本当にすみません」


狭い厨房には日本人が集まっていた。

「こちらが新入りの山本くんです」

「山本です。今日からみなさんとともに働くことになりました。宜しくお願いします。」

「おねしゃーす」

「寿司の握り方、まあうちは海苔巻きが基本ですが、まあそんなことはバイトリーダーの神崎に教わってください」

「あ、店長は握らないんですか?」

「はい、僕はただの経営者です」

「俺が神崎だ。兄ちゃんよろしくな」

「はい、お願いします。」

すぐに作業が始まった。みんなが寿司を握る中、僕は掃除や皿洗いをしていた。新入りらしいポジションだ。

「山本、ちょっと来い。ひと段落したからお前も握ってみろ」

「こうですかね」

「お、なかなか筋がいいな。お前握ったことあるだろ」

「はい、前のバイト先で」

「お、そうか、そりゃ好都合だ」

「神崎さんはどうしてここで働いてるんですか?」

「ん?実はな、ほんとは留学しに来たんだよアメリカに語学留学。一応ワーキングホリデーできたんだけどな。最初は語学学校も行きながらここで働いてたんだが、だんだんこっちが面白くなっちまってな。特に店長は面白い人なんだ」

「店長はどんな人なんですか?」

「彼はな、最初は日本の商社で働いてたんだよ。ロサンゼルス勤務でリトル・トーキョーに来たらしいが当時のここは寿司屋も日本人向けばかりでな。ちょっと外国人は入りにくかったんだよ。それを店長が巻物中心の洋風寿司を作ったんだ。カリフォルニアロールとかな。そして商社をやめてこっちの経営が本職になったってわけだ」

「へ~、見た目の割にすごい人なんですね」

「こら、失礼だぞ」

「あ、すみません」

「ところであんたはどうしてロスへ?」

「あ、ま、旅行、、みたいなもんですかね」

「ふーん旅行ならバイトしないだろ。正直に言え」

言えるわけない。別に僕に非はないから言ってもいいが、言ったら言ったで怪しまれ、人間関係が悪化する、気がする。

「特にちゃんとした予定はないのですが、こっちの大学で勉強しようと思って」

「お、そうなのか。じゃあ店長に相談するといい。人脈のすごい人だからな。コネも使えるかもしれない」

「あ、でも、いや、そんな急に」

「おい、店長。こいつこっちの大学に行きたいんだってさ」

神崎さんは営業中にも関わらず大声を張り上げる。

「へー、勉強のために渡米したのですか。優秀なんですね」

「いや、店長にはかないません」

「専攻はなんですか?」

「量子力学です」

「そうですか、僕の友人に量子力学の教授がいます。日本人の留学生なら受け入れてくれると思いますよ。もちろん君の能力次第ですが」

「あ、ありがとうございます」

どうやらこの店の人たちは普段からの効率主義のためいささか早とちりである。

「じゃあ、早速連絡してみましょう」

「え、でも、そんな急に、申し訳ないです」

はっきりと断れないのが日本人のくせである。

私の張り詰めた思いは電話の呼び鈴を異常に長く感じさせた。出ないか、そう思った時に

「へい、拓哉、どうしたんですか?」

「おお、ダニエル久しぶり。ちょっと今時間取れるかな?」

「オッケー、ノープロブレム」

「僕のところで働いてる日本人が量子力学をアメリカで学びたいらしいんだけど、パートタイム(定時制)の方の席空いてるかね?」

「おおー、グッド。パートタイムの方が欧州人ばっかりで困ってたんです。ぜひお会いしましょう。面接はいつにしますか?」

店長はスピーカーモードで話していたため、話はまる聞こえだ。

神崎さんも、店長も、ダニエルさんも、この世界はなんという速さで進んでいるんだろう。全てが確認や振り返りもなく進んでいく不可逆性。

「本人と話したい、だってさ」

重いスマートフォンを渡された。

「へい、山本さん、ダニエルです」

「こんにちは、山本です」

「明日とかお時間ありますかね。面接したいので」

いきなりすぎることにはもう慣れた。

「はい、かまいません」



寿司屋の仕事はスタッフが親切なこともありすぐに覚えた。まだその速さについていくのは慣れないが、なかなか仕事内容も面白かった。他の従業員も多種多様な国の人が多く、友好的で、その日は食事に連れて行ってもらい、一日で仲良くなれた。

外国人の名前を覚えるのは日本人以上に難かった。


明日になった。今日は寝坊しなかった。

店長は今日のシフト午前中だけにしてくれ、午後にカリフォルニア大学ロサンゼルス校に行った。

「山本さん、ようこそ。こちらへどうぞ」

大都会を少し外れて、青々と強く生い茂る芝生の上にアルファベットのエイチのような、古いが、荘厳な建造物が迎える。

「山本さんは日本の大学で量子力学を専攻していると聞きました。日本では今どのような研究を進めているのですか?」

僕は大学時代の記憶の糸がしおれてしまわないようにゆっくりゆっくりと僕の方へ繊細に

引き寄せた。

僕の悪い癖は話すとき、特に物事を説明するときはすごく早口になってしまうことだ。しかしダニエルさんとは英語で話していたため、相手が聞き取れない心配はなかった。

ダニエルさんの研究室を見せてもらった。日本より莫大な資金が投下されているアメリカの大学は、一目で分かるほど設備が整っていた。

「では軽くペーパーテストを行います。英語で回答してもらいますが大丈夫ですか?」

「はい、かまいません」


ペーパーテストは余裕だった。日本の教育では議論などアクティヴな学習を犠牲にし、ペーパーの静的学習に特化していたのが功を成した。

「おお、驚きました。これは先日うちの学生を対象に行ったテストなのですが、まさか日本人ながらも英語でこれほどのスコアを出すとは。あなたは日本でも大変優秀なとこでしょう」

少し気分が良くなってきてしまった。

「一応、自分は日本では最もレベルの高い東京大学に通っております。」

久しぶりに学歴をひけらかした。僕の会社の部署では東大、京大出身者が多数を占めていたため、学歴を自慢することなどなかった。

しかし、ダニエルさんは驚きの表情など浮かべず、ただただ不思議そうな顔をしていた。

「僕の勘違いですかね?確か、東京大学は一、二年生ではリベラルアーツを行うと聞いたのですが、君は量子力学を専攻しているんですよね?」

「え、あ、あ、そのー」

「君は確か二十歳ですよね?日本には飛び級制度がないので、君は一、二年生だと思うのですが」

まずい。完全に調子に乗りすぎた。辻褄を合わせなくてはならない。が、慌てると英語が出てこない。

「あ、あ、」

「ま、とりあえず今日のところはいいです。ペーパーもよくできたので来週からうちの研究室に来てください。時間は、基本的には二十四時間空いているので自由に使ってもらってかまいません。基本的にここにある実験道具は自由に使えます。他に必要な実験道具があるときは事務に連絡してください。あと、すべての実験はデータとして残すように」


さすが自由の国。日本の大学とは異なり学生の自主的な学習を促す。

最初は不安だった。口から出たでまかせにより大学教授と面接することになり、新しい環境への不安と緊張もあった。

しかし、自由に学問に向き合える環境を目の当たりにして心のうちから、心のずっと奥の方、心のずっと下の方に押し込められていた、白く輝く何かが僕の全身を巡った。


本当はずっと覚えていた、思い出さないように、ロックをかけていた。

僕は勉強、特に物理が小さい頃から大好きだった。おもちゃから始まった興味は勉強へと繋がり学問へと繋がった。

本当は学者になって、どんどん最先端の研究をして、新たな発見をして、ノーベル賞も取りたかった。

だけど、僕は大学の時にふとしたことである女性と出会った。

その女性は、僕の人生の時間を捕まえて、それまでとは全く違うものに変えてしまった。

子供の頃からの純粋な夢も忘れさせてしまうくらいに。


ただ、それは全く彼女の望んだことではなく、僕が勝手に、本当に身勝手にそうしただけだった。


あの時に、いい方向にも悪い方向にも自分を変えることができた。

恋愛を、合理的にできるようになった。無駄なことは一切しなくなった。




第八章



雨が止み、水溜りを避けて駅まで歩いた。

電車は私たちの気分を反映する。通勤するサラリーマンは憂鬱さを、バイトに遅刻している人は焦りを、友人と別れ一人になった高校生は虚無感を、そして私は期待と少しの緊張を抱え電車に揺られる。

十五分ほど遅れて到着すると、あの時の長髪がそのまま薄くなっただけの男がタバコを吸って手すりに寄りかかっていた。

「駅構内は禁煙です」

私の声に驚いた彼はすぐにタバコを擦り付けて消す。

「なんだ、びっくりさせないでよ。久しぶり」

ラインの時とは一転して馴れ馴れしい彼は二十年弱の時を打ち消した。

「久しぶり、変わらないんだね。まだミュージシャン目指してたんだ」

初めて会った時、長髪と顎髭で年齢以上におっさん臭かったため、外見は全く変わらないでいる。若干、肌に艶がなくなったか。

「もう終わりにするよ。悔いはない。もう喉も劣化してきた」

「とりあえず行きましょう」

冬が終わり春を迎えようとする六本木の夜には、同窓会やお別れ会などの集団客が大勢い

る。私たちは二人きりであったため、スムーズに夜景の楽しめるバーへ向かった。お金の心配はしていなかった。売れない音楽家の彼に奢ってあげても良いと思っている。

上品な夜の街をくぐり高層ビルへと入る。回転式の扉の一区画に二人で入り身体の近さを体温で感じた。

暗い室内のバーからは東京の夜景が鮮やかに映った。近くで見ると刺々しい蛍光灯の光が、遠くから見ると芸術へと昇華する。

「あ、僕はこのカクテルで」

彼は急ぎ足に酒を要求する。

「私も同じので」

会話は近況報告から始まった。彼が最近感じている限界や、音楽を通して学んだ家族の大切さや、帰郷の考えを聞くと、私は大学を出て作家になったことや結婚したことを伝えた。

「おお、あんた本当に作家になったのか。すげーな」

「いやそんな。読書する人も減ってきて出版業界はくらいですよ。家計の足しぐらいにしかなりません」

「いや、それでも好きなことやって生きていけるってのは幸せなことだよ。旦那さんもいい人なんだろうな」

「いえ、そんな」

言葉に詰まる。


それから最近の話とか、最近のお互いの話。あれからどうしていたの? 東京ではどんな風に? 大学でた後は? いつ結婚したの? 最近の映画、アーティスト、様々な話題が飛び交った。

「君はでも今の生活に不満を抱いているんだろう」

それは本当に接頭語のように突然訪れた。酔っているのか酔っていないのかわからないが、彼は唐突に、そして的確に私のマトを射抜いた。

「別に不満てわけじゃないんだけど」

「いや君は意図的に隠しているだけだ。本当はもっと違うものを求めているけど家族のせいにして我慢してるだけだ」

話は進む。普段シャイな私でもお酒が入ると饒舌になる。

「いや、私だって家族は大切だと思ってるよ。でもね、一応小説書くためにやらなきゃいけないこともあるし、やりたいこともあるんだよね。でも利奈もまだ小さいし、夫も仕事詰めで」

「だからそれを家族のせいにしているって言ってるんだ。君の行動力がないんだろう。家事をしながら何かするのがめんどくさいんだろ」

「あんたは家族いないんだからわからないでしょ」

「わからないさ。僕は自分以外の家事なんてやったこよないさ。でも君が言い訳しているのはわかる。現に君は一流企業の夫を持ち、生活には困らない状況にいる。結婚はそういうメリットももたらしてる。作家の平均年収は二〇〇万円以下、食うのもままならない。でも君はそういう心配はせずに自由に書けるじゃないか」

「自由にって、そんなに簡単に思いつくものでもないんだよ」

「そこは君の技量じゃないか」

気づけばもうあらゆる種類のカクテルを飲み尽くし、酔いも回ってきた。

「むう~、ちょと酔ってきたかも。もうここはきついわ」

「わかった。じゃあ別の店に行くか?解散にするか?」

「まだ別れたくない~、どっかで休憩しようよ」

「そうか、あんたいいのか。結婚してるのに」

「いいよう。早く連れてって」

「わかった。責任は取れないからな」

六本木から歩きで下町方面へと向かおうとしたが、ふらふらの足と高いヒールで疲れた私はタクシーを呼び止めた。

「わたしのおごりでいいから」

「別にいいよ、タクシー代くらい」

タクシーに揺られて眠り込んだ、日中の雨が私の体力を奪い取ったのかもしれない。



「僕は飛行機が好きなんだ。新幹線とか、バスとか、いろいろあるけど飛行機は格別なんだよ。特にスイートルームがいい。だから海外にしようよ」

「はいはい、あなたは本当に飛行機が好きなのね。わたしは電車が好きだから国内でいいと思うけどね。そもそも海外行くお金ないでしょう」

「貯金するからさ、海外にしようよ海外」

「貯金するならもっと別なことにお金使おうよ」

夫はソファーで横になり、私は旅行のパンフレットを眺める。

まだ裕也も生まれる前の出来事だ。私たちは結婚後、数年間は新婚生活を楽しんだ。

ある週末の土曜、ゴールデンウィークの予定を立てるカップルがいる。

「電車の方がいいよ、江ノ島にでも行こうよ」

結局、箱根で温泉に入り、江ノ電で江ノ島に行った。

こういう時はいつも私が勝つのだ。でもなんだかんだ文句を言いながらも彼もちゃんと楽しんでいる。

旅行の時も、祭りの時も、家でも、彼は文句を言っている。文句を言いながらちゃんと私を愛してくれている。






第九章



当時の日本の大学教育は英語に比重を置いていた。さらに世界の大学ランキングを気にして多くの留学生を受け入れていた。ある日、僕の研究室にチェコ人の女学生が来た。名前はアデーラといった。

「アデーラです。チェコ出身です。去年までアメリカの大学にいました。日本語は難しいですが少しづつ覚えて行きます。よろしくお願いします。」

片言の日本語で言った。僕の研究室の教授は全く英語ができなかったため、日本語では彼女が理解できないことを僕が英語で説明することになった。

彼女は海外を渡り歩いているにしてはシャイだった。僕が英語であれこれ説明しても反応は薄かった。

しかし、それが逆に僕の本能を刺激した。おしとやかな京風美人がタイプの僕はそっけない彼女の心を開きたいと思った。

しかし、一方で彼女は研究には常に意欲的だった。僕も研究室では最も優秀だと自負していたため、彼女に負けじと研究に勤しんだ。

ある日、朝早く研究室に入るとアデーラがヘッドホンをつけてパソコンで何かを観ていた。近寄って見るとそれは宮崎駿の「千と千尋の神隠し」だった。

「あ、ジブリ」

僕の気配に気づいた彼女はすかさずヘッドホンを外し

「な、なんでこんな時間に」

「こっちのセリフだよ。僕は朝は早いんだ。ところでなんでジブリ見てるの?」

「なんか、日本にすごい監督がいるって聞いたから。ところであなた、」

「なに」

「ヨーロッパは個人主義だけど、アジアは家族の結びつきが強いって聞いた。なのになぜ千尋の家族はこんなに冷たいの?」

「それはね、昨今の日本の風潮を批判しているんだ。核家族で一人っ子。そして母親は引越しで不安になる娘に配慮できず川を渡るのに苦労する娘を助けない、父親は娘が嫌がるのに自分勝手に進んでしまう。千尋は礼儀をわきまえてなく湯屋で散々注意されるけど、仕事を通して人として大切なことを学んでいく。そして千尋は新しい環境に順応する力を手に入れるんだ」

彼女はキョトンとこっちを見ている。まずい、映画好きのくせでつい饒舌になってしまった。

「すごいわね」

「僕は映画には詳しいんだ」

「あんたじゃない、宮崎駿が」


それから僕と彼女の距離は急速に縮まった。

夜遅くまで研究室に残ることが多かった僕たちはほぼ毎日一緒に帰った。

彼女は日本の文化にも関心を持ち始め、僕はやく夕食を食べに連れて言った。

「真也さん、これとても美味しいです。なんていう料理ですか」

それが彼女の口癖だった。気づくと彼女は日本文化を心得たのか、研究室で先輩の僕に対し敬語を使うようになった。だんだん親密になるに連れ、僕の部屋に呼んで料理を作ってあげたり、朝まで物理について議論したりした。友達からはお前らラブラブだなあ、と冷やかされることも多かったが、その度に彼女は片言の日本語で

「そんなんじゃないです。真也さんは優しいんです」

とそのふわっとしたほっぺを赤くして言った。僕は彼女に相当惹かれていた。しかし実験に集中する彼女の眼差しを見るととても告白する気には慣れなかった。

そんなこんなで時は過ぎて、ある日いつものように夕食を食べている時に彼女に告げられた。やっと梅雨が明け、本夏を迎える七月下旬だった。焼肉が焼けるのを待つには、時間が足りな過ぎた。

「真也、わたし九月からアメリカの大学に戻ります。今週で研究室に行くのは最後です。本当にお世話になりました。」

少し申し訳なさそうに、でも事務的に言った。

「でも、八月はこっちにいるんでしょ?」

「はい、でも準備とか手続きが忙しくて」

「お願いがある、八月十五日だけでいい。僕のために一日だけ空けておいてくれないか。どうしても君を連れて行きたいところがあるんだ」

肉はもう焦げていたが、その時は全く気付かなかった。

「わ、わかりました。空けておきます。真也さんとデートですね楽しみです」

彼女は冗談めいてそう言ったが、僕は真剣だった。

彼女はそのあとも美味しそうにお肉を食べていたが、僕はあまり喉を通らなかった。

「真也、お肉美味しかったね。また今度」

「ああ、またね」

ほんわかとした絶望感に苛まれ、素っ気なくなってしまった。

それからは憂鬱な日々が続いた。彼女との別れは目の前であり必然である。

しかし一方でスミレの花のような小さな希望も見え始めた。彼女に告白するチャンスが与えられたのだ。たとえ振られたとしても研究室で気まずくなることはなく、双方ともの研究実績に影響することはない。

僕が八月十五日を指名した理由は一つしかない。その日は日本で最大級の花火大会、諏訪湖祭湖上花火大会が開催される。あれを見て感動しない人間はいないだろう。

僕はすぐに着物屋に連絡し浴衣のレンタルを予約した。サイズはよくわからないが、僕の身長より少し低めだったので日本人女性には大きいぐらいのサイズにしておいた。自分用の浴衣と扇子も揃え、長野の着付け屋にも連絡しておいた。ドラマであるような花火が打ちあがっている時の告白はご法度だ。うるさくてよく聞こえないし、単純に日本で最後の思い出として花火を楽しんでもらいたい。

数学の証明のように一つ一つのピースが埋まっていった。カレンダーのその日に丸をつけ、手帳には彼女の似顔絵を書き込んだ。

うっとしい蝉の声と、うだるようなじめり気を越えると東京駅の改札前に彼女がいた。

「ごめんお待たせ。張り切り過ぎて夜眠れなくて」

「もう、遅刻はダメだよー、真也」

「ごめんごめんって、これほらそこでアイス買ったから」

「わー、ありがと。ところでどこに行くの?」

「ん、着いてからのお楽しみ」

「つまんなかったらデコピンするぞ」

ああ、ダメだ。すでにもうかわいい。

「おいこっち。まず中央線に乗ります」

「えー、中央線混んでるからな~」

「黙ってついて来るの」

「はいはい」

彼女は頭脳明晰なだけあって、もうすでに自然な親密な男女の会話を心得ている。

僕が東京駅を集合場所に選んだのは始発だから座れるからだ。僕と彼女は隅っこに座り少し膝と膝が擦れ合う。

「真也、くすぐったいよ」

「あ、ごめん」

「ってかずいぶん大きい荷物だね。何入ってるの?」

「んん。ないしょ」

「え~、まあいいか。どうせまた変なもの持ってきたんでしょう。この前も変なクッション持ってきたしね~」

「あれはぐでたまって言って女子高生に人気なんだよ。ま、おばさんにはわからないか」

「おい」

そんなやりとりをしばらく繰り返すと、疲れが溜まっていたのか彼女は眠り込んでしまった。電車が加速すると僕の肩に頭を乗せ、駅が近づき減速すると彼女の方へ戻る。

駅になど止まらないで、このまま時が止まって、電車は走り続けて欲しかった。

この暑い気温に合わせて薄い彼女の服は電車の揺れに合わせて波打つ。チラリと見える谷間がまだ若い僕の心を熱くする。


「まもなく上諏訪~上諏訪~。お降りのお客様はお足元にご注意ください」

「ほら、アデ。着いたよ起きな」

「むう~。あ、大きい湖。ここどこ?」

「ほらまずは降りるから準備して」

「すごい、和服?の人がいっぱいいるよ」

「浴衣って言うんだよ。ほら、ついてきて」


駅からしばらく歩くと僕の予約していた着付け屋についた。

「ここに入って」

「ねーねー何するの?」

好奇心旺盛な彼女は気になってしょうがないようだ。ちょうど店の人が来た。

「あ、お待ちしておりました。山本さんですね」

「はい、これでお願いします」

僕は浴衣を包んだ風呂敷を渡した。

「じゃあ、山本さんはこちらの部屋で。アデーラさんはこちらへいらしてください。」


呉服屋の中をぶらぶらしているとお呼びがかかった。

中からは、長い金髪に大人びた紫色の浴衣を着たアデーラが歩きにくそうにやって来た。

「どう?アデ、驚いたでしょう?」

彼女が必死に涙をこらえているのが僕にもわかった。彼女はなれない動作で僕にハグして来た。

「真也、ありがとう。私のために準備してくれたんだね。嬉しいよ、とっても」

「うん。あで、とっても似合ってるよ」

「ありがとう、ありがとう」

「じゃあ、そろそろ行くよ、さ、これ履いて諏訪湖に行くよ。今日は花火大会なんだ」

僕は下から下駄を差し出した。

彼女が下駄で歩きにくい事と、縁日に並ぶ人混みで諏訪湖の近くまではだいぶ時間がかかった。それでも僕は彼女の横を歩いているだけで幸せだった。


諏訪湖を背景に写真を撮り、縁日で彼女とお腹いっぱい食べ物を食べ、持って来たブルーシートを引いて場所を取ると、まもなく花火が始まった。

とにかく大きい花火だったが、諏訪湖に写り込み、迫力は倍増する。

言葉にはできない、見た者にしか伝わらない。そして一瞬で無くなる。誰もそれを留めることはできない、誰もそれを繰り返すことはできない。刹那の出会いと別れが永遠に続く。

横を向くとアデーラは泣いていた。

「本当に綺麗だね」

どちらともなくそう言った。

花火が終わり、夜も遅く多くの人が帰路につくなか、僕たちはブルーシートに座ったままだった。かき氷のカップが風に飛ばされる。

「アデ、本当にアメリカに行ってしまうんだね」

「そうだよ、もうすぐね」

破壊的な拳が僕の心臓を握りつぶそうとする。

自分をなだめて、励まして、後悔する恐怖心から逃れて、ぎこちなく言った。ずっとイメージしていたけど全く意味はなかった。

「最後になってしまうけど、僕は君のことが好きだ。愛してるよ、異性として」


長い沈黙の後、彼女は笑って言った。

「私も好きよ。真也」

二人の間にどんな想いが生まれようと、僕たちの進路は変えられない。彼女には彼女の夢や目標があり、僕には僕の研究がある。

頭ではわかっていても欲望は止まらなかった。

その夜、諏訪湖のほとりの旅館で僕たちは頭のネジが外れるほど激しいセックスを繰り返した。


しかし、気分の高まりというのは恐ろしいもので、それ以降研究室でのアデーラとの会話は減る一方だった。何か話したいと思っても、気恥ずかしさが先走り、内容がなく返事だけで終わってしまうような会話しかできなくなっていた。彼女が一生懸命研究に勤しむ姿を見ると、遊びに誘う気も起きず、スマホでわざわざ話す内容もなくなり、これまで以上にぎこちない関係になってしまった。


「なに言ってんの? 男が話しかけて来ないと女はもっと話しづらいでしょ? それも留学生で緊張感とかあるわけだし。勇気出しなよ」

高校の友達はこういう相談をするには最適だ。今の僕と相手を知らないから利害もなく、客観的なアドバイスをくれる。

「ありがとう。難しく考えすぎてた」

僕が冷静さを取り戻し、そう決意した次の週、アデーラは日本を飛び立った。

向こうの都合でフライトが早まったらしい。彼女は礼儀正しい性格を最後まで貫き、研究室のメンバー一人一人に宛てて手紙を残して行った。もちろん僕の分もある。

水性の来るのボールペンで、丸まった字が積み重なっている。


「何も言わずに帰ってしまってごめんなさい。真也にはとても優しくしてもらって、好きって言ってもらえてとても嬉しかった。だけど、あなたの人生のために、私は負担になりたくない。きっとあなたは優しいから、私が帰るって言ったらきっとまた何かサプライズやら何やら感動的なことをしてくれるでしょう。そんなことされたら私は人前で泣いてしまうし、より帰りたくなくなってしまう。それにあなたに負担をかけてしまう。私はあなたが好き。でもこの関係は一時的なもの。現実的には無理。私はあなたの人生を汚したくない。私なんかのせいで、野心を忘れないでほしい。最後に、日本に来て、あなたに出会えて、本当に良かったです。生涯忘れることのない輝かしい日々は、思い出として、一区切りして、心の中で大切にします。さよなら」


始めから終わりまでアデーラの字は一度も乱れることはなかった。彼女は一回でこの手紙を書き切ったのだろうか。それとも何回も書いては紙を丸め、完成したものなのか。

そんな確信の持てない不安感に煽られることで、心を握りつぶす喪失感をごまかしていた。





第十章



「料金は、、、になります」

寝起きの私にはうまく聞こえないが、どうやらタクシーはついたようだ。

私はヒールを履き直し、不器用にタクシーから降りた。

「ごめん、お金はあとで返すよ」

「いいよ、別に」

そこは酔っ払いの立ち並ぶ屋台街だった。

「へえ~、なかなかいいところ知ってるじゃん」

「うんまあな、俺も思いっきり飲みたい時はここに来るんだ。おすすめの店あるからついてこいよ」

「はいはーい」

酔っ払いたちの酒臭さと汗臭さの雑踏を抜けると天ぷら、海鮮と書かれた暖簾の中に彼は入っていた。

「ごめんください、お久し振りです」

「おお、長島ちゃん久しぶり、今日は何にする? やっぱいつものやつか?」

「うん、今日は連れがいるんだ。盛り合わせ二人分で」

「おお、彼女かい? ならサービスしてやるよ」

私たちのほかに、大学生の集団と会社員らしき男性が二人いた。

「はい、おまち」

目の前に盛られた天ぷらはまだ油に揚げられる音がする。

「いやあ、ねーちゃんこんな男とまたなんで」

「失礼だぞ店長」

ねーちゃんなんて言われたのはいつぶりか、今日の服装が良かったのかもしれない。

異性から女として見られる感覚に酔いしれる。

「わたしと長島さんは二十年ぶりの再会なんです」

「へー、またなんで」

「わたしがいきなり連絡したんです」

横で長島さんは天ぷらにがっついている。私はウーロンハイを飲みながら店長に経緯のあらかたを話した。

「ふーん、作家と主婦の両立か大変だなあ」

「そうなんですよ。子供もいてなかなかストレスも発散できなくて」

「そうか、あんたご無沙汰なんだろ、多分」

言葉が出ない。他人、しかも男性にこんなこと話していいのか。

「まあ、女の人から言わんでいいよ。多分それもあって長島ちゃん呼んだんだろ」

「そ、そんな、そんなことないです」

図星だった。認めたくないけど図星だった。

「はい、これ、ホタテのバター焼き」

「あ、ありがとうございます」

「まあ、ねーちゃんも大変だろうけどな。でもな、男はわからないんだよ。言わなきゃわかんねーんだよ。女は感性が強いからいいけど男は気づかないんだよ。ネイル変えても服買ってもダメなんだよ。確かに男が悪いことも多いよ。けど何か不満があるなら自分から言わなきゃ変わんねーんじゃねーの?」

「でも、なんて言えばいいかわからないし」

長島さんは今度は唐揚げを食べている。

「俺も職業柄、男女のいざこざの話はよく聞くんだよ。でもな、そういう時は大概お互いの愛が薄い時なんだよ。だからお互いの愛情感じることでしか解決できねーんだよ」

「愛情確かめるってどうやって、」

「あんたはもういい歳だし旦那と付き合って長いだろ、それなら一つしかないだろ」


さすがにお腹がいっぱいになった様子の長島さんは一万円札を出して夜風を浴びに行った。私もお代が足りていることを確認し外に出た。

すると、慌てた様子の店長が後ろから走ってきた。

「ねーちゃん待って、これ持って行って」

渡されたのは、長針と短針しかない、目盛りも何もない懐中時計だった。

「それな、貰い物でうちの屋台にずっとあるんだ。でも必要ねーんだ。ねーちゃんにあげてーんだよ」

「わかりました、ありがとうございます」

とりあえず要らなければ使わなければいいと思い、貰うだけもらっておいた。

「じゃ、じゃあな。いつか役に立つと思うからよ」

そういうと店長は屋台の灯りの中に消えていった。


河原の風に靡かれて、長島さんの左後ろを彼のペースで歩く。

酒に酔って暑くなった頬に三月の風がしみる。

長島さんは屋台を出てから一言も発していない。聞こえるのは風で転がる空き缶の音。

彼は酔っていないのに足音を立てないように滑らかな足取りで進む。ヒールを履く私への気遣いは全く感じない。


「ここでいいか?」

長い沈黙を破ったのは長島さんだった。彼はラブホテルの料金表の前に立っている。

「あなたに任せる」

「じゃあいいな」

中の見えにくい迷路のような入り口を抜け、タッチパネルで部屋を選ぶ。白と赤を基調としたダブルベットと薄ピンクのレースのカーテンが彩る、人間の欲望が詰まった空間に成熟した男女が混在する。

「先シャワー浴びるか?」

「どっちでも」

「じゃあ、俺先に浴びてくるぞ」

彼の身体の影とシャワーの音。私から香るお酒の匂い。彼の脱いだパンツは床に無惨に捨てられ、男性特有の不潔さを漂わせた。

「はい、出たぞ」

私は男性の前で裸になるのを恥じらい、タオルを持ったままシャワールームに入った。

今日一日毒された私の体は暖かい水を素直に受け入れ、ヌルヌルした泡が快感を覚えさせる。

私がシャワーを浴びて戻ると彼はベットに横になり鏡張りの天井を見上げていた。

バスローブ姿の私はベットの隅にちょこんと座った。

「俺はな、あんたと四国で出会ってちょうど一年後ぐらいに上京したんだ。知り合いのつてで安くアパートが見つかって。ギター一式と財布とスマホだけで東京に来たんだ。でも東京のアパートじゃ楽器も練習できないし公園もなかなかない。結局、バイトで稼いだ金で酒飲んだり服買ったり、都会での生活に浮き足立ってたんだ。でもな、ストリートライブや憧れの歌手の生ライブでな、これじゃいけねえって思ったんだよ。だから場所見つけて遠出して練習したり、色々手続き踏んでストリートライブしたりしたんだよ。でももう遅かったんだ、全てが。よくストリートから芸能界進出とかあるけどな、あいつらは歌が上手い以上に将来性思ってるんだ。ストリートで高校生がバンドやってれば聞くけど、おっさんの俺がやっても誰も聞かないんだよ。誰も言わないけどこの世界には年齢制限があるんだ。本当に成功したいなら大学とか行ってる暇はない、二十五より前に結果出さなきゃならねえ」

彼はむくっと立ち上がってコーヒーを一気に飲んだ。

「何が言いたいかっていうと、俺は単純にあんたが羨ましい。幸せな家庭を築きながら自分の夢を貫き通しているあんたが羨ましい。でもこれは完全にあんたの努力と実力の賜物だ。逆に言えば、あんたが今小説を書けないでいるのもあんたの努力不足と実力不足だ。あんたは自分が小説を書けないのは小さい子供の存在や旦那が家事を手伝わないことが原因だと思ってる。確かに子育てや家事が忙しくなれば、無限に時間があった時のような奇抜なアイディアは生まれないかもしれない。複雑なストーリーも描けないかもしれない。

でも、母親だからこそわかる日常的な幸せとか家族観とかあるんじゃねーの。無理に今までのスタイルにこだわらなくても、新しいもの生み出せばいいんじゃね、それが小説でしょ、文学でしょ、知的創造でしょ」

私は最後までベットで丸くなりながら黙って聞いていた。素直に彼の言葉を受け入れていた。

「俺もさ、もう自分は無理だってわかってるよ。あんたと違い実力がないから。でも、一つだけ、運でもなんでもいいから、みんなに心から聞いてほしい。今誰にも共感されなくてもいい。ただこの先、何十年後でもいいから誰かの心に届いて欲しい歌がある。聞いてくれるか?」


ゆっくり、だが大きく正確にうなづいた。


「幼い夢があった確実で大きな夢が

想像すればもう僕の手のひらの中

普通ということを見下し平凡を敵と捉え

常識になってたまるかと自転車をこぐ

いつか都会に行けば必ず僕は

チャンスがありビッグになれると

堪えられない怒りを

誰かにぶつけるのなら

僕が受け止める世界中の悲しみを


気づけばもう定められた列車に乗って

人の流れに逆らわず滑らかに歩く

目の前の敵に勝つことに夢中になり

大志を忘れるのは大人になったからか

世の中は甘くないと

人に言いふらしそれで満足か

堪えられない痛みを

誰かにぶつけられるなら

僕の環境に全てをなすりつけよう


もう一つ僕のために人生があるなら

今度は全て捨てて挑戦しよう

家族も愛も金も服でも

全部脱ぎ捨て俺は走り出す


僕の生き様を見てくれ

なんて素晴らしいだろう

誰もバカにできないだろ

何も失わない生き方さ」


四十を迎えようとする彼の喉は酒が入っているのを考慮しても美声とは言い難い。

しかし、その歌は何年もの時を必要とせず私に直接届いた。


「ありがとう、長島さん、会えて良かった」

「どうする? このままセックスするか?」

「ごめんね。男の人にとっては期待させて酷かもしれないけど。今日はやっぱり帰る。また今度、私がセックスレスになったら相談するね」

「その言葉忘れねーぞ。俺はゴムは嫌いだからな」

「生で構わないわ。煮るなり焼くなり好きにして」

「おうよ」


さっきまで着ていた服をもう一度着るのはなんとも言えない気持ち悪さで、シャワーで拭った不満や嫌悪感を取り戻すかのようだ。しかし綺麗になった身体に服がなじむように、考えが整理できた私の目には、世界の全てが単純に見えた。

風がおさまった夜道を歩き、大通りでタクシーを捕まえて帰宅した。


オートロックの扉は私の家族への復帰を許すようにゆっくりとそして確実に解錠された。

日付を回っている室内は沈黙と暗黙に包まれていたが、リビングの扉を開けると二人の寝息が聞こえた。

テレビをつけると映画の途中で、テーブルには二枚のブルーレイディスクが転がる。

まだ夜には冷え込むこの季節にリビングのソファーで寝てしまうのはあどけないが、私が悩んでいるうちに裕也もちゃんと妹の面倒を見てくれる年齢になったのだ。

私はさっきラブホテルでシャワーを浴びたため、そのままパジャマに着替えて布団に入った。もう夜も遅い。常夜灯にするためのリモコンが見つからず面倒なのでスイッチで電気を消し真っ暗にした。

疲れているのになかなか寝付けず、寝返りを繰り返すと、ふと私の鞄が光っているのに気づいた。真っ暗のまま鞄をたぐり寄せると、光っているのは中にある何かだと気付き、鞄を逆さまにして振り下ろした。

するとベットの上に優しい音で円盤状の光が落ちる。さっき店長にもらった懐中時計だ。

優しく手のひらで包むと、なんだかあったかくて心地の良い永遠を感じた。


時の流れの速さが変わる。時計の針が朝へと向かう。

いつかまたあの人が隣で眠り、子供達の支度をし、四人で出かける日が来る。

電車に揺られ、飛行機で飛び、旅の疲れに眠る夜も、

憂鬱な平日の繰り返しと週末の解放も、

喜びも悲しみも、懐古も後悔も、

今という時間の中で感じている。

私を拘束していたのは、単位。時間を区切る単位。

いつまでに何をやるとか、この時間にはこれをやるとか。

人生は生まれてから死ぬまで止まることなく流れ続ける。なのに私たちは利便性のために誰かが決めた単位で時間を区切る。日、週、月、年。

でもそれが自分の首を絞めているのに気づかない。無限の可能性がある人生を制約していることに気づかない。

でも私は気づけた。多分私の人生の半分ぐらいの時間を費やしてやっと気づけた。人との関わりと感性を通して気づけた。

あの人にも、私の人生の大部分を占めるあの人、この時空には存在しないあの人にも気づいて欲しい。彼の頭脳があれば容易いはずだから。



第十一章



膝に鈍痛が走る。机の角にぶつけたようだ。

不自然な姿勢で寝たため首の感覚がずれている。

紙とペンの散乱する研究室の机。

最近はバイトの時給も上がり、アメリカでの生活も軌道に乗ったため、研究室に籠もることが多くなった。

「おはよう山本くん。お目覚めかね?」

「あ、教授、すみません」

「いやいや構わないよ。君ほど研究熱心な学生はいないからねえ」

「教授、ところで前の件どうでしたか?」

「あー、あれか」

教授はブラックコーヒーをすする。

「名前はアデーラで間違いないよね。知り合いに聞いてみたところうちのバークレー校に在籍記録があるらしい。一応、彼女の実験記録なら取り寄せられるが、見てみたいか?」

「はい、ぜひお願いします。あと、できればその研究室の教授に会えませんか?」

「うん、わかった。取り合ってみるよ」

「ありがとうございます」

「でもなんでそんな無名の学生の研究に興味があるんだ? 僕は君の方が全然優秀だと思うけど」

そんなことあるわけない。僕は心の中で怒りをぐっと抑えた。

この教授は知る由もない。彼女が後に天才実験物理学者となることを。僕が彼女の論文を雑誌で読み、次元の差を痛感し物理を辞めることを。

「僕は優秀なんかじゃないです」

「ま、謙虚なのは大切なことだ」

ダニエル教授に出会えたおかげでスムーズにことが進んだ。

もう一度、彼女の研究が見たい、彼女の論文が読みたい。二十年前の盛んな頭脳で。


バークレーに出向く日。

僕は謎の緊張感にとらわれ、朝早く目覚めてしまった。

バークレーまではダニエル教授が車で送ってくれた。長い道のりのはずが緊張で何も覚えていない。


「おーミスターダニエル。久しぶりです」

挨拶をしてきたのは白衣を着た初老の研究者だった。

体から神経がなくなったんじゃないか、そう思えるほど一瞬のうちに間隔を失い、呆気を取られ口が半開きになった。

「久しぶりです。今日はうちの山本がお世話になります」

「よろしくお願いします。ぼ、僕のこと覚えていますか?」

「忘れるわけないだろう。まあ、僕はダニエル教授に写真を見せてもらっていたから君が来ることは知っていたんだけどね。僕も初めは驚いたよ、こんな偶然あるんだなって」

そう、あの店主だ。雑貨店の店主。時間について僕に語ったあの雑貨店の店主が、物理学の研究者として僕の目の前に立っている。これからは店主ではなく教授と呼ばなければならない。


春の花が鮮やかに咲く広場を抜け白い尖塔のそびえ立つキャンパスに向かった。

「私の研究チームの学生に興味を持ってもらえるなんて光栄です。ありがとうございます」

「こちらこそわざわざお時間割いていただきありがとうございます」

無難なやりとりをこなしながら、太っちょの教授について歩いた。

バークレーの学生たちはロサンゼルスより真面目な印象を受けた。もちろん外見だけでは判断できないが、外見と中身はある程度比例する。

「ここが彼女の研究室です」

がらんと広いオープンスペース。清潔感の漂うホワイトデスク。実験器具は整理され、パソコンはマックブックで統一されている。

「そしてこちらが彼女の論文とレポートです」

やっと出会えた。僕の人生を変えた女の軌跡。彼女の知能に惚れ、才能に嫉妬し、実績に貶められた僕の研究者への道。

コーヒーとチョコレートが僕の前に置かれ、教授は僕の妨げにならぬよう視界から消える。

ファイルに閉じられた彼女の歴史の一枚一枚を剥がしていく。

彼女の下着をゆっくりと脱がし、肌を外側から撫で回すように。

彼女の豊満な胸を愛撫し溶ろけてきた身体をすり合わせる。

股を開かせ愛液の垂れる秘部を優しく包む。

くねらせる彼女の身体を押さえつけ、性感帯を撫で尽くす。

そして熱く燃えている彼女の身体を手繰り寄せ、硬く血が張り巡らされた僕と熱い愛液にまみれた彼女が繋がろうとする。

だが、僕の突起は彼女の穴を見つけることができず、行き場を失う。


「どうだね山本くん、彼女の研究は」

僕がひと段落したのに気づいた教授はお菓子を頬張りながら尋ねる。

「なんか、すごい論文ですね。形式にとらわれないと言うか、破天荒と言うか」

紙を縦にして机にぶつけて角を合わせる。

「支離滅裂なんだ」

僕から受け取った研究ファイルを軽く眺めて教授は言った。

「彼女の知能レベルは恐ろしく高い。それは一緒に研究していた僕が一番よくわかっているつもりだ」

教授はカップに残っていたコーヒーを飲み干した。

「しかし彼女は自分の頭の中だけで解決してしまっている。論文が衒学的なんだ。相手に研究成果を伝える気が感じられない。これは頭がいい人によくありがちなんだ。でもみんなどこかで周りとの齟齬に気づき、自分を修正をしていく。ただ彼女はあまりに超越して頭が良すぎた。だから今まで周りも彼女を神格化して、誰も注意しなかった。けど、研究者になるとそうはいかない。論文を評価する奴ら、つまり学会の研究者たちは自分の信念と固定概念を持っている。新しい理論を打ち出すには彼らに認められなければならない。謙虚にならなければならない。彼女がそれを理解するには若すぎたのかな」

教授はまた一つチョコレートを口に加えた。

「彼女の日誌があるんだが、興味あるか? 彼女がここに忘れて行ったんだ」

「はい、ぜひお願いします」


教授はガラス張りの棚から、表紙のはげた日誌帳を運ぶ。

僕は目の前に置かれた彼女のプライベートな歴史を解き開く。


一ページ目、今日から新しい研究室。次はちゃんと結果出したい。

二ページ目、一週間ぶりの記入。この一週間は忙しかった。でも周りの人も優秀そうだか    

      ら今度はうまくいきそう。

三ページ目、みんな実験が少ない。もっと実験すればいいのに。

四ページ目、なんでこんな簡単なことを理解するのにあんなに時間がかかるのか

五ページ目、イライラする。もっと効率よくやってほしい。

六ページ目、時間が過ぎれば過ぎるほど、周りと自分の差が広がっていく気がする。

七ページ目、教授陣でさえ私の研究を理解してくれない。本当にちゃんと読んだの?

      なんで若いだけで見下されなきゃいけないの?

八ページ目、男たちはみんな自分が一番だと思ってる。女性という理由で私を見下してい   

      る。

九ページ目、もっと女性の研究者が増えてほしい。いつか女性が自由に研究し公平に能力  

      が評価される時代が来るまで、私は待つしかない。

十ページ目、私はもうここにはいられない。周りとの人間関係もうまく築けず、研究も順

      調に進まない。また新たなチャンスを、世界を求めて旅することにする。



そこからは永遠の白紙が続いた。彼女が手をつけてない空白は、無言の訴え、悲痛の叫びを体現していた。

僕と彼女はもうこの時から、ネイチャーに論文が掲載された時でなくすでにもう二十歳の時から、圧倒的差、違う次元にいた。日本で彼女と僕はうまくやっていたと思っていた。でもそれは、彼女がペースを落とし、僕のレベルに合わせていてくれたのだと気づいた。


「見ても分かる通り、彼女は研究室での齟齬から男性不信にまで陥ってしまったんだ」

追加のコーヒーとお茶菓子を運びながら、僕の様子を見てタイミングを確認して、教授は言う。

大学教授は頭が良ければいいと思っていたが、こういう能力も必要なようだ。

「彼女は、でも彼女は、、」

危ない。この世界では彼女はまだ無名の研究者。余計な発言をしてはならない。

「ダニエル君から話は聞いている。君は大変優秀なそうで。だから君も彼女の論文から何かを感じるんだろう」

そうじゃない、僕は彼女の後の業績を知っているだけなのだ。


「今日はありがとうございました。とても面白いものが拝見できました」

「いえいえ、こちらこそ。気をつけて帰ってください」


僕の帰路は夢想。

あの時の彼女を思い出す。

鮮明に覚えている、彼女の腕の形を、身体の曲線を。

彼女はシャイなんかじゃない、最初は僕を毛嫌いしていたんだ。

でも、彼女は最後は僕に心を開き、美しい身体を露わにしてくれた。

僕の身体を受け入れ、白くて柔らかくて滑らかな肌で包んでくれた。

僕が彼女の男性不信を解消するきっかけになれたかどうかはわからない。でも確かに、僕の目に映る彼女は徐々に徐々に研究室で友達が増えていた。日本の理系、特に物理の研究室は男ばっかりだったのが良かったのかもしれない。彼女にとっては僕たちと行う実験などレベルが低すぎたに違いない。けど、彼女は確かに僕たちとの研究を、コミュニケーションを楽しんでいた。彼女の笑顔は見ている人に幸福をもたらす心からの笑顔だった。

そうだ、必然だった。彼女の活躍はアメリカに帰って程なくしてだった。だから僕は突然のことに驚き、恐れ慄き、自分の無能さを棚に上げて、彼女の発見を偶然の奇跡だと思い込み、物理学に嫌気がさしてやめてしまった。

でも本当は違う。彼女は日本での経験を通して成長したんだ、千尋のように。



第十二章



その日は母と子供二人が持て余した週末で裕也も友達と遊ぶ予定はなかった。

晴れ、気温二十度弱。春はもうすぐそこだった。

「裕也、利奈、今日はちょっと遠くまで出かけるよ」

「え、どうしたの、急に」

「いいから行くの。休日に家でダラダラしてたらもったいないでしょう」

子供達に急ぎで準備をさせた、行き先も伝えず。行動力が私の原点だ。


東京駅から青い線の入る十五両編成の電車に乗る。子供たちに普通席は苦痛だと思いグリーン券を買った。

「お母さん、どこ行くんだよ」

「着いてからのお楽しみ」


テレビのないその列車は日暮里から山手線を外側へと離れて行く。

「裕也、利奈ちょっと時間かかるから聞いて欲しいの、お母さんとお父さんが結婚した時の話」

「うん」

そこから二人は黙って私の話を聞き続けた。

「お母さんは大学行ってて小説家になるのが目標だったの。でもね、当時から読書離れが進んでいて小説家を本業にできる人なんてほとんどいなかったの。だから親にも反対されてたし周りからも現実見ろとか世の中甘くないとか言われてたの。だから何度も悩んだり苦しんだり一人で泣いたりしてたの」

周りの景色はマンションの群れから一戸建てへと変わってきた。

「ある日、お母さんは小説の題材のため飛行場を取材したの。その時、技術職のお父さんがハキハキとわたしに飛行機の構造を説明してくれたの。お母さんはすごい情熱的な人だなと思ってね。わたしが飛行機は狭くて苦しいって言ったら、きっといつかあなたに快適な飛行機作ってみせますって」

もう利根川はとうに越えている。

「それでね、連絡先交換してね。だんだん距離が縮まって、結婚して裕也や利奈が生まれたんだよ」

「ふーん」

裕也は窓の外を眺めながら適当に相槌を打つ。

「お父さんはその時言ったの。『君がまた乗りたくなるような飛行機を作ってやるからそしたら飛行機で一緒にどっか行こう』って。だから私は言ったの。私は電車が好きだから嫌よって。そしたらお父さん笑ってた」

「まもなく、偕楽園、偕楽園。お降りのお客様はお足元にご注意ください」

「着いた、降りるよ」

「急だな~、もう」

そこは白とピンクの粒が宙に舞う平原。広大な芝生の平原とそれによりそう白鳥の湖。

ここでは重力が存在しない。

新たな出会いを象徴する桜に先行し、厳しい寒さとは共存しない。春夏秋冬という制約を忘れさせてくれる。梅の花言葉は「気品、優美」

甘酸っぱい香りは、大人の恋の味がする。濃厚な、身体と身体がこすれあう大人の恋。女の身体は好きな男に抱かれた感覚をいつまでも覚えている。

「ここがね、私の生まれ育った町なの。なかなか連れてこれなくてごめんね。いい天気だしどうしても今日連れてきたかった」


偕楽園に何をしに来たかはもう忘れた。別に幼少期によく来たわけでもないしデートした思い出もない。ノスタルジーは感じられないし、単純に梅を見たかったのか?

しかし花見でさえ乗り気でない私が梅など見たいのか?

すると、利奈が私の服を引っ張る。

「ママ、あれ乗りたい」

利奈が指をさすのは白鳥のボートだった。

「いいよ、裕也も乗る?」

「別に他にやることもないし」


足こぎのボートは運動不足の体を締め付ける。

「ママもう真ん中来たから漕がなくていいよお」

夢中になる私を利奈が冷ます。息が荒れるが子供に悟られたくない。


湖の上の白鳥が息をつく。


疲れた私の足に水の揺れが心地よい。裕也はじっと水辺を達観している。利奈は飛び立つ白鳥や黒鳥を目で追いかける。

この子達はこのちっぽけで平坦な湖をどう感じているのだろう。私は小さい頃よく旅行に連れて行ってもらったが、正直何一つ覚えていない。

小さい子供にとって美しい自然などその程度のもの。春の桜、夏の花火、秋の紅葉、冬の雪、景色を楽しむのは大人になってからだ。創造的人工物と圧倒的自然の区別がない子供にとって、高速道路から見る新都心と、人間と砂粒が入れ替わる鳥取砂丘に差はない。


帰りの電車で二人の子供たちは非日常の疲れからどっぷりと眠っていた。電車というのは公共スペース。にも関わらず、多くの人が眠りに落ちる。恥じらうことなく。

私たちは電車という乗り物に絶対の安心感を置いている。電車に乗ると目的地への到着は約束された気がする。人は自由に喋り、声が大きくなってしまうこともあれば、メイクをしたりパソコンを開いたり、準備や作業を行う人もいる。そして、電車が遅延するとその無責任な安心感が崩壊し絶望的ストレスに苛まれる。


もうすぐ利根川を迎えるだろうか。

窓から反対車線の線路を眺める。無限的な高速の流線は駅が近づくたびに交わって一つになり、すれ違い交わり、また別れる。

線路は人間か。始発から終点まで流れ続ける人生か。私たちは桜が咲くたびに何人の人と出会い、そして何人の人たちを記憶の片隅の奥の方へ追放するのか。

不思議なことに一回追放してしまえば、関係は風化し、取り戻そうとすれば相当な勇気と良好なタイミングを必要とする。だから私たちはつまらない忘年会を開催し、行きたくもない同窓会に参加する。きっといつでも人間は、人との繋がりに飢えている。

SNSに依存するのも、人気の曲を聴くのも、リスクを冒してセックスするのも、誰かがそばにいる快感に抗えないから。


子供たちはちょうど終点に着く頃に目を覚ました。

「もう、こんな時間に寝たら夜眠れなくなるでしょ」

「だって眠かったんだもん」

「ママ、ママ、利奈すごい夢見たよ」

「あら、どんな夢?」

「あのね、長い長い電車に乗ってね、すごい広いところを見てるの。ずっとずっと同じ景色のままなんだけど全然飽きなくてとっても楽しいの」

ズキッ。脳の隙間から鋭い痛みが貫通する。

「あ、いた」

左手で覆う。

「ママどうしたの?大丈夫?」

「うん、もう大丈夫よ。なんかちょっと急に傷んだだけ」


家に着くと歩き疲れた二人はそのままベットに向かった。

「こら、ちゃんとお風呂入りなさい」

「えー、明日入るからいいじゃん」

「だめ、汚いでしょ、ほら利奈も」

「えー、ママのケチ~」

「ケチでもなんでもいいから入りなさい」

二人がお風呂に入るのを見届けると、私は度数の低いチューハイを飲んで心を癒した。

ソファーの上で膝を抱え、缶チューハイをちびちび飲みながら耽ける。

今日は満足な一日だった。子供たちに私の生まれ育った場所を見せることができた。時間という壁により子供は親の過去を、子供時代を知ることはできない。だから、伝えるしかない、親が自ら。見せるしかない、子供を連れて。

空の缶が床に落ちる音がする。拾おうと思うが体は動き出さない。






第十三章



僕はなんだか長い間付いていた足かせが外れたような気がした。

ずっと心の片隅に彼女に申し訳なさが残っていた。彼女と一緒に研究しお互いを高め合えただけでなく、彼女は異性として僕を受け入れてくれた。それなのに僕は全く成果が出せず遂には学者になるのを諦めた。彼女とともに一夜を過ごした男として、彼女を空港で見送った男として恥ずかしかった。

でも、違った。最初から桁違いだった。僕は彼女のライバルなどでは到底ないし、ましてや恋人など。

僕が無理する必要はない。背伸びをすると徐々に足にダメージが蓄積する。


僕は今空港にいる。それはロサンゼルスからグランドキャニオンに向かうためである。理由は単に有名な観光地だが行ったことがなかった、ただそれだけ。ではない気がする。

時間とか、自分の人生の時間とか。そういう些細なものがどうでもよく、というよりもっと大きな目線が欲しかった。だから、地球の歴史を刻む大地にちっぽけな自分を置いてみたかった。

その旅客機は二列シートで僕は通路側の席だ。あまりに早く着きすぎて隣の人のために立ち上がる準備をしておかなければならない。そわそわする。

「すみません」

そしてその人は不意に訪れる。

「あ、今どきます」

「お久し振りです」

「え、あ、きょ、教授」

そう僕の隣の空白を埋めるのは、ダリの絵を飾る雑貨店の店主、そしてアデーラと同じ研究所の教授だった。

「あれからどうしていたかね?」

「いや、ただ日常を過ごしていただけです」

「そうかそうか。もう少しだね」

「え?」


飛行機は加速し軌道にのる。


「未来の世界はどうかね?」

「やっぱり教授も未来が気になりますか?」

「それはもちろん」

「なんにも変わってないですよ、なんにも」

「そうか、そうだろうね、何より変わってないのは君自身だね」


飛行機は水平飛行に入る。


車内のアナウンスの後に飲み物が配られる。僕は教授がコーヒーが好きなことを知っていたからC.A.にコーヒーを二つ頼む。

教授は僕の横顔を真剣に見ていた。意味のこもった目線で力強く見ていた。

「わかってます。僕は気づかないうちに囚われてたんです。過去の劣等感や選択に。だから僕は毎日必死に生きるしかなかった。自分の存在価値とかそういうものの答えを見つける焦燥感に駆られて」

機内食がC.A.に提供される。

「それで君は、それの弊害に気づいたのかね?」

「はい。僕はずっと小さい頃からすごい人になろうとしていたんです。なりたかったんです。人より秀でなきゃいけない、人とは違うことをしなきゃいけない、人がまだ知らないものを発見しなきゃいけない、謎の義務感があったんです。だから、自分が、自分の親と同じように、普通に、ただお金を家族に運ぶだけの存在であることに敗北感を抱いていた」

「うん。良くも悪くも君は頭がいい。拭いきれなかったのだろう」

「夢ってなんでしょうね。僕たちは小学生の頃から将来の夢について作文を書かされます。大きな夢を持てとか、夢に向かって努力するとか。でも、夢それ自体について考える余裕は与えられないんですよね。夢って目標とは何が違うんでしょう」

「君は夢をよく見る方か?」

「それは寝ている時の方の夢ですね? 見ると思うんですけど覚えてないことがほとんどです」

「夢はね、夢だから。目標とは全く違う。寝ている時の夢も将来の夢もおんなじ」

「どういうことですか?」

「それを知った時が最後かもね」

「ん?」


「まもなくグランドキャニオン空港に到着します。リクライニングをお戻しください」

機内放送に空気が遮断される。

「では、降りる支度をしようか」

「あなたもグランドキャニオンへ?」

「そうですね」


認識を超えて広がる大地と人間の実在を圧倒する圏谷は空港と飛行機の存在をかき消した。


「ここがグランドキャニオン」

「そうです。初めてですか?」

「はい、本当にすごいですね」


地層がいくつも重なっている。あらゆる時代、あらゆる環境を生き抜いた時代が記憶されている。グランドキャニオンが広大なのは誰でも知っている。しかし実際に行ってみないと分からないこともある。そこは空間的だけでなく時間的広がりも持っている。

そしていつか僕たちの時代もここに地面として記録される。

「君はこれを見てどう思うかな」

教授は僕に問いかけた。

「言葉にするのは難しいけど、君ならできる。どう思う?」

唾を強く飲む。喉の奥の方で。

「世界は広いとてつもなく。その中に小さな人間がたくさんいる。人間たちはお互いを求めて走り回り、ぶつかって転んだり、手を取ってペースを合わせたりする。早く走れる人もいれば遅い人、周りに合わせて走る人もいれば突き進む人。みんな自分の走りのスタイルに自分では気づかない。人と走ることで初めて自分がどういう走りをするのかに気づく。僕は自分の走り方を知らなかった。誤解していた。過去の怪我した足が気になって綺麗なフォームで走れなかった。そして一緒に走っている人たちのペースを乱してしまった。でも、僕は、一旦現実から離れて、僕自身の時空から離れることで、自分の走り方を分析できた。一回落としたペースを元に戻すのは大変だけど、少しずつ少しずつ追いついていこうと思う」

背中の方から荒野の風が吹き抜ける。

「合格だ」

「でも、教授。僕には夢とは何かが分からないです」

僕の前髪は突風になびき目と平行になる。

「それは自力で発見しなさい。君はもう十分様々な恩恵を受けている。もう答えを見つけるためのヒントはあげられない」

「はは、もういらないですよ。公理さえあれば全て自分で解けます。解いてみせます」

「人間は死ぬまで人生の研究者だ。年齢や職業なんて関係ない。ましてや時代なんてもっと関係ない。別に物理なんて無理にやる必要はない。人生の研究は最後まで諦めないでくれ」

「わかってますよ。なんだかもう、教授とは一生会わない気がしますね」

「あ、そうそうレポートはちゃんと提出するんだぞ」

「はは」


広大な荒野の果てに、パッションフルーツの夕日が落ちる。情熱的な日差しが僕の全身を照らす。

日の入りなのに、徐々に眩しくなっていく。だんだん暖かさに包まれ、柔らかい肌の温もりに身を委ねていった。


朝は、眩しすぎず、だるすぎずに僕を迎えに来た。

昨日は確かにグランドキャニオンに行った。教授とゆっくり話した。

けれどそこからはあまり記憶がない。ワインを飲んだような気もするが、記憶を失うほど飲むはずはない。

でも確かに今ホテルにいる。

朝食はポテトとオレンジジュースだけで済ませた。日本の濃い味付けに慣れてるから塩が少なく感じて、ケチャップとマヨネーズでプレートの隅に山を作った。


お腹は満たされ、歯磨きも髭剃りも、新聞読みも終わった。

朝の、人間として活動を始めるための儀式は完全に終わった。完全に。

ハンガーにかけた服をスーツケースに詰め込んだ。コンセントに差し込んだ充電器を全て抜いて、イヤホンは左ポッケに丸めた。

部屋の壁からカードを抜いて、ホテルのスリッパではなく自分の靴を履いた。しゃがんで紐を結ぶ。

オートロックの扉が閉まる。空間を切り離す重い音とは裏腹に、優しい緑のLEDが細く光る。「了解」とでも言うかのように。


チェックアウト。

子供の頃からこの言葉が好きだった。すごく響きがかっこいい。もしかしてチェスで勝利を確信した時に使う「チェックメイト」に似てるからかもしれない。


「もうこのホテルには戻ってこない」


そう確信したら少し距離があっても自動ドアが開いた気がした。引きずるスーツケースがガタンと跳ねて自動ドアを超えた。

振り返ることもない。ロビーの形も覚えていない。

迷わず銀行に向かった。バイトで貯めたお金を全額下ろした。すでに貯金はほとんどそこを尽きていた。昨日オンラインで買ってしまったから。

もう行く場所は決まっていた。

「帰る」

どもった声で、まるで公園で喧嘩をした小学生のような声で空港に吸い込まれて行った。

もちろんチケットは一枚しかない。




最終章


今日は一段と早く目が覚めた。なのに外が明るくなり始めているのを見ると、新しい季節が来るんだと思い知らされる。


子供達が起きるまでに時間が有り余る。少し朝の空気でも吸いに散歩に行こうか。

ランニングシューズがない。子育てや家事、仕事に時間を取られ、運動など全くしていないことに気づく。仕方なくスニーカーを履き帽子をかぶって外に出る。

まだ朝露が出るには気温が低いか。ひんやりと空気の冷たさに肌を擦らせながら、体の芯から少し湿り気のある暖かさがこみ上げてくる。

住宅地を西に向かうと傾斜の急な長い坂道が現れる。小高い丘の上には遊具のない公園がある。そこを目指して歩調を強める。

運動不足の足に自分の体重がさらに加算される。でも、なぜか登りたくなる。そこまで高くない。マンションが邪魔で見通しも悪い。けど、高いところから街を見下ろしたい気分だった。


日の出が来た。真っ白な球体は自然界にはない、別世界からの来訪者に感じる。

あれに乗って誰かが来る。そんな予感に、私の足は帰路につく。私は待たなければ、いつもと同じように。整えなければ、落ち着けるように。


朝ごはんを作り終わると子供達が起きて来た。

「ママ、今日はなんだかハキハキしてるね」

「ママはいつでも元気だよ」

「嘘だあ、最近いつもぼーっとしてたもん」

子供の成長を感じた。こうやって人の気持ちを悟ったり、状況判断を適切に行うようになるのだろう。

「いいから、急がないと遅刻するよ」

「はいはい」


今日も電車で利奈をおくる。オートロックの玄関は優しく

「いってらっしゃい」

そう告げた気がした。



喉の奥に埃が詰まる感覚がして目が覚めた。

狭いと感じて見回すと僕はリクライニングチェアに座っている。

暗い空間にはパソコンとAV機器が混在する。この景色はネットカフェ。

「なぜ僕はネカフェに泊まっているんだ?」

心の声が共鳴する。

状況は理解できないがとりあえず目も覚めたし外に出よう。伝票を持ち、ふらつく足取りでカウンターへ

「あ、お客様の料金はすでに清算済みですのでこのまま退出して大丈夫です」

バイトらしき若い女性が対応した。

「あ、わかりました」

「あ、山本様ですね。こちらの貴重品を預かっております」

よく見覚えのある長財布を受け取った。

「スマホは、、」

「預かったのはお財布のみですね」

ポケットに手を突っ込むが見当たらない。

自動ドアを開くと風が強いことがわかった。目を細めながら、何時かもわからないまま、とりあえず手前の喫茶店に入った。

扉を開くと大きな鐘が店内に鳴り響く。幸い客はおらず、時間は午前八時十分だと把握できた。

「いらっしゃいませ」

「すみません、ブレンド一つ、ホットで」

「お砂糖はいかがなさいますか?」

「ブラックで」

「かしこまりました」

短調なジャズが流れ、閑散としている。店員も一人しか見当たらない。

「お待たせしました、ブレンドコーヒーになります」

店員がテーブルにコーヒーを置くと、静かに黒の波が現れる。

僕の記憶のような漆黒の波は徐々に弱まり、黒い水面には僕の顔が浮かぶ。

ズキッ 脳の隙間に鋭い痛みが走る。

とりあえず、コーヒーを。

白い湯気を吸い込みながら、どす黒い液体を喉に通す。

「うわ、苦い」

口元から全身に苦味が走る。苦い苦い。

ウッ 吐きそう。

「うわあ」

カップを床に落とした。

「どうなさいましたお客様」

一人だけの店員が駆け寄る。

コーヒーが床に染み込む。


その喫茶店の壁には、ダリの「記憶の固執」が。



全て蘇った。


僕はお勘定を済ませた。

「お客様本当に大丈夫ですか?」

「大丈夫です。カップ、ごめんなさい」

「いいえ、お気をつけて」

「はい、では」

「ありがとうございましたー」


足早に地下鉄に乗り込む。なんにもない窓の外を眺める。

何度も乗った電車、何度も通った改札を抜ける。

もう足は自動に動く。

構造をよく把握しているマンションの一番親しい部屋の玄関の前に僕はいる。

チャイムが押せない。どんな顔して会えばいいのだろう。

むう。困った。こんな時にスマホもない。

「何してるの?」

通路から聞き覚えのある声がした。

「あ、あ」

「早く家の中入りなよ。カードキー財布の中に入ってるでしょ」

「あ、そっか、」

おぼつかない手で財布からカードを取り出す。

「どこいってたの」

「ゴミ出しだよ。今日火曜日だから」

「あ、そうなんだ」

懐かしい玄関は二月から何も変わっていない。

「ただいま~」

いつもなら利奈が飛びついてくるはずだが、全く音もしない。

「利奈ならもう保育園よ」

「あ、もうそんな時間か」

気まずい時間がリビングルームを流れる。妻は洗い終わった食器を拭いている。僕はソファーでここ数日の新聞を読む。

「ねえ」

沈黙を破ったのは妻からだった。

「なに」

「どうだったの、タイムトラベル」

「ああ」

あんなに長い旅行、飛行機に乗るための旅行も、思い返してみるとマスターの顔が最初に浮かぶ。

「あのね、よく聞いて欲しいんだ」

「うん」

それから僕はタイムトラベルの経緯、時差の関係で二月二十九日に戻ってしまったこと、いろんな人との出会い、マスターのこと、そしてアデーラのことも話した。

「ふーん、そんな女の人がいたんだ~」

「ごめん黙ってて、本当に」

「別にもういいわ。で、結局?」

「僕は多分、過去の心残りに囚われて今をなおざりにしてた。つまり君たち家族を。でもそれは適当に考えてたとかそういうわけじゃなくて、ただなんか、普通の家庭を営むことが夢が叶っていると思えなかったというか、その」

「今の生活が夢を捨ててると思ってたわけね?」

「そう。僕は物理学者になるって夢があって。夢を諦めることは人生に敗北することだって思ってた。だから、無責任かもしれないけど、君と結婚して子供を産んだけど、本当にこれが僕の人生なのかってずっと問い直してた。妥協なんじゃないかって」

妻は暖かいフルーツティーを淹れてくれる。

「それは決して君と結婚するのが妥協とかそういう意味じゃなくて」

「わかってるわよ。いいから私のことは気にせず続けて」

妻は鋭い唇で紅茶をすする。

「こうやって家庭を持って安定した職業に就くことが逃げなんじゃないかって。確かに初めは、僕が物理学に興味を持つきっかけだった飛行機に携われて、学問の研究とは一味違った楽しさに胸が踊った。けどもう、僕に飛行機はないんだ。会社が、仕事がお金を生産するためだけの手段になっていた」

顔が歪み眉はうねる。

「それで? どうしたいの?」

「君たちには本当に申し訳ないけど、僕は仕事を辞めたい」


なんにもない平日に、普通の夫婦がリビングに座っている。妻は食卓に座り紅茶を飲み、夫はソファーで手のひらを組み下を向いている。


「ちゃんと私の目を見て言って」

ソファーを立ち、ゆっくりと振り返り、椅子に座って足を組む妻を見下げて、しっかりと、強く伝える。

「僕は会社を辞めようと思う」


マンションの十一階では三月の柔らかい日差しが寒い室内を温める。

妻はガラス窓を開け、南風を浴びる。

青空を眺めて背中を反る。

「あなたがそうしたいならそうするのが一番なんじゃない?」

そして微笑みながら振り返る。

「あなたの仕事はあなたで決めて。さすがに無職ってわけじゃないでしょう?」

「僕は君のために、君の笑顔がもっと見れるように、日本の電車をもっといい乗り物にしたい。だから僕はJRに転職しようと思う」

自分の中の、ぬめりけのような、コーヒーカップの底についた黒ずみのようなものが、吐き出され、スポンジで拭き取られる感じがした。

「でもね、あなた、不満があるなら言ってくれなきゃ分からないのよ」

「不満ってほどじゃないんだけど、でもずっと隠しててごめん」

「じゃあ、わたしからも言うね」

「うん」

「たまにはちゃんと抱いて。わたしを女として扱って。セックスで気持ちよくして」

恥じらう顔して俯いた妻は、初めてキスする高校生のようなウブな仕草で僕に詰め寄せた。

「ふふ。なんでもないふりしてたけど、あなたが帰って来てほんとは飛びつきたいほど嬉しかったよ」

細い腕をめいいっぱい伸ばしきって顔を胸に押し付けてくる。

「そっか、ごめんな」

僕は自分の涙で濡れた彼女の頭に手のひらを置く。

生暖かい湿気とシャンプーの香りに手が触れる。



長い間抱きしめ合っていた。緑のカーテンは内側へなびき、窓はカタカタと音を立てる。

妻は僕から顔を離し、上目遣いで恥ずかしそうに言う。

「じゃあ、そろそろカーテン閉めよっか」


成熟しすぎた二人には恥ずかしさが残り、部屋を薄暗くする。

「あなた体洗った?」

「どのくらい経ってるか分からないけど」

「じゃあ、久しぶりに一緒にお風呂入ろ」

妻は僕の体を洗い、僕は妻の柔らかくて白い肌をさすった。

「もう、ちゃんと洗って」

心の高鳴りを感じた。

シャワーで泡を流し終わると、水滴で濡れたオトナの身体は女らしい湿っぽさで満ちている。

「えりな」

何年か前、この名前で妻を呼ぶことはなくなった。子供ができたという感動とともに、妻はもう女ではなく家族なんだという転換が、幸せが体を優しく温かく包むようで、満ち足りない心の冷たさがより一層強く意識させられた。

妻はクローゼットからバスローブを取り出しわざわざ着る。

「はい、お待たせ~。どう? いい感じでしょ」

「うん、いいよ」

「じゃあ」

「うん」


感覚が麻痺する。いつも身近にいる人が無防備に僕の前にいる。もう何回も抱いたはずなのに女性が裸になる驚きというものは消えない。

初めて誰かとセックスするときはどうしても身体の容姿が気になってしまう。それも徐々に慣れて行って、彼女の身体というより、快感に夢中になる。

小さい頃はコンビニの窓際にある雑誌の表紙を飾るグラビアアイドルに興奮しても、大人になると何も感じないように、触れられる距離にある女性の裸体も、神秘的で特別なものから、ただ自分の気分の高まりを抑える道具になっていた気がする。

「若い頃はたくさんヤらせてもらったな」

多分彼女は当時はそんなにセックスしたくなかったと思う。女にとって男に体を委ねることは、男に比べてあまりにリスクが大きすぎる。

「だからか」

若い頃はずっと疑問に思っていた。女の人がなんでセックスレスで悩むか見当もつかなった。男にとってあんなに高くて険しい壁を時間をかけて打ち崩す必要があるのに。

結婚してやっと女性にとっての自由が始まるのか。

場所や時間を選ばずに自由にセックスを楽しめるのか。妊娠に対する不安もなく。

久しぶりの交わりもそんな上の空な感じで終わった。精力も減退したこの歳でも、お互いを抱いたという事実だけで、夫婦が久しぶりに取り戻した男女の充実感があった。

子供に自立を促していたのが良かったのかもしれない。くしゃくしゃの掛け布団と風呂と汗の湿り気が染み込んだシーツの上、お互いだけをみてぐちゃぐちゃに眠った。





「利奈、裕也、早く起きないと間に合わないよー」

「うん、まだ眠いよお」

「ほらほら、どうせすぐ元気になるんだから、とりあえず着替えて車乗って」

まだ薄暗いうちに家を出て、僕は車を運転し、妻は助手席で腕を組むようにして鞄を抱える。

「コーヒーでも飲もうか」

「いいね」

ドライブスルーで僕はブラックコーヒー、妻は紅茶を注文する。

「あなたそういえばちゃんと有給残ってたの?」

「ああ、ギリギリだったよ。君がちゃんと会社に連絡してくれたおかげで三月一日からずっと連続で有給扱いだからね。でもちゃんと今日も有給取れたから大丈夫だよ」

「そう、良かった」

「君も小説の方はどうなの?」

「あなたが小説のこと聞くなんて珍しいね」

妻はにやけて横目に僕を見る。

「まあ、それは、気になるだろ」

「今ね、ちょっとジャンルをシフトしようと思ってるんだ。今までのSFをやめて、ラブコメを書こうと思ってるの」

「君がラブコメ?」

驚きと面白さで顔がにやけてしまう。

「あ、バカにした。もう言わない」

ツン、と言う音が聞こえて来そうなほどわかりやすく拗ねた。

「ごめん、ごめんて。完成したらまた読ませてくれよ」




日の出を迎え、子供達も目を覚まし、だんだんと街が賑わいを取り戻す。

海浜の風は、三月下旬でまだ冷たく、花粉と砂粒を浴びる。

大型バスが多く停まる、広大な駐車場から、モノレールが見える。


木々で覆われた、楽園の入り口前にはすでに長蛇の列。

「平日なのに混んでるな。まあ卒業シーズンだからか」

「そうね。でも混んでる方がらしくていいでしょ」


恋人同士がペアルック、女子高生が制服、子供達は頭に耳を被っている。


きっとこの世界には無数の『夢の国』が存在する。

いや、国とは限らない。

僕には確かに『夢の時間』が存在した。




二月のカレンダーは凹んでいる。その凹みは、人生を繰り返しで生きている僕たちに反省を与える。

そんな日が一日くらい、あってもいいような気がする。

( 完 )







 あとがき


まず一言目に『2月30日』を読んでくださりありがとうございました、と伝えさせてください。


本作品ではいくつかの飲み物が登場します。日本語でも「お茶する」や「飲み会」という言葉があるように、やはり話し合いとかコミュニケーションにとって飲み物は非常に重要な存在であるように感じられます。喉を潤すという本来の役目だけではなく、議論を円滑化させる特別な役割があるのでしょう、それがお茶であるかコーヒーであるか、はたまたアルコールであるかは人それぞれ。何か、飲み物に感じる神秘的な力を感じずにはいられません。


ぜひ、紅茶でも飲みながら、もう一度読み返してくださるととても嬉しいです。僕と読者様との出会いに今日も、、

「乾杯!」



























































































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2月30日 どせいさん @doseisan

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