十二月五日 網下
ここが網下の病院だと聞いて驚いている。遭難した場所から一番近い病院だったらしい。そんなに北東の方角まで歩いていたなんて。
この十日間ばかりの間に起きたことを整理しなければならない。
モービルに乗って半刻もしないうちに、強い風が吹きはじめた。
すると、モービルを運転していた真府がモービルを止め「今日はやめるべきだ」と主張した。
狩羅は真府を連れると、私から少し離れたところで口論を始めた。
「なぜ止めた」、「止めなければ十分な燃料があった」と狩羅が言っていたのが聞こえた。
それからしばらくして、真府が「引き返せば済むことだ!」と声を荒げた。
狩羅が真府を殴った。
二人がモービルに戻ってくると、モービルの運転手は狩羅になった。
風はますます強くなった。そして、雪がちらつき始めた。
視界は白一面になり、私は方向感覚がつかめなくなった。
しかし、狩羅は「大丈夫、すぐ着きますから」と繰り返し、モービルを走らせ続けた。
強い風が吹き、モービルの動力部分がガリガリと異音をたてた。
それから間もなくして、モービルは動かない鉄屑になった。
狩羅はまだ笑顔だった。
「この山はそんなに標高も高くなければ、急な斜面もない。なだらかな山です。小屋を探して一晩明かしましょう。天候が落ち着いたら我々がモービルを取り返してきますから」
そう言って地図を取り出し、小屋の場所を見せた。小屋までは十分も歩けば着きそうな距離に見えた。
しかし、小屋にはいつまで経っても着かなかった。
実際にどれくらいの時間歩いていたのかはわからない。
体感的には一時間以上歩いていたように思う。
一番前を歩いていた狩羅が突然倒れた。そして、強風にあおられ、狩羅の手にあった地図は瞬く間に雪の中へ消えていった。
真府はすぐに背中のリュックから大きな布のようなものを取り出し、その端を私に持たせた。
「それをお尻の下にひいて座ってください」
私が言われたとおりにすると、真府は布のもう片端を持つと、私の頭上と倒れた狩羅をその布でかぶせ、自分も尻の下に布をしいて座った。
私たち三人は、大きな布の下にすっぽりとくるまれた。自分が知る中でもっとも粗末なテントだった。
真府は手で布をなるべく高く支えながらすぐに携帯竈に黄土をくべた。しばらくすると、テントの中は暖かくなった。
「手持ちの燃料がもつのは、せいぜい五時間程度だろう」
「本当ならもっと火は節約したいが、狩羅の意識が戻るまではそうも言っていられない」
真府はそう言った。
幸い、狩羅の意識は程なく戻った。
しかし、今度は食料の問題が起こった。装備のなかにあるのはせいぜい三日分の食料だった。
真府は「この季節の網布施山は一度ふぶくと三日は続く」と言った。この吹雪のなか、入山届を出していない私たちを探しにきてくれる可能性はほぼなかった。
私たちは必要最小限の燃料で身体を温めながら、吹雪がやんだら救援を求めることにした。
身を寄せ合いながらさまざまな話をした。
狩羅がもっともたくさん喋った。
初湊に春にやってくる鯨の話をしていた。
鯨が水面から浮き上がって宙返りをするときは、イパルノという月の精霊が海から帰るときで、鯨はイパルノを月に向かって放り投げるために宙返りするのだと。
狩羅は宙に放り投げられたイパルノが空に帰っていくのを見たことがあるという。美しい貝のように虹色に光り、向こう側の景色が見えるぐらい透けていて、ゆらゆら揺らめいていたそうだ。
きっとこの話は本当ではなく、狩羅がとっさに考えたでたらめだろう。
しかし、粗野な狩羅からひねりだされたとは思えない幻想的な話だった。
燃料がいよいよ足りなくなってきた。
私は寒さと飢えからお父さんの亡霊を何度も見た。
山の事故で死んだお父さん。
滑落してから死を待つまでの数日間は私と同じような状況だったろうか。
お父さんの亡霊はずっと笑っていた。すべてを許してくれるような優しい顔で。
だから、真府が「なにか燃やせるものはないか」と聞いたとき、私はタケルおじさんから万谷窪さんに預かった木の彫刻を躊躇することなく差し出した。
それで何時間火がもつかはわからない。
けれど、生きなければ何の意味もないと思ったのだ。
彫刻は一度に燃やすには大きかったので、小刀でまず縦に八つに割った。
それをさらに二つに折って、一片ずつ燃やした。
一番最後に残ったのは彫刻の左目の部分で、炎はまるで命でもあるかのようにその瞳を燃やし続けた。
最後の薪が尽きて、炭の日も起こらなくなった頃、夜が明けた。
まるで世界がいま始まったかのように、太陽の光が私たちの粗末なテントの中に射し込んでいた。
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