十一月七日 千沼

納土からバスで二時間、そこから徒歩でさらに二時間歩き、ようやく千沼に辿り着いた。百容堂の主人にも「止めたほうがいい」と止められた秘境中の秘境だ。ここだけにいる幻の昆虫・エンマヤンマを見たい一心でやってきた。ただ、エンマヤンマが森から姿を消す季節とあって、案内人にも迷惑そうな顔をされた。「徒労にしたくなければ、初めから逢えると思わないことだ」――道すがら何度も言われた。けれど、こんな風景を見せられて私が徒労だと思うわけがなかった。




自分の身長よりも遥か高く育った水生植物、昼間でも光を通さないほど鬱蒼と茂った樹々。まるで、私が小さな虫になったみたいだ。絵本を指でなぞって想像のなかでだけ存在してた果てしない世界が目の前にある。銀色の蝶の鱗粉がリボンのように私たちの行く道を指し示し、花びらもよく見えないほど高いところで咲く木の花が右へ左へスカートを翻しながら宙で踊る。眼に入るもの、耳に飛びこむ音、草の匂い。すべてが私の一部となっていくようだった。




やがて、翠玉色の光で道の先が輝き始めた。森の樹々はそこで途切れていた。翠玉色の輝きは、千沼だった。宝石を溶かしたような色の湿地帯が見渡す限り広がる。空の青がくすんで見えたぐらいだ。




そのとき背後で、ぶん、と羽音がして、私は上を見上げた。


すると、私の体の半分はあろうかと思われる巨大なトンボ――エンマヤンマが千沼の上を滑るように飛んでいった。エンマヤンマの胴体は、人間が作るどんな重機よりも機能的で柔軟に蠢いていた。




「結局、動いているものは、動いているものにしか見えないってことだな」


千沼にたった一匹羽ばたくエンマヤンマを見ながら、案内人は敗北を認めたかのような口調でつぶやいていた。

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