十月七日 蛇ヶ峰
午前中はガスがひどくて動けなかった。間欠泉もどこに出るかわからないから外を歩かないほうがいい、と言われてじっとしていた。
午後の列車は夕方過ぎにならないと来ないとわかり、それに合わせて宿を出た。
駅、といっても巨大な煉瓦がひとつぽんと置かれただけのような駅だ。洪水のように押し寄せる夕焼けに、駅も線路も山並みも沈んで、古ぼけた写真みたいに見えた。
ホームには先客がいた。幼い娘とその父親が長椅子の上でじゃれあっていた。私は初め、父娘の隣に座っていたが、親子の時間を自分が邪魔しているように思えてきて、別の長椅子に移動した。すると父親のほうが話しかけてきた。
「娘が愛しいあまり周りが見えていませんで、すみません」
たしか、こんな内容だったと思う。そのときは、単に娘を溺愛している父親なのだ、と思った。
娘のほうも私に話しかけてきた。
「お父さんは私の恋人なの。早く大きくなって、お父さんに抱かれたいなぁ」
意味もわからないまま言っているのだと思って、場の空気を取り繕おうと私は
「ずいぶんおませな娘さんですね。これでは奥様も嫉妬してしまいますね」
と冗談のつもりで言った。すると、父親はこう答えた。
「妻はいません。離婚したんです。娘を誰よりも愛していましたので」
顔をしかめた私をもろともせず、父親は続けた。
「ゆくゆくは娘と結婚するつもりです。中央のくだらない法律のせいで、戸籍上は無理でしょうが」
私は後のことも顧みず、声を上げた。そんなことが許されると思っているんですか。それで娘さんが幸せになれると思っているんですか。
父親は明らかに侮蔑の眼差しになってゆっくり噛み砕くように言った。
「結婚といっても、私が老いるまでの数十年の話ですよ。その後、この子は自分の選んだ若夫を得るんです。ここではごく普通の婚姻形態ですよ?」
ここではごく普通、と言われても私は納得できず、人権だとか未成年の判断能力だとか、考えられる限りの理性を並べた。
「それはあなたの住む場所で組み上げた正しさがそうだった、というだけの話でしょう? 旅をされてる方のようですが、そんなに自分の常識を大事にされるのでしたら、旅をしたところで得るものはないでしょうね」
父親がそう言ったところで、列車が来た。
こんな会話の後に一緒の列車に乗るなんて気まずいな、と思っていると、父親は手で私に先に行くよう促した。
「私たちの待つ列車はこれではありませんので」
列車の窓から、あの父娘が見えた。ここから見ると、どこにでもいるただの仲睦まじい親子に見えた。
何を話して笑っているのか、私にはひとつもわからなかった。
11月1日追記:
蛇ヶ峰の婚姻制度→若いときに壮年の人と結婚し、壮年になると(一回目の結婚の伴侶が死んで)若い相手と再婚する。
両耳に婚姻の耳飾りが「揃う」ことは良いことで、大きなお祝いをする。
間欠泉による死者が多い地域のため、遺された家族への社会保障として発展した婚姻制度との説あり。
『山村の知られざる風習~龍ヶ背山脈編~』より
だからといって普通は血の繋がった親子で結婚することはなさそう。
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