十月三日 頬隙
龍ヶ背山脈を走る山岳鉄道に乗っている。ギアの音だろうか、他の列車では聞かないガリガリという音が耳につく。でも、頭の中をなにかの音で満たしていたほうが余計なことを考えなくていい。
目的地まで長い列車の旅だ。百容堂の主人に「しばらく買い付けができないかわりに大物作家の作品を買い付けてくるから」と告げると「佐衣木タケルか!」とすぐばれてしまった。
「あの偏屈には毛嫌いされとるからな。いくらかかってもいいぞ」
と言ったのは、期間のことか、値段のことか、それとも両方か。
父の親友だった佐衣木タケルを訪れることについて、大丈夫なのか、と心配された。母親に知らされるのではないか、と百容堂の主人は思ったのだろう。それで、母親に一昨日遭遇したことを話した。もう見つかっているのだから、連絡されるのは恐くない、と。確信は持てないけれど、母親はもう私を追いかけては来ない気がした。
山岳鉄道は通路が狭く、客席も傾斜している。邪魔だ、邪魔だ、と思っていたヴェルコンデュの旅行鞄を乗車する前に処分したのは正解だった。買い換えた帆布の折り畳み鞄は大きな帆布に掛け紐のついた粗末な作りだけど、自由がきくので買い付けた作品が入らなくて困る、ということもない。
重たい荷物が減って、身軽になった。
これならどんな場所にも行ける。
でも、まさか憧れの意匠だった鞄をこんなに早く手放すことになるとは思わなかった。
お昼ご飯は百容堂の主人がしきりに勧めてきた頬隙名物の「紅葉揚げの葛煮弁当」だ。あの主人の勧めだからこってり系だと思っていたのに、蓋を開けると、細切りにした人参の衣で紅葉を揚げた天ぷらが、ほんのり青く染まった葛のなかに浮かんでいた。まるで夜空のようで、女性受けがよさそうだ。味付けも出汁の風味を生かした品のいい味だ。
得意げに感想を求める百容堂の主人の姿がありありと目に浮かぶ。
考えるだけでも面倒くさいから次回は支部に連絡を入れようか。
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