勿忘草(わすれなぐさ)

第2話

優はずっと窓外を眺めている。

ただ黙って何を考えているのか、何を思っているのか不安になるほど……。


「お前何見てんの?」


一弥はちょっと不安になって声をかけた。


「あそこの点滅灯……」


「ああ……鉄塔の?」


「なんか人の呼吸みたいな」


優は可愛く笑った。

小さい時から優は可愛かった。

否、小さい時は可愛いかった。

大人になるにつれて、優は綺麗になった。

男に使う言葉では無いかもしれないが、優は美形だ。

男とか女とか関係無く、整った顔をしている。


「ビール飲むんだろ?」


「ああ……」


そうだったと思い出した様に、優はリビングにやって来て、テーブルの前の椅子に座った。


「何年振りだ?」


一弥は缶の蓋を開けて、優に手渡しながら言った。


「僕が大学卒業する前だから……」


「五年か?」


「そんなに?」


優はそう言いながらも笑って、缶に口をつけた。

ゴクリと喉を通すその仕草が、堪ら無く目を惹く。

その昔、自分の物だと錯覚したほどに交わし合った唇が、形の良いままに缶に吸い付く。もはや他人の物となった唇が、幾度となく缶に触れ、そして静かに喉を鳴らす。


「今日は?彼女は?」


優はほんのりと目元を赤らめて、笑顔を崩さずに聞く。


「あ?ああ……まだ、一緒に住んでないんだ」


「どうして?結婚式来月だったよね?」


「まあ……いろいろとさ……」


「ふーん?彼女一弥さんをよく知らないね」


優は笑顔のまま続けた。


「だって、一弥さんを一人にしたら……まずいでしょ?……えっ?まだ切れて無い相手とか、まさかここに呼ばないよね?」


優は真顔を作って、一弥を直視すると


「まじで?」


仰け反る様に言い放った。


「それ……ヤバイよ。やったらいかんヤツよ」


優は呆れる様に一弥を見つめる。

その瞳が黒目がちで、そして微かに動いて魅了する。

その微妙に動く黒目に魅入られて、一弥は夢中になった。

小さい時から見つめ合うと、優の黒目は落ち着く事なくずっと揺れている。

誰しもがそうなのもしれないが、一弥はそこまで魅入られた相手が他にいないので、優の瞳しか知らない。

何人もいた彼女の瞳に、これ程までに魅入られた事はない。


「そんな事はしない」


一弥はジッと優の瞳を、食い入る様に見つめて言った。


「あー彼女愛されてるんだ……」


優は一弥を揶揄う様に言った。


「さすがに、逢う時は別の場所にするよ」


「はぁ?」


優は呆れ顔を作って、一弥を見つめて微笑んだ。


「なんだ……一弥さん全然変わらないんだ」


「変わらない……」


一弥は引き込まれそうな、優の瞳から視線を逸らして、ビールをグビグビと飲み込んだ。


近所の幼なじみの二つ年下の優と、そういう関係を持ったのは、優が大学に入って友達と遊んで終電を逃した時に、一弥が一人暮らしをしていた為に泊めてやった時からだ。

中学生の頃から、女子から告白をされては付き合っていた一弥は、自然と優とも関係を持った。

夢中になったのは一弥の方だったが、不思議と異性から好意を持たれるタイプの一弥は、言い寄られる相手とは簡単に関係を結ぶので、ウブな優を裏切る形となった。

それでもダラダラと、優が大学生の三年間は関係を続けたが、優が就活に忙しくなると、複数いる彼女達との関係が濃厚となり、優とは少しずつ疎遠となった。

五年ぶり?本当に偶然にも、仕事の帰りに寄ったコンビニで優を見つけた。

優も偶々仕事で来て、帰りがけに同じコンビニに寄ったのだという。


「優はさぁ……彼女いんの?それとも彼氏?」


少し酔いが回ってきた頃合いを見計らって、一弥は最初から聞きたいと念じていた言葉を発した。


「いるよ」


「どっちだ?」


見据える様に聞く。

酔っているのかいないのか、分からない状態で聞く。


「……教えない」


「なんで?」


優は笑顔のまま、立ち上がった。


「トイレ……」


「男?女?」


一弥はしつこく優の手を取って聞く。


「女……彼女」


優はほくそ笑むと、一弥の手を払った。


「嘘だ!」


一弥が声を荒げた。


「嘘じゃない」


優はトイレのドアを開けて言った。



……嘘だ……


一弥は缶を片手に持って立ち上がると、残りを一気に飲み干して、優が入ったトイレを睨め付けた。

水を流す音と共に、優が出て来るのを待っていたかの様に、一弥は走り寄って優を抱きしめた。


「お前は抱く方じゃ無い……」


「なに?一弥さん?」


「お前は抱かれる方だ。そうだろ?」


「いや、そう決めつけられても……」


一弥は優を押し倒して、馬乗りになって優を見つめた。


「来月結婚する癖に……彼女に悪いと思わないの?」


「あいつも今頃は、別の男としてる」


「なに?それ?」


「似た者同士だから……だから結婚できるんだろ?」


「彼女さんもモテモテなんだ?」


「そういうタイプってだけだ……」


「意味分からん」


優は嘲る様に顔を背けて言った。


「マジで答えろよ!男にやられてんの?」


優はジッと一弥を見つめる。

すると黒い瞳はクルクルと動くから、一弥は誘われる様にその動く生き物に魅入られる。


「……やられてんの?」


一弥がとうとう……違う、当たり前の様に捕まって顔を近づけると、優はほくそ笑んで一弥を見つめた。


「目を閉じろよ」


一弥が言う。

だが優は断固として目を閉じず、ただ魅了する黒目が大きく揺れる。


「お前の黒目……凄く動くのな……俺これにぞっこんなんだ……」


一弥の呟きに、優が怪訝そうな顔を向ける。


「お前の凄く誘ってくる……他に、こんなに魅了する目を持ったヤツいない」


「一弥さんが見入らないだけだ……」


「そうかもな……」


一弥は優の瞼に唇をつけてから、徐に優から身を引いて床に座り込んだ。


「お前のしか、見入った事ないかもな……」


「…………」


「お前マジで、どっちと付き合ってる?」


一弥は気が抜けた様に聞いた。


「……僕は抱く方じゃない」


「そうか……お前が何人とやってても、言える立場じゃないもんなぁ……」


一弥はそう言うと、立ち上がって椅子に座った。


「俺はずっとこうだからなぁ……自慢じゃないんだが、女が勝手にやってくる。そして直ぐに関係を持ちたがる……つまり、そう言う女しか来ない。そういう女しか来ないが、来るから関係を持ち続ける……もしも、お前みたいな女が来たって、そう長続きしないだろう?最初は隠せてもすぐにバレるだろ?」


「……って、一弥さん隠さないもんなぁ」


「結局泥沼繰り返して、傷つけるだけだ。結婚なんてしないさ。女性の方がお前より独占欲強いからな……」


「じゃ今の彼女は?」


「あいつも俺と同じだ。男が放っておかない……っで直ぐに関係を持つ……だが一応隠してるけどな……」


一弥は嘲る様に笑った。


「えっ?マジ?今夜?」


「まあな……だが俺には分かる、似た者同士だからな。一応ケジメとして清算してるわけよ、あいつも俺も」


「来月の結婚?」


「まあな……」


「じゃ……直ぐ元サヤ的な関係あり?」


「……かもな……」


一弥は遠い目をして、さっき迄優が見ていた窓外を見ている。


「……お前、俺が結婚を辞めるって言ったら、こんな俺でも付き合ってくれる?」


「何言ってんの?」


「はっ……何言ってんだ俺……マリッジブルーってヤツ?こんな俺達が結婚できる訳無いじゃん?……だろ?誰を愛してるか分からないのに……」


「それって、僕に言う事じゃないでしょ?彼女と相談すれば?」


「俺マジで辛い……」


「ついさっきまで、僕の事忘れてた癖に……」


「ああ……そうだ。忘れてた……」


一弥を睨め付けたままの優を認めて言った。


「お前のその瞳が、ずっと恋しかったのをさ……その瞳をずっと探してた。でも誰も持ってねぇの、お前しか持ってねぇの……だから一生懸命探してた……」


「はっ……彼女に聞かせてやりたいね」


優も立ち上がって椅子に腰を落とし、缶の蓋に手をやる。


「彼女が他の男とやってると思うと、辛いんじゃん?」


形の良い唇が再び缶に吸い付いた。

一弥は我を忘れて、その一点に食い入る。


「あー?……否……それは無い……気にした事ないから……」


一弥は一点を見入って、本心を吐露した事を察して笑った。


「……あいつがさぁ……友達と会うって言って、男と会ってんの知ってんのよ……でもなんでだ?気にした事なくてさぁ……だけどあいつは俺の事知っててさ、まっ当然の様に揉めたわなぁ……結局、面倒くさくなってさ清算した。だからあいつも、してんだろうけど……なんで俺達結婚するんだろ?」


一弥は優を見つめて


「お前に言う事じゃないよなぁ……」


嘲笑するように言い捨てた。


「愛して無いんだ……と思う……嫉妬も何も無いから……」


「一弥さんは誰も愛して無いよ、だって一弥さんは自分を愛してるんだから。一番結婚に向かないタイプだよね……だけど、だから彼女一弥さんがいいんじゃないの?」


優の言葉に、一弥が再び瞳を見入る。


「……だって、彼女が一弥さんの子供だって言ったら、一弥さん絶対気にしないだろ?奥さんが不倫してできた子でもさ……」


「……お前言う事酷くね?」


「……じゃ、気にするんだ?」


「そりゃ……えっ?」


優は再び缶に口をつけて、ビールを飲み干した。


「終電に乗れそうもないや……」


優が微笑む。


「お前彼氏いんの?」


「いるよ……」


「じゃ……そいつと別れてくれって言ったら、別れてくれる?」


「一弥さんはそんな事言わない……」


「言わないけど、お前には言っちまう」


「へぇ?なんで?」


「俺、お前の瞳にベタ惚れだからさー、マジで他人に渡したくない」


「馬鹿じゃないの?」


「馬鹿だわーマジで……結婚間際でこんな事思っちゃ……終わりだわー」


一弥はテーブル越しに優に顔を近づけ様として、優が近づけてくれないから唇が届かない。


「……駄目?」


「駄目」


優は笑いながら一弥に言った。

ほんのりと赤くなって、満面の笑みを浮かべる。

一弥を魅了してならない瞳が、くるくると揺れて誘いかける。

一弥は業を煮やして、テーブルを回ると優の傍に立った。


「俺と付き合ってよ……」


「やだ」


「やだって言っても


一弥は優の肩を思いっきり掴むと、物凄い勢いで唇を吸った。

まるで貪る様に吸ったが、優は瞳を開けたまま一弥の顔を見つめている。


「目を閉じろよ」


「やだ」


「優!」


一弥は思わず大声を上げた。


「一弥さんでも大声を出すんだ?」


「今夜のお前は、イライラさせんだよ」


「言う事効かないから?まるで子供だね?」


「違う!俺がこんだけ言ってんのに、お前が受け入れてくれんから……」


「???」


「結婚を辞めるから、付き合って欲しい……って……」


「それって本心なの?」


「だから……」


すると優は、腕を一弥の首に回して目を閉じた。


「……分かった。じゃ、結婚は辞めて……」


優が言い終える前に、一弥が優の唇を捕らえて吸い合った。

音を立てて吸い合った後、一弥は優を別室に誘って幾度となく躰を重ねた。




「優との連絡が取れないんだが……」


一弥は優との共通の友人に連絡を入れる。

ここのところ、数人に連絡を入れている。


ひと月前、結婚破棄を申し出て、それは揉めに揉めた。

親達まで出て来て、それは大変な騒ぎとなったが、婚約者であった彼女に複数の男性がいた事が明るみに出て、当然の事ながら一弥の醜聞も出て、結局破断が妥当という大人達の結論で結婚は取り止めとなった。

金はかかったが、一弥のマリッジブルーは無くなった。

結局優の言う通り、一弥は結婚に向いてはいない。

なのに大人達の余計な心配やなんやらで、結婚はしなくてならないと思い込んで、自分には合っていた相手と決めたものの、やはりストレスでしかなくて、憂鬱な日々を送っていたのだろう。

だがあれから、優の瞳に心底魅入られベタ惚れであると、自分自身に認めてしまってからというもの、再び数人の女性から誘いがかかっても、もはや彼女達に気がいく事が無くなってしまった。

……にもかかわらず、一弥を魅了してならない優は、あれからずっと音信不通だ。

だから、あの瞳に魅入られる事もない。

ただただ毎日、共通の友人を探しては連絡を入れている。

優に会いたくて探している。

一弥の実家の近所に優の家が在るのだが、優の両親は転勤で地方に行ってしまっているので、親に確認してもらっても何も分からない。

幼馴染とはいっても、家族ぐるみの付き合いではなかったのだから、分からなくても仕方がない。

結婚取り止めのゴタゴタが、やっと落ち着き始めた頃、優が海外に仕事で行っている事を、やっとの事で聞きつけた。

共通の友達の、友達からの情報だ。


「スマホを落としたらしくて、新しいのに変えたらしい」


連絡が取れなくなった理由がにあったと判明したが、一弥は故意に優がスマホを変えたと理解した。

かつて就活の際に一弥から疎遠となった時に、優はスマホを変えている。

この間再開した時に、一弥が新しい連絡先を登録し合ったので、優は再び変えたのだ。

一弥が結婚を取り止める事は無い……と判断した為か、端から連絡を取り合う気が無かったのか……。

とにかく優は、一弥を信じてはいない。

それでも一弥は、優の転勤先を探している。

伝手に伝手を頼りに、今優が何処に居るのか……。

再び優の落ち着きの無い、揺れる瞳に魅了されたい。

あの瞳に見入りたい……。



一弥は空港に降り立つと、伝手に伝手を使って得た情報を頼りに、優が居るはずの街へ向かう。

ここに居なければ、また伝手を頼りに探す。

あの瞳に会いたい。

だから待つ事を考えずに、探し続ける事にした。

もしも拒絶されたら、無理矢理同意させる。

優は決して拒絶しきれない事を知っている、だから時間をかけても同意させる。

繁華街の一画で、旅行客の一団を目で追っていた優が、一弥の姿を認めて驚きと共に笑顔を浮かべた。


「えっ?どうしたの?まさか新婚旅行?」


「結婚は辞めた……だから、お前も約束守って……」


「マジで?……一弥さんが?」


優は嬉しそうに聞いた。


「……それを言いに来たの?まさかね……」


「お前を追って来たんだ。まさかの……ガチで……」


「えー?一弥さんが?僕を追って来たんだ?」


「金をかけ時間をかけて追って来た……来た事も無い国なのに……」


一弥は真顔で言うと


「今度こそ連絡先……絶対に俺に分かる所に居て……じゃないと、追いかけきれん」


真剣に言うから、優は可笑しそうに一弥を見つめた。

恋しくて恋しくて堪らなかった、優の瞳がくるくると揺れて魅了して見つめた。


「お前のこの瞳にぞっこんなんだ。もう誰にも目が行かないくらい……だから、俺と付き合って……その瞳を誰にも見つめさせないで……」


「馬鹿じゃないの?」


「馬鹿じゃないの……ってくらい魅入られてる。マジでヤバいくらい虜になってる……」


「…………」


「これを人が愛してる、って言うなら、愛してる……俺はお前を愛してる……だから……」


一弥が言うから、真剣に言うから、優は路上で言い放つ一弥を見て笑った。


「こんな事路上で言われても……」


「路上だろうが何処だろうが、言える時に言っておかないと、お前俺を捨てるだろうが?」


「一弥さんじゃないみたいだ」


「俺じゃない……かもしれんが、俺はガチだ」


「……じゃ、仕事終わるまで待ってて」


優は笑いを堪えながら言う。


「いや、ずっと居る。お前の側に……」


優は呆れる様に一弥を見つめると


「……じゃ、知り合いが来たから帰るって、会社に言いに行くから一緒に行く?」


一弥は無言で、優の瞳に見入りながら頷いた。


優は満面の笑みを浮かべて、一弥の手を取って歩き出した。


「どうしてここに来た?俺から逃げたのか?結婚どうせすると思ってただろ?」


「結婚はすると思ってたけど、逃げた訳じゃないよ。こっちに来るのは決まってたんだ」


「じゃなんで言わなかった?」


「結婚するんだから、言っても仕方ないじゃん?……だけど、一弥さんの事好きだったからさ、最後の思い出に……って思ってさ」


「はっ……俺の言った事、信じてなかったのか?」


「信じないしょ?普通……一弥さんがした事思えば……。それでも思い出作りした僕って、凄え未練タラタラだよねー。だからこっちに来て、全部棄てるつもりだった……一弥さんの全て……」


「ほら?俺捨てる気だった……」


「とうに僕を棄ててた癖に……」


「捨てたんじゃない……ずっと探してたんだ……お前と同じ瞳を持つ。俺ってマジで馬鹿だ。女……女……結婚って……それでああなったんじゃ、どの道上手く行く筈無いのになぁ……お前の瞳がずっと好きだったんだ。その瞳に似合う顔、その顔に似合う体、その体に似合う声……」


一弥は優を見つめて見惚れる様に言った。


「お前の全て……」


優は呆れる様に一弥を見つめると、いつもの様に可愛い笑顔を浮かべた。


「もう離さないからな……」


優は笑って手を繋いで歩く。


「絶対付き合うからな……」


優は吹き出す様に笑う。


「俺たち恋人になるからな」


優は口元を緩めて、少し震えさせて笑んだ。

一弥を虜にしてやまないその綺麗な瞳が、また微かに揺れて潤いを溜めた。

そして静かに一筋溢れたのを、一弥は知らない。




勿忘草わすれなぐさ…………伝統色のいろはより……

明るい青色

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