3. アレクサンドル・コズィレフ

 ぼくたちは無言のまま家に帰った。夫人は青い顔で、心ここにあらず、といったふうにずっと手を動かしていた――でも、いつもなら現れる雪の結晶は出てこない。それでも、キーラとクララといったん別れて玄関のドアを閉め、コートを壁にかけるとぼくは黙っていられなくなった。

「……ねえ、何が起こったの?」

 ぼくは尋ねた。少し間を開けて、夫人が答えた。

 「あの壺はね、魔力を溜める道具なの。私の曽祖父が作ったものよ。ヴィルナードを倒した時、彼は世界一の魔力を持っていたわ……もちろん、私も彼には敵わなかった。だから力の大部分を奪い取って壺に封印したの。」

 「溜めた力はどうなるの?」

 「解放して、自分の力を強化することができるわ。でも、他人の力を取り込むのはとても危険なの。たいていの場合、力と力が争って体を内側から破壊する。薬を使えば融合はできるけど、それは禁止されているわ。それに薬自体も作るのが大変で、副作用も大きいの。他にも、自分の力を壺に閉じ込めて、必要な時に取り出すことができる……」

 そこまで言うと、夫人の顔色がさらに青ざめた。くちびるがまさか、の形に動く。

 「……ヴィルナードの狙いはそれだったってこと?エレーナに奪われた力を取り戻して、また悪の大魔法使いに返り咲こうとしてるってこと?」

 エルが恐る恐る言った。夫人が震える声で言う。

 「壺の魔力を取り出すには、私か私と直接血の繋がった者でないといけないわ。私を連れ去ってあの手この手で協力させるのが一番だけど、奴はそれをしなかった……ということは、ヴィルナードはきっとアレクサンドルに目をつけているはずよ。何としてでも彼と接触しようとするはずだわ。」

 アレクサンドル?ぼくは首をかしげた。アレクサンドルは夫人の一人息子で、夫人がアメリカに渡った時にロシアに残った、というのは聞いたことがある。でも彼はロシアで革命が起こった時に連絡が取れなくなったはず……夫人もエルもそう言ってなかったっけ?

 「……なら仕方ないわ」

 そう言うなり、夫人は客間に向かった。飾り棚の一番上からボトルシップを取り出すと、夫人はぼくとエルの方を向いて、言った。

 「いい、二人とも?アレクサンドルに会って、ここに連れてきて頂戴。スニェークを連れて行くといいわ――彼なら私に何かあったとすぐに分かるわ。私は残って、ヴィルナードを倒して壺を取り戻す方法を考えるから。」

 「でもエレーナ、その船でロシアに行ってもアレクサンドルには会えないかもしれないわよ?」

 エルが言った。

 そう、このボトルシップも、夫人の魔法道具の一つだ――曇り一つないガラス瓶の中のガラスの船、「ローズマリー号」と書かれた金のプレート付きの台座に鎮座するきれいなインテリア。これは夫人が遠くへ――もちろん魔法界で――出かける時に使う移動手段だ。ところが、夫人が言ったのはただ移動するだけの使い方じゃなかった。

「この船はね、時間を越えることができるの。」

「ウソでしょ!?」

 エルが大声で言う。でも夫人は真面目な顔で、こう続けた。

「本当よ。これで1917年のロシアに行って、アレクサンドルを連れてくるの。今のところ、これしか手はないわ。さ、早く中に入って。」

 ぼくは言われるままに、瓶の口に足を近づけた――スポン!次の瞬間、ぼくは硬いガラスの甲板に寝転がっていた。周りがやけにゆがんで見える。エルとスニェークはちゃんと足から甲板に降り立った。甲板を突っ切って舵輪の前に立つと、舵輪の中心におじいさんの顔が現れて、しゃべった。

 「なんと、エルヴィラ嬢ではありませんか!久しいですのう!」

 「久しぶりね、爺や。アレクサンドルを探しにロシアに戻って以来。」

 「いやはや、時の経つのは早いものだ……全く奥方ときたら、いつまで私に埃を被らせておくのか、爺は不安でたまらんかったですわ。それにスニェークとカイル坊やもご一緒とは、今日はどちらへ参るのですかな?」

 「1917年のロシアよ。日付は3月21日。」

 それを聞いたとたん、爺やの顔が変わった。

 「なんと。良くないことがあったんですな?」

 無言でうなずくエルを見て、爺やは

「分かりました、参りましょう。」

 と答えた。

「心してくだされ、皆さま。時間の旅は少々荒っぽいですぞ!」


 だけど実際は少々荒っぽいどころじゃなかった。そんなものじゃない、あれはぼくの知ってる中で最悪の旅だ。透明な海に向かって船が動き出した途端に嵐になって、ぼくたちは甲板の上であっちこっちへ転がされた。船はさんざん波にもみくちゃにされて、最後にはぼくたちは海に投げ出された。そして溺れる、と思ったその瞬間――ぼくたちは夜の港町に立っていた。立派な帆船やら小さなボートやらに混じって、ガラスの船も停泊しているのが見える。何が起こったのか一瞬分からなくなって、ぼくは呟いた。

 「もう二度と、時間旅行なんかするもんか!」

 独り言を言ったつもりが、エルにはしっかり聞こえていたらしい。

 「ばかな事言わない、スニェークを見失ったらどうする……」

 どうするのよ、きっとエルはこう言うつもりだったんだろう。だが、ぼくたちがもめている間に、スニェークは人混みの中に消えてしまっていた。

 1917年3月21日、これがアレクサンドルから夫人に来た最後の手紙の日付だった。それを頼りにぼくたちが来たのは21日の夜、いくら人間界の出来事は魔法界に影響しないとはいえ、町を歩くぼくたちの耳に入ってくるのはどれも人間界の革命の話だ。と、聞き覚えのある鳴き声がぼくたちの耳に飛び込んできた――「スニェークだ!」「スニェークよ!」同時に叫んで駆け出した先には、一人の青年が白い大型犬にじゃれつかれていた。しっぽを振って喜ぶ犬に、青年が何やら話しかけている。

 「……アレクサンドル?」

 エルが呼ぶと、青年がこっちに気付いたように振り返った。スニェークに連れられるまま、彼はぼくたちの前に立った。

 「……Эльвира? Что ты здесь делаешь?」《エルヴィラ?ここで何をしてる?》

 青年が言った。もちろん、彼はロシア語をしゃべった――ぼくには何を言っているのか分からない。エルヴィラが答えて、ロシア語で言った。

 「Нам рассказала Елена. Я хочу, чтобы вы пошли с нами.」《エレーナに言われて来たの。私たちと一緒に来て。》

 青年は深刻そうな顔でうなずいて言った。

 「Я знаю, что не только это, что случилось?」《ただ事じゃないのは分かってる。何があったんだ?》

 ぼくたちはその青年――アレクサンドルに、事情を説明した。

「……なるほどな」

 アレクサンドルが呟いた。ロシア訛りは強いけど、英語もしゃべれるらしい。

「でも、なんで俺が母さんに協力しなくちゃならない?どうしてそういう話になった?」

「エレーナはあなたしか手がないって言ってたわ。それに壺があいつの手にある以上、私とカイルとエレーナだけじゃ」

「なんでこのガキが頭数に入ってるんだ?」

 アレクサンドルが聞いた。エルが言葉に詰まったように黙り込んだ。まあ、いきなり従妹と母親の犬が知らない子どもを連れてきて弟だと言い、さらに助けが必要だから未来に来い、なんて言われたら誰だって混乱するだろう。ぼくは夫人がいつだったか言っていたことを思い出して、口を開いて、息を吸った。

「……ねえ、アレクサンドルって強い魔法使いなんでしょ?」

 思い切って聞くと、アレクサンドルが頷いた。ぼくは続けて言った。

「だったら、こっちに来てぼくたちに協力してよ。ヴィルナードの復活を止められたら、アレクサンドルだって手柄を立てられるよ。さすが冬の魔女、ウィンターウォーク夫人の息子だってみんなに言ってもらえるんじゃない?」

「ふん、つくづく変なあだ名だぜ……お前、いつも母さんのこと、ウィンターウォーク夫人って呼んでるのか?」

 思わぬ問いに、ぼくはぎこちなく頷いた。そりゃ面と向かっては呼ばないけど、それでもぼくはもらわれた子で弟子だから……

「じゃあ、これからは“母さん”って呼ぶんだな。いくら養子だからって、それじゃあんまり他人行儀だ。それに、俺はそんな弟はゴメンだね。」

 そう言って、アレクサンドルはエルに向き直った。

「分かった、俺もその未来のアメリカとやらに行くよ。いつまでもここでくすぶってるわけにはいかないしな。とっとと行って、ヴィルナードの野郎を叩きのめしてやろうぜ」


 ところが、現在に帰ってきたぼくたちの前に、なぜかノエルが立っていた。

「ノエル!?どうしてここに……」

「パパの邪魔をさせないためよ。」

 ノエルはそう言うと、壺を出現させた――まさか、彼女まで魔法が使えたなんて。驚くぼくに、ノエルはさらに言った。

「悪いけど、アレクサンドルにはパパの手伝いをしてもらうわ。彼の力があれば、パパにかなうヤツなんていなくなるんだから!」

「あー、お嬢さん?そういうことは本人の前で言うことじゃないと思うぜ?」

 呆気にとられていたアレクサンドルが言う。「それに、それは春の壺だろう?お前とお前のパパには悪いけど、そいつは俺の母さんの壺で、返してもらわないと困るんだ」

「なるほど。じゃああなたがアレクサンドルね?」

 ノエルが言った。その時ぼくは、ノエルの空いている手が光を放ち始めたのに気付いた。明るくて禍々しい、緑色の光だ。ノエルが手を突き出すと同時に、ぼくは反射的に両手を突き出した。光と光がぶつかり合い、その衝撃でぼくたちはよろけた――と同時に、ノエルが壺を手放した。壺は宙に浮かんだかと思うと、次の瞬間落下した。慌てて伸ばしたぼくの手をかすめ、次に伸ばしたエルの手は届かず、地面にぶつかろうとする壺を受け止めようとアレクサンドルが手を伸ばしたその時、ノエルの伸ばした手から光が出て、壺が弾き飛ばされた――ガチャン。


 壺が砕けた。


 全員が呆然と見守る中、壺の破片がカタカタと震える。と、次の瞬間、破片から一斉に光が吐き出されて方々に散った。中でもひときわ大きな光がふたつ、違う方向へ飛んで行った。一つは白銀、もう一つは黒い光の玉だ。黒い光の飛んで行った先で、何かが爆発するような音がした。

「フフフフフ……ついにこの時が来たわ」

 静寂の中で、ノエルが笑った。

「偉大なる魔法使い、ヴィルナードの復活よ!!」

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