進路希望

天葬

　手伝いの畑仕事が終わると、茄子（なす）や葱（ねぎ）など収穫物を分けてもらったカゴを家に持って帰り、私は村を南に海へ出た。

　簡素な裾（すそ）の長い服を軽くはたいて、帯紐（おびひも）を締（し）め直す。飾りの黄色い硝子珠（ガラスだま）がコロコロ揺れた。

　のんびり歩いていたものの自然と脚が速くなり、村の端から青い水平線が見えると同時に駆け出して、私は大きく翼を広げて蒼空（あおぞら）へ上昇した。

　変身した茶褐色の翼で力一杯羽ばたき、あっという間に人々や家が遠く見下ろせるようになった。

　キリリリリ……

　私は一羽の鶸（ひわ）になる。

　澄んだ声が鈴を振るように美しい。

　翼を広げた時に見える風切羽の黄色い帯も好きだ。

　始まったばかりの夏の陽はまだ明るかった。

　飛鳥の術

　私は師匠から鳥に変身する術を教えてもらった。背中から翼を生やすのではなく、人間から鳥へ、まるまる姿を変えるのである。

　私は鶸を選んだが、こんなてのひらに乗るほどの小さな鳥では、隼（はやぶさ）でもやって来たら取って喰（く）われてしまうのではないか、

　……と思われるようなことは、「この世界」では起こらない。私たちはひとつの舞台を終わらせた者であり、どのようにここに辿（たど）り着いたのかは記憶にない。

　気が付いたら手ぶらで立っていた。生存競争から解放されたのだとぼんやりわかった。

　本物の鳥は存在しないけれど、

「飛びたい」と思った者が自由に空を駆ける、この場所を蓬莱（ほうらい）と呼ぶこともあった。

　夢を見ているだけだろうか、それともここは夢から醒（さ）めた場所なのか……？

　私の最期の記憶は海にある。たしか十六かその辺りだったと思う。もう成長しない体でたびたび南へ飛んでいく。

　私はあの夜に見た星を、もう一度見たいと思い、飛ぶことを覚えた。星の名は知らない。

　海の風は強かったが、心地好い陽射しと穏やかな波音が迎えてくれた。数羽の鴎（かもめ）が隣を滑空（かっくう）していく。一声鳴いて挨拶（あいさつ）した。

　若鳥の私は休まず砂浜から海へ出て、沖の方まで飛んでいった。

　水面に光がきらきらと輝いている。

　水平線の向こうには、私がかつて住んでいた村があるのかもしれない。けれど戻る機会はないだろう。

　私は独り羽ばたくと、高く舞い上がった。上昇気流を捕（つか）まえる。

　空はやや陽が傾いている。

　ぐんぐん遠のいていく蓬莱は、島なのか大陸の端っこにある村なのか、いまひとつよくわからなかった。南は海へ通じているが、北は深山幽谷（しんざんゆうこく）、その山頂は雲海に呑（の）み込まれて視界がさえぎられていた。師匠は星に最も近い場所、天の楼閣（ろうかく）へ去っていったが、ここからでは見えない。

　ビュッ！！

「あっ」

　突然黒い塊（かたまり）が物凄（ものすご）い速さで私のすぐ下を飛んでいった。南の海から村へ一直線に。「仲間」だろうか。

　私は上昇を止めてすぐに急降下すると黒い塊を追いかけた。神秘の働く世界ならもしかしたらと思いたいが、やはり小さな鶸鳥の体ではとても追い付けない。

　塊は速度を緩（ゆる）めることなく弾丸のようにすっ飛んでいき、遠くに見える浜辺に激突した。もうもうと砂煙が上がる。

　懸命に翼を羽ばたかせて、私は陸に到着した。すぐに人間の姿へ戻り柔らかな地面を走る。砂地に轍（わだち）を残すように盛大に突っ込んできた塊は十数メートル向こうでようやく落ち着いたようだった。こんもりと砂山に埋もれている。

「おい、大丈夫か」

　大丈夫でないことはわかっているのだが、ここでは命の危険が無いので、多少間の抜けた呼びかけをしてしまった。

　私は砂山に近づくとひざまずき、両手で砂をかき出した。昼間太陽にさらされた地面はまだ熱く、てのひらも、ズボンを通しても熱を感じる。砂に埋もれてしまった誰かも、生き物であれば呼吸をさせてやらなければいけない。

　砂山はすぐに崩れていった。まず胸元が現れたのでそれより上の部分を取り除く。少年のようだった。

　一瞬ほっとしたが手は休めず、私は無心に砂を掘り進んでいった。

　彼は固く目を閉じてうんともすんとも言わない。擦（す）り傷がいくらかできていた。半開きの口に砂が入り込んでいる。後で洗ってやらなければ。

　はじめは白かったであろう服はボロボロで袖（そで）は破れ、腕の代わりに真っ黒な翼が横たわっていた。

　変身から人に戻る途中で気を失ってしまったのだろう。そっと撫（な）でてやる。ざらざらしていた。羽根が抜けたり、大きな怪我をしている様子はなかった。丈夫な奴だ。

　化石を掘り出すように少年の身体を助け出し、何度か声をかけた。返事はない。

　彼の飛鳥は烏（からす）だろうか。

　眠る少年の長い黒髪をかき上げる。しかしまあ全身砂まみれだ。私も同じ。

　頬（ほお）に手を添えた所で彼は気が付いたらしい。激しく咳（せ）き込んだ。私はようやく大きなため息をついた。

　少年が口に入った砂を吐き出してしまうまで待っていた。小刻みに震える丸まった背中をさすってやる。痩（や）せて浮き出た竜骨が固い。翼はまだ人間に戻らなかった。

　うつぶせになって低く喘（あえ）ぐ少年は、私（の見た目年齢）よりいくらか年下に見えた。

「声は出せそうかい」

　背中に手を当てたまま、ゆっくりと話しかける。しばらくぜえぜえ息をしていた少年は、ゆっくりと首を振った。喉（のど）が痛いのだ。

「わかった。もし歩けそうなら、海水でいいから砂を洗っておこう。立てるかい」

　これも首を振る。ならこのまま村に運んだ方がよさそうだ。

「君は、今こちらの世界にやって来た人だろうか。答えなくていい。この先に私たちの村があるから、一緒に行こう」

　少しずつ呼吸が楽になった少年は長く垂らした髪の隙間（すきま）から私の顔を見た。目に涙が光っていた。

　私は一言ことわると、少年の身体の向きを変えてよいしょと抱き上げた。驚くほど軽かった。幼い子供のようだ。彼は戻らない黒い翼を胸に重ねて目を閉じている。疲れているのだと思う。雷光のように全力疾走してきたのだから。まずはベッドで横になろう。

　師匠がいてくれたら、助言をもらえたかもしれない。

　陽は沈み、私たちは宵（よい）の空も見上げずに北へ歩いていった。名も無き星がひとつふたつ増えていても、誰も振り返ることはなかった。