東雲先輩と暁君

 廃墟と化したアパートの裏側に二人の少年がもぐり込んできた。

 敷地へ入るための鉄製の門は鍵が壊れていた。人通りの少ない路地にあるのも幸いして、小学生の秘密基地や猫の集会場としても使われているようだ。


東雲しののめ先輩、はやくはやく」

「あ~、ついに桜が散っちゃったなあ」

「まだ半分残ってますよ」


 二人がここを見つけたのは、新雪にざくざく足跡をつけて町内未踏の地巡りをやっていた寒い時期だった。


 忘れ去られた建物は二階立てのオンボロ屋。窓の網戸が半分外れていたりする。古くなった壁につたからまってぐんぐん伸び進んでいた。

 春になってあたたかくなった今、敷地内を雑草が暴力的な自由さではびこっている。タンポポ、オオイヌノフグリ、ホトケノザ、ヒナゲシ……緑の草々も強い生命力で存在を主張している。すみっこでは盛りを終えたスイセンの花がしおれて茶色くなっていた。


あかつき君、これ何の花か知ってる?」

「えっ? と、スズラン……?」

「満天星」


 東雲先輩は門の近くに植わっている葉桜の下を名残惜しそうに通りすぎて、自転車置き場までやって来た。暁君に桜よりいくぶん背の低い木を指し示す。そこには緑の葉に囲まれた白い小粒の花が星のように咲き広がっていた。


 周りをきょろきょろしている暁君に学生服のそでを引っ張られながら、東雲先輩はゆったりと春をたのしんでいる。

 花を愛でる先輩の横顔と陽に当たった睫毛まつげの光。暁君はつい立ち止まって、つやのある褐色かっしょくの目を開いた。しばらく磁石にくっついたように先輩の姿をじっと見つめていた。


 アパートの裏側には、外のへいとの間に人一人分通れる狭い隙間すきまがある。暁君がカバンを抱えながら先に奥へ入り、ひょろっと背の高い東雲先輩が難なく続く。

 彼らは建物の真ん中辺りの日蔭ひかげになった所でしゃがんでひざをつくと、そっと手を重ねて唇を合わせた。


 一分が経ち、三分を過ぎても二人の姿勢は変わらなかった。

 ときどき身じろぎはするものの、まるで彫像にでもなったようにお互い寄り添ったままでいた。


 情熱的に絡み合うわけでもなく、今日はただのゲームなのだった。キスしたままいつまで持ちこたえていられるか。唇が離れたら、おしまい。


 去年、部活仲間と遊んでいたときに、罰ゲームとしてポッキーゲームをやらされた。それから二人は顔を合わせると耳が赤くなるのだという。

 部員みんなで星空観測をした夜、そらを見上げている仲間たちの後ろで、こっそりと東雲先輩と暁君はお互いの想いを打ち明けた。寒さに震える流星群の夜だった。


 さて、キスゲームが始まってから何分経ったのかはわからない。いくらもしないうちに二人ともきてきたらしく、それぞれの右手で握手をしながらついに指相撲が始まった。相手の親指をぎゅっと押さえるとすぐに指を離す。勝ち負けにこだわりはなく、ただじゃれあっているだけだった。


 桜の花びらがはらはらと風に流されてきた。蝶のようにゆっくり舞って地面に静かに横たわる。暁君の頭の上にもひとひらやって来た。


 ふいに東雲先輩がズボンのポケットから小さな丸い粒を取り出した。手元は見ず器用に銀の包みをがしていくと、中から綺麗な琥珀こはく色の飴玉があらわれた。

 先輩は唇を離さないようにそおっと飴を自分の口に入れた。ひまつぶしとはずるい。暁君の分はなかった。


 そろそろやめようか、後輩の暁君があきらめて顔を上げようとした時、そうはさせまいと東雲先輩の手が彼の後頭部をぐっと引き寄せた。密着した唇の間から琥珀色の飴がのぞく。東雲先輩は舌で転がしながら飴玉を暁君の口の中へぐにっと押し込んだ。


 ふにゃふにゃと身体の力が抜けていく暁君の背中を東雲先輩のほのかに朱くなった手が支えてくれる。

 先輩はもう一度右手を出して指相撲に誘うのだった。第二ラウンドだ。


 暁君が口に含んでいる琥珀を東雲先輩が舌先でつつくと、暁君はためらいがちに先輩の真似をして飴玉を舌で押し返した。


 飴玉を交換して蜂蜜の甘さを二人で味わっていると、ふわりとした何かがズボンに触れた。

 ほおの赤くなった暁君がそっと目を開ける。茶色の猫だ。この狭い通路は猫の通り道だった。


 人間ごときが猫様の行く手をふさいでいる。茶猫はたっぷりボリュームのあるしっぽをゆらし、ほこりを払うような仕草で指相撲している子どもたちの手をでた。

 ずいぶん人馴れしているようだ。迷惑そうに小さくニャーと鳴いただけで、あとは二人の足元に割り込んだ。


 東雲先輩の手はふさがっている。暁君は残された左手で猫の頭をいてやった。茶猫は「こっちだ、こっち」と頭をかたむけて目を細める。ゴロゴロとのどが鳴っている。


 目隠しとなっている壁一枚の向こう側を自転車が走っていった。お母さんと幼稚園児のようだ。シャボン玉の歌をうたっている。

 歌が遠ざかると、また静かな時間が続いた。

 そう、静かな時間が続いて……、


「……さすがに、夜になりますよ」

「決着がつかないね……」


 飴玉が溶けて消えていったころ、ようやく二人は唇を離して顔を見合わせた。猫があくびをしている。

 東雲先輩は不器用なほほえみを見せると、照れ隠しに暁君の肩に頭をもたせかけた。暁君は先輩の少しクセのある黒髪を撫でた。


 日が長くなった。世界はまだ明るい。空は青とだいだい色のグラデーションだ。さくさくと雑草を踏みしめて二人の少年がアパートの裏から外に出てきた。さっきの満天星の木までやって来ると、東雲先輩はもう一度足を止めた。


「夜にまた来てみようか。懐中電灯とかで、この花を桜みたいにライトアップしてさ。ほんとの星のように見えるかもね」

「補導されちゃいますから……。夏になったら、他にはどんな花が咲くんですか?」

「そうだな、あっちの隅に紫陽花の植え込みがあるだろう。あとはアヤメが見られるといいなあ」

「僕、アヤメとカキツバタの違いがわかりません」

「ああ、あれはややこしいんだよね」


 歩く植物図鑑がうんちくを語っている隣で、後輩の少年はしきりにうなずきながら話を聞いている。まったく仲の良いことだ。


 正月と一緒にやって来た彼らを我輩はずっと見守ってきた。あの二人は大人になってもむつまじい姿を見せてくれるだろうか。その前にこちらの寿命が来てしまうかもしれんが。


 アパートはいまだ取り壊されることもなく時と共にすたれていく。階段なんかずいぶんびてちょっとさわっただけでポロポロ塗装ががれてしまう。


 夏休みにはヒマワリもニョキッと顔を出すので、二人の驚く姿を見るのが楽しみだ。

 そうそう、満天星の花見についてだが、今夜はここで我々の集会があるから、できれば明日にしてほしいのニャ。



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