死に顔に、マーガリン

  チャールズ・インキマーカー(著)


  平野祝(訳)

  ミュンヒハウゼン新書


 この珍妙なタイトルは比喩や皮肉の類ではない。

 イギリス・ポートマン市の開業医である著者、チャールズ・インキマーカーは風変わり極まりない趣味を持っていた。かかりつけの患者が死亡した際、遺族の目を盗んでその顔面にマーガリンを塗りたくり、写真に収めるという趣味だ。本書は彼が集めた百二十六人分の死者で構成された写真集なのだ。

 

 どの死者の表情も、命を失った直後であることを確信させる生命の残滓と死の残酷さを湛えている。おそらく余計なものが混ざっていなければ、この写真集は読者に厳粛な何かを感じ取らせることができるだろう。しかし、圧倒的な余計もの……つまりイギリスのスーパーならどこでも手に入る、モリナガ製の格安マーガリンが荘厳さを台無しにしている。マーガリンのせいで、テカテカと艶めいた肌が発散しているアンバランス。このちぐはぐさが、鑑賞する者にリアクションを迷わせる。この「芸術」を真面目に論評するべきか、死者への冒涜であると激怒するべきか、笑い飛ばすべきなのか、と。


 本書が発表されたのは1947年、この年、八十代にさしかかっていた著者は、医師業を引退すると同時に、本書を出版した。当然、モデルの遺族達は激怒、著者に対して訴訟を起こすが、著者は涼しい顔で嘯いた。「人権や名誉は生者にこそ適用されるものであり、死者に及びはしない。私はただ、命が失せた抜け殻に装飾を施したに過ぎない」と。

 人権に関する考え方が現在とは微妙に異なっていた70年以上過去の話であり、裁判は紛糾した。最終的には著者の方が折れ、本書の絶版と、売り上げの半分を遺族に支払うことで騒動は決着を見た。


 著者は後書きで述べている。「延命と健康に心を砕いてきた患者が亡くなったとき、奇妙な感覚に襲われる。それまで『ひと』だった存在が、一瞬にして『もの』に成り果ててしまうあっけなさ、落差、違和感。その感触が示すものの正体を読者に問いたかったのだ」と。


 

(このレビューは妄想に基づくものです)

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