何者でもなかった男



 ザッケロウ・バート(著)

 大池須磨子(訳)


 ミュンヒハウゼン新書


 2008年六月十日、イタリア・シミニョーラ市の市役所で一人の老人が突然昏倒、近くの病院に搬送されましたが、時既に遅く、帰らぬ人となってしまいまし

た。死因は脳溢血でした。

 市役所職員や利用者など、日常的に市役所を訪れる人たちは、皆、老人のことを知っていました。彼は常に緑の作業服を纏い、段ボール箱を担いでふうふう言いながら役所内を歩き回っていたからです。時折不慣れな利用者に声をかけ、建物内の案内もかってくれたため、親切な老人として皆、好感を抱いていました。


 しかしながら彼の死後、驚くべき事実が判明しました。職員も利用者も彼を市役所内の保守点検か何かに従事する作業員だと思い込んでいたのですが、職員名簿にも、関連企業の社員リストにも彼の存在を示す記述は見当たらなかったのです。ようするにこの老人は、作業服を纏い、何かの仕事をしているように見せかけていた部外者だったのです!


 老人の名はトマス・ランド。シミニョーラ市民でさえありませんでした。警察が経歴を調べたところ、ローマで数年前まで株式の仲買業を営んでおり、イタリ

ア各地に豪壮な邸宅・別荘を構える大富豪であることが判明しました。

 一体、老人は何のために市役所に潜り込んでいたのか?シミニョーラは何の変哲もない田舎町であり、外国や反政府組織がスパイを送り込んで益のある場所ではありません。老人が何らかの悪事を企んでいたとしても、彼の裕福さから考えると、自身が作業員を装って潜り込むより、人を雇って工作をさせるやり方の方が適当であるようにも思われます。そもそも老人が市役所に紛れ込んでいた期間中、盗難や破壊行為も発生していませんでした。


 本書は市役所職員や利用者、老人の生前の知り合いだった人物のインタビューを中心に構成されたノンフィクションです。著者、ザッケロウ・バートは老人の目的について、「何ら根拠とするべき事項は提示できないが」と断りを入れた上で仮説を提示しています。


 おそらく老人にとって重要な誰かが市役所を頻繁に訪れていたか、職員として勤務していたのではないだろうか。

 恩人、あるいは若き日に想いを寄せていた恋人の子供のような人物が……

 とにかく重要な人物であったため、老人は自分自身の目でその動向を確かめたかったのだ。それくらいしか理由は考えられない。


 この説は説得力のあるものとして支持を集めたものの、市役所内で老人と関わりがあるかもしれないと名乗り出るものはいませんでした。そのため、老人の動機は謎のままで終わっています。

 


(このレビューは妄想に基づくものです)

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