第25話 おつかい童子

 緋猪岩陰陽寮の上空に影が広がり、真下の地面にも影が落ちた。

 寮の外壁に走った亀裂の奥から、水滴が床板を打つ音が漏れている。

 その壁の中から純白の草履が浮かび上がった。


 外壁の中から女が一人、銀糸の刺繍が施された白無垢の裾を引きつづりながら歩み出る。綿帽子の下から覗く肌は灰緑色を呈し、虫のような複眼の双眸は繋がってサングラススのようである。歯茎からは伸びた上下二対の触覚は唇を突き破って飛び出し、先端には鋭く尖った八重歯が生えていた。


 八瀬童子。


 亀裂から漏れる音が激しさを増し、血の匂いが漂ってくる。

 しかし八瀬童子は気にした様子もなく歩み始めた。次第に打掛の裾がこんもりと森あったかと思うと、急にその場を飛び退いた。


「……お尻触ってでしょ、金熊!」


 八瀬童子が睨め付けた先で、黄金色の男が立膝を付いている。側頭部から生える角は水牛のそれであり、ニヤニヤと下衆な笑みを向けながら、カリカリと爪を立てていた。


「ちょっとくらいいだろ。減るもんじゃなしに」


 悪びれもせずに金熊童子が立ち上がる。五メートル近いその巨体は筋肉の鎧に身を包み、腰には手拭いを一枚巻いているだけだった。


 八瀬童子が何も言わず踵を返すと、金熊童子が慌てて「分かった分かった。尻の分の働きはする」と取り繕った。金熊童子は黙ったままの八瀬童子の顔を上から覗き込んで、安堵で緩んだ口元を手で覆い隠す。


「でもよお、俺を呼ばなくても良かったんじゃねえのかあ?」


 目線を明後日の方向に向けながら言ったとき、屍鬼たちが大挙して襲い掛かってきた。

 金熊童子が八瀬童子を後ろに下がらせて前に出る。

 


「茨木ちゃん、ギリギリで敵味方の識別を術式に組み込めなかったっぽいんだよね」

 と、背後から八瀬童子がため息交じりに独白した。

「なるほどね。それで俺を呼んだってわけか」

 金熊童子がその独り言に答えたときには、一体の屍鬼も立っていなかった。


「そういうわけだから、金熊が『緋猪岩の角槌』取ってきなさい」

「あいよ」


 二人の鬼が寮の入り口に辿り着いた。床に輝く召喚陣と、天上に貼り付けらえた無数の死体。死体の腹から茨木童子の右手が突き出し、伸ばした人差し指の先から血がしたたり落ちて、ザーザーと、雨音が鳴り響いている。そして床のあちこちに出来た血だまりから屍鬼が次々と生み出されている。


 屍鬼らは組み込まれた術式に従って金熊童子に殺到するが、鎧袖一触、金熊童子の腕の一振りで蹴散らされてしまう。まるで散歩でもするように歩みを続けるその先に、一振りの槌が据え置かれている。巨木ほどの太さの角に鉄骨の柄を突き刺しただけの簡素な作りだが、それこそが茨木童子に回収を頼まれた『緋猪岩の角槌』だった。


「おーい、取ったぞー」


 巨大な槌を片手で振り回しながら、入り口の八瀬童子に合図を送った。

 ピタリとさっきまでの土砂降りが嘘のように血の雨が止んで、召喚陣が光を失った。

 寮内が暗転して、ただ一つの明かりが暗闇に浮かび上がった。八瀬童子が頭に被った綿帽子が蛍の光のような優しい光を放っている。


 八瀬童子はその明かり頼りにしずしずと召喚陣へ向かい、踵を返してその外周をゆっくりと歩み始めた。引き摺る白無垢の裾が膨らんで人影が現れる。


 荒縄で縛られた全裸の男だった。胸に一抱えほどの大きな石が括り付けられている。背中に生えた獣毛は乱雑に毟られ、分厚い瘡蓋と鞭によるミミズ腫れが目立つ。


 男が目を覆う布の下から涙が流して「許して下さい」「帰してください」と懇願するが、八瀬童子はまた一歩前に進んだ。そして裾からまた別のナムチが現れる。彼女も男と同じく縛れ、涙を流して震えている。


 八瀬童子がしずしずと召喚陣の外周を一周して、年齢も性別もバラバラな総勢五〇余名のナムチが並んだ。彼らは身を縮こまらせ謝罪と懇願を繰り返しいた。


 召喚陣から少し離れた八瀬童子が、カン、と足を鳴らして振り返る。ナムチが一斉に口を噤んだ。しんと寮内が静まり返る。鼻をすする音すらしない。

 ピンと空気が張り詰めた。

 布切れの音。そして紙が擦るれる音がした。

 八瀬童子の二本の指の間に札が一枚挟まっている。


「背筋を伸ばして、頭を上げなさい」


 八瀬童子が厳かに命令した。ナムチの頭がゆっくりと持ち上がる。堪えきれずに漏れた誰かのすすり泣く声がした。

 


「顎を上げて、首を伸ばして」


 八瀬童子が命令を重ねた。

 一人、また一人とすすり泣く声が大きくなった。


 彼らはとっくに限界まで頭を上げていた。しかし次の指示が来ない。

 八瀬童子も金熊童子も黙ったまま、それが返って恐ろしく、「死にたくない」と誰かが漏らした。堰を切って皆が叫ぶ。鬼に捕まってからずっと張り詰めていた何かがぷつんと切れたのだ。


「神様」「嫌だ」「早く」「許して」「どうか」「もういい」「大好きだった」「なんで」「家出しなき」「母さん」「死んでごめん」「あなた」「ああああ」「最後に」「殺して」「酒」「帰して」「死にたい」「お願い」「寝たきり」「迷惑かけて」「神様」「ごめん」「歩ける」「お母さん」「家に」「リナの顔が」「ああああ」「愛してる」「ずっとずっと」「生んでくれてあり」


 「斬」と八瀬童子が腕を薙いで、ぽーん、とナムチたちの首が飛んだ。頭を失った胴体は胸に括り付けられた石の重みで前へ倒れ、切り口から飛び出す鮮血が寮中央へ。召喚陣が輝きを取り戻した。


「はい、終わり。雨が降る前に撤収しましょ」


 八瀬童子が天井を一瞥して踵を返して寮を出る。


「あー、もったいねえなあ」


『緋猪岩の角槌』を担いだ金熊童子が適当な生首を拾い上げ、遅れて寮の門扉を潜った。

 夜空を覆った影はいつの間にか消え失せ、月光が二人の影を作っている。

 打掛の前を閉める帯紐を解く八瀬童子の目の前に金熊童子が拾った首を見せた。


「ほら、こいつとかよお。積極的で愛着湧いてたんだぜ? 「私が、私が」つって、他の女子を押しのけてさあ。可愛かったなあ。ついついお願い聞いちまったぜえ」

「嘘ね。生贄を選んだのは自分じゃない。どうせ、残してるお気に入りの話でしょ?」

「分かってねえな。玩具は大いに越したことねえっていってことよ」

「あっそう。それより早く退けてくれる? 血が垂れそうだわ」

「おっと、こりゃすまんすまん」


 金熊童子が慌てて首をひっこめた。そのときである。

 二人の耳が聞き馴染みのない音を拾った。遠いと思ったその音は、次の瞬間には、見上げたすぐそばまで迫っていた。

 

「ん」

「お」


 二人の童子が見上げた先で、無人の火車がミサイルのごとく飛来して、突如、空中爆散した。弾け飛んだ鉄屑に交じって女の生首も爆風に飛ばされている。


「おー、本当だ。ははあ、本当に打ち出の小槌みてえだな」

「ええ凄いわ。肌は少し焦げたみたいだけど、原型留めてる」


 金熊童子が振り抜いた『緋猪岩の角槌』を矯めつ眇めつして「けどなあ」と呟いた。


「槌は使いずれえなあ。能力と形があってねえもんよお。棍棒とか、杖もカッコいいなあ。こんだけデカけりゃ、十は作れるぜ」

「……そうね。ほら、屈みなさい。あ、お尻触ったら、臍から牛鬼産ませるから」

「くっ、本気でやりそうだな。分かった。誓って触らない」


 正座した金熊童子が頭の後ろで両手を組んで、曇りなき眼で八瀬童子を見つめる。八瀬童子がその目をじっと見つめ返すこと一秒、金熊童子の目がスッと横に逸れた。

 瞬間、落とし穴に落ちたみたいに金熊童子が地面の下に消えた。大きく広がった八瀬童子の影の中から金熊童子の野太い叫び声が木霊する。

 

 自分も影に飛び込もうとしたとき、背後から迫る足音を聞いた。ただの足音なら陰陽師とその式神だと判断して、とっくに影の中に入っている。しかしその足跡は妙だった。恐ろしく軽く、そして恐ろしく速い。


「歩幅が大きい……? いや、それだと音の軽さの説明がつかない……」


 何者か確認したい気持ちと、帰還すべきという気持ちが鬩ぎ合う。


「七大十」と女の声がして、思わず振り返った。上空に浮かぶ玉。陰陽師が使う丸薬だ。 

 その丸薬に急接近するのは雨雲か。否、人だ。式神だ。

 式神が大口を開けて、カラスみたいな奇声を発する。彼の口腔から歯の弾幕が射出され、八瀬童子は「面白い」と思い、同時に「残念」と思う。


 八瀬童子は眼前に迫る歯の弾丸を、後ろに倒れることで避けた。八瀬童子の体が影の中に飲み込まれていく。そして驚愕する七大十に言い放つ。


「鬼素を受け入れなさい。貴方には鬼になるべきだわ」


 影の扉が閉じる間際、寮の中から物が落下した音がいくつも聞こえた。

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