第10話 煙を吸ったら理性が飛んだ

 あれれ、おかしいぞ?


 トウモロコシが詰まった袋を受け取る江弥華の隣で、オレはおっちゃんを凝視して首を傾げた。

 さっきより格段に食指が動かない。あの臭いが薄まったからだろうか。

 袋の中の膳に目を向けると、食指が動く。匂いが健在だからだ。

 もしおっちゃんが膳なら、食欲に波があるのだろうか。


 うーん……それは考えにくい気がする。


 あの懐かしくて苦みを感じる臭い、あれを放つ何かが膳なのだろう。

 江弥華に言うべきだろうか。

 オレは屋台の夫婦に会釈して歩き出した江弥華の背を見つめながら考える。言うべきだろうか。


 少なくとも三つの膳からはあの臭いは感じない。そして理性が跳びかける程の食欲も湧きたたない。

 もしあの臭いのする膳があるとしたら、食べたい。言おう。


「江弥華、もう一個膳がある気がする」

「何? 何処だ、何処で見つけた?」


 見つけた訳じゃないんだよなあ。おっちゃんの体臭から感じたというか。

 ……言えねえ。それだけは言いたくねえ。


「ああ、なるほど。看板に〇がなかったんだろ? 別にそこ以外で買わない訳じゃないぞ」


 勘違いした江弥華が小首を傾げた。とりあえず、案内しろと鎖を引かれて、オレは意を決して告白した。「トウモロコシ屋のおっちゃんからめっちゃいい匂いがしたんだ!」と。


 江弥華は一瞬の間をおいて、「トウモロコシ屋か。どんな匂いだった? これとは違うのか?」と質問を重ねた。オレは感じた匂いを説明して、江弥華が聞いてみようと引き返した。


「店主、店主、聞きたいことがある」

「はい! 何でしょうか!?」

 

 おじちゃんとおばちゃんは青い顔になって背筋を伸ばした。


「懐かしくて苦みを感じる物を飲み食いしたか?」


 二人揃ってポカンとした顔で「懐かしくて苦みを感じる物ですか?」と聞き返した。とんちですかと言わんばかりの二人だったが、真剣な声音で問い詰める江弥華に圧倒されて、口にした物を思い出すように考え込んだ。


「懐かしいかは分からないですけど、苦み感じる物ならお茶ですか?」

「七大十、お茶か?」

「いや違う」

「苦みっつうと、夕餉に食った秋刀魚さんまはらわたとかですかね?」

「七大十、秋刀魚か?」

「違う」

「じゃあ、何だ?!」

「だから分かんないって!」


 江弥華が地団太を踏んで胸ぐらを掴むように鎖を引き寄せた時だった。


「ねぇ、なぁに? 人の往来で痴話げんかかしら?」

「……む、紫苑あざみか」


 江弥華の視線を追って見ると、和風ドレスに赤髪の女が苺クリームのような甘ったるい煙を吐きながらこちらに近づいてきていた。

 その煙の出所、紫苑の手にある煙管を見た瞬間、頭の中でビビッと全てが繋がって、思わず――。


「それだー‼」


 と叫んだ。

 辺りが一瞬静まり返り、すぐに元の喧騒を取り戻す。


「煙草だ。煙草だよ、江弥華」

「は? そんなわけないだろ」


 オレの確信を江弥華が一蹴する。


「何何? どうしたの? あたしにも教えて頂戴よ」


 紫苑が江弥華の背後から抱きついて尋ねた。江弥華はそれを鬱陶しそうに引き剥がして「私の式神が煙草が膳だと言うんだ」と状況を説明した。

 ふーん、と煙管を吹かして「普通はあり得ないわね」と煙を吐いた。


「でもこの子、日があるうちに覚醒して動き回っていたそうじゃない? ほら、あれよ。イレギュラーってやつなのよ。だからもしかしたらってこともあるんじゃないかしら?」


 江弥華は膳の入った袋を持ち直して、「ふむ」と左斜め下を見つめて静止した。その間、「ねえ、店主」と紫苑が屋台のおっちゃんに問いかける。


「煙草は嗜むかしら?」

「ええ、大好きでございます。丁度、江弥華様が来られた時も裏で一服してました」

「そ、ありがと」


 そして紫苑は江弥華へ視線を下ろし、「一考の余地ありね」と歩き出した。


「煙草はここにないわ。付いてらっしゃい」

「助かる」


 江弥華は紫苑の後を追い、オレもそれに続いた。


 オレと江弥華、紫苑とその式神であるオレが川で助けた女の四人はお膳市を出て、門を潜り、日本家屋が並ぶ大通りを歩き、一軒の大きな建物の前に立った。「ここよ」と紫苑が煙管を向ける先の看板幕には『つぶら』と書かれている。江弥華が贔屓にしている店だ。


 暖簾を潜った店内は、時代劇で見るような内装だった。

 壁の棚には大根や茄子など前世で見慣れた食材や、伝統工芸品店で見るような櫛や茶碗などが並んでいる。

 店の奥は一段上がって、畳になっており、正座している番頭が机に向かって書き物をしていた。


「紫苑様、それから江弥華様ではございませんか。随分遅う時間にいかがしましたか?」


 紫苑は番頭机の近くに腰を下ろし「煙草を見せて欲しいの」と要件を告げた。それを聞くや番頭が「おや、禁煙失敗ですかな?」ニヤリと笑う。


「あたしじゃないの。お客は江弥華よ。でも一応薄荷ハッカも見せて頂戴」

「かしこまりました。ついでにまどかも呼びましょう。喜びますから」


 番頭が奥へ消え、入れ替わるように遊女のような華美な着物を引き摺って、15、6歳の少女が出てきた。


「あらあら、珍しい組み合わせ。初デートにうちを選んでくれるなんて嬉しいわぁ」


 少女は着物の袖で口元を隠し、揶揄うように目を細めた。「残念だけど」と紫苑が答え、「知っとった」と円が返す。


「そら好いたからっちゅうて簡単に影響を受ける娘やないもん。それこそ解釈違いっちゅうもんやわ」


 円はクスクス笑い、江弥華に視線を向ける。


「ほんで、煙草なんてどうしたん? 煙草の煙は鬼素を吸うって、アレ迷信やで?」そして円はコテンと小首を傾げた。


「吸うのは私じゃい。式神だ」

 江弥華がオレの鎖を引いて前に出した。挨拶しろってことだろう、オレは「江弥華の式神の金倉七大十です」と頭を下げた。


「おかしいでしょ? 煙草がオレの膳だ、嘘を吐くな、って市の真ん中で騒いでたのよ」

 と紫苑が盛った状況説明をして、「こっちはあたしの伽陀優理香かだゆりかよ」と式神を紹介した。


 すげえ苗字だなと思いながら、無言で頭を下げる優理香を見た。


「二人ともよろしゅうね。そっちの汝牟遅は聞いてるわ」

 と円がオレを見る。


「あれやんね? あれなんて言うたっけ……」

「イレギュラーよ」

「あっ、もう! もうちょっとで出てきたのにぃ。はぁあ、成人してからすっと出えへんのよねぇ」


 円と紫苑が談笑し、江弥華が二人のそばに腰降ろした。


「江弥華ちゃん、何度も言うてるけど、うちは大丈夫なんよ?」

「あ、だったな」


 何が大丈夫なんだと思っていると、なんと江弥華がマスクとゴーグルを外したのだ。はっと息をのむ声は優理香だ。


 そうだろう、そうだろう。江弥華は別嬪だろう。


 オレがうんうん頷いていると、後ろに従業員を二人連れて番頭が戻ってきた。従業員はそれぞれ木箱を抱えている。


「ありがとう。はい、江弥華ちゃんはこっち、紫苑様はこっち」


 円がそれぞれの箱を指差して言った。


「新作はあるかしら?」

「誠意制作中や」

「それならいつもの三文分」

「吸い過ぎちゃうの? 禁煙の意味あらへんやん」


 二人が言い合う始めた隣で、江弥華はじっと箱の中を見ていた。箱は八つに区切られ、それぞれ銘柄が違うシャグ(煙草の葉っぱのこと)が入っている。


「駄目だ。全部同じ枯葉にしか見えん。七大十どれなんだ」

「えっと……」


 オレは屈んで箱の中を見た。滅茶苦茶いい匂いに涎が溢れてくる。しかし、あの時の衝動とはまだほど遠い。オレはそのことを正直に言うと、


「煙草なんやさかい、火ぃ付けてみたら?」


 横から円が提案して、番頭が立ち上がり紙とマッチを持ってきた。

 円は慣れた手つきでシャグを二摘まみ紙に巻いて煙草を作り、そのまま自分の口に持っていき、火をつけた。


「あら、ごめんなさい。いつもの癖で——」


 そこからの言葉は聞えなかった。差し出された煙草に目を奪われて離せない。煙草の先から出る煙、円の口から漏れる煙を食べたくて食べたくて――。


「落ち着け、七大十!」


 腹に衝撃を受けたと思ったら、オレは店の外まで吹き飛ばされていた。顔を上げれば、暖簾の奥で足を振り上げた江弥華の姿が目に入った。


「これで分かった。七大十の膳は煙草の煙だったか」

「びっくりしたわぁ。急に嚙みつこうとしてきて、食べられるかと思ったわ」

「すまない」

「ああ、気にせんとって。不用意なうちも悪いさかい」

「とりあえずこれを十文分貰っていいか?」

「毎度。もう、そんな暗い顔せんとって。江弥華ちゃんの式神のおかげで迷信が真実って分かったんやで? これで煙草の売り上げうなぎ上りやんか。ふふ、お釣りがくるわ」


 暖簾の向こうから二人の会話が聞こえてくる。我を忘れて女の子に襲い掛かった後ろめたさから目背に入れないでいると、江弥華の声が聞こえた。


「七大十、明日は寮に行く。早速お前の憑鬼能力を試したい。初陣だ」

「あ、はい。……え、初陣?!」

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