第10話 雨の〔ameno〕


 夕方から雨が降り出した。

 こんな日は、客足が遠のき、店は暇になる。

 新しいピクルスの仕込みでもしておこうか。

 バタンと扉が大きく開いた。


 前の彼女の、友達の沙耶さやが泣きながら、真っ青な顔で飛び込んで来た。

 歓楽街のクラブで働いている彼女は、同伴の男性に強引にホテルに連れ込まれそうになり、突き飛ばして雨の中逃げて来たらしい。

 びしょ濡れの沙耶にタオルを渡し、落ち着かせるためにホットレモネードを作った。

 少し落ち着いた沙耶は仕切りに腕をさすっている。

 寒いのも有るが、男に触れられたところが気持ち悪いのだろう。


 このまま、出勤させるのは可哀想だ。

 ロッカールームでシャワーを浴びる様に促し、連れて行く。

 シャワーのコックを捻り、適温になるのを待つ間、タオルとバスローブを出してやる。

 店にドレスは有る様だから、タクシーで向かわせれば何とかなるだろう。

 ヒールの高いパンプスを脱ぐ時に、足元がふらつき、思わず肩を支えた。


 その時、背後でカサリと乾いた音がして振り返る。


 ナナさんだ。


 走って店から出て行く後ろ姿が切ない。

 多分、勘違いをしている。

 でも、この状況は……


 もしかして、僕を意識してくれている?

 沙耶を彼女か何かだと思って、ショックを受けて傷付いている?

 若しくは、嫉妬…… ?

 不謹慎だけど、そうなら嬉しい。

 まずは、誤解を解かないと。

 そして、この気持ちを伝えたい。

 あの細い身体をこの腕に抱き締めたい。

 サラサラの髪に触れたい。

 艶のある唇にキスしたい。

 この胸で甘やかして、ドロドロに溶かしたい。

「沙耶ごめん。彼は僕の大切な人なんだ。バスローブは返さなくていいから」

 言い置いて、雨の中、ナナさんの後を急いで追いかけた。


 大通に面した公園でナナさんを見つけた。

 休日の散歩コースだ。

 ゆっくり近づいて、腕を掴む。

「アキ…… どうして…… 」

 振り返ったナナさんの瞳が揺れている。

 やっぱり、傷付いている。


(ゴメンね、ナナさん。ちゃんと伝えてなくて。帰って話そう。先ずは2人のお家に帰ろう。)


「ナナさん。あの子とは何でも無いんだ。ちゃんと話すから、まずは、家に帰ろう。風邪ひいちゃうよ」

 出来るだけ優しく話した。

 ナナさんは俯いている。

 その手を掴んで、帰り道を歩いた。

 この手を絶対に離さない。

 そう、心に決めた。


 部屋に入るとナナさんは挙動不審だった。

 頬を染めて、視線を合わせられないでいるのが、すごく可愛い。

 タオルを持ってきて、髪をわしゃわしゃ拭いてやると、されるがままになっている。

 タオルごと頬を挟んで、顔を向かせた。

 唇にそっと触れるだけのキスをする。

「なっ⁈」

 耳まで真っ赤になった。

「ナナさん。聞いて。さっき店で会った子は、沙耶さやって言って友達なんだ。正確には、前に付き合ってた彼女の親友の子なんだけどね。彼女とは、別れて2年以上経つ。それからは会ってないし、新しい恋人もいない。さっきは、雨に濡れた彼女をシャワー室に案内して、靴を脱ごうとして躓いた沙耶を支えただけなんだ」

「ん」

「そして、ここからが重要なんだけどね、僕はバイで、今は、ナナさんが好き。初めて会った時からずっと惹かれてる。ここまでは大丈夫?」

「ちょっと待って。情報が多過ぎて、頭の中が渋滞してる」

「ダメ。待たない。これから先が最重要だから」

「ん。わかった」

「でね、僕は、ナナさんのパートナーになりたい」

「………… 」

「だよね。ナナさんは、元々ストレートだ。でもね。考えてみて」


 ナナさん自身が蓋をしている気持ちに気付いてもらわなきゃ。

 ゆっくり、諭す様に時間をかけて話した。

「先に、過去の恋愛話を聞いておいてズルいかもだけど… ナナさんは、恋愛を考える時、性別じゃなくて、相手を人として好きになれるかどうかが大切なんじゃない?」

「確かに、女性との交際は上手くいかなったし、自分から初めて好きになったのは男性だった」

「そうだね。確かに性別も大事だと思うよ。男同士じゃ子供は望めない。社会的にも理解されない事も有る。だけど、僕は人としてナナさんが好きだし、ナナさんが欲しい。ナナさんと生きて行きたいんだ。その覚悟は出来てるつもり」


 ハッと、何かに気付いた様に顔を上げ、澄んだ瞳で見つめて来た。

「この先の人生を誰かと…… 」

「うん。僕はナナさんが良い。ずっと側にいたい。…… さっき、僕と沙耶を見て、どうして逃げたの?」

「どうしてって…… 2人が抱き合ってるのがイヤだった…… 」

「それは、どうして?」

「アキが…… アキの事が好き?…… だから…… 」

「ナナさん!」

 思わず、ガバッと抱き締めて、滑らかな頬に頬擦りしていた。


 頬が濡れてる。

 気がつくと、ナナさんの漆黒の瞳から、キラキラと雫が流れていた。

 その雫を舐めとって、頬に優しく触れるだけのキスをした。


 * * *


 俺は、何かから解き放たれたような心地で、アキの亜麻色の瞳を見つめていた。

 誰かに必要とされる事がこんなに暖かいものか。

 愛情を注がれるという事はこんなに心を揺さぶるものか。


 今まで硬く凍り付いていたものが、じわじわと溶け出し、瞳を伝って溢れ出してくる。

 この先、誰かと人生を歩むという事を考えない様にしていた。いや、むしろ諦めていた。

 何処か他人を信用出来ない性と、過去の恋愛の失敗が、おそらくそう思わせていた。

 アキとの生活は穏やかで、陽だまりのような毎日。

 こんな日々が続けば良いとは思ったけれど、その片隅で、いつかは終わるものと諦めていた。


 数刻前には、アキに影る女性の存在に絶望していたというのに、今はこんなにも幸せを感じる。

 ここの神様は悪戯好きらしい。

 冷えた体を温める為、お風呂に浸かって寝る事にした。






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