第9話 揺れる

 本来ならば、契約書を作成するのは、貸主側になるのが一般的ではあるが、今回はそういった作業に慣れている俺が作成する事にした。


 契約書の素案が出来て、見てもらおうと思い階段を下りる。

 閉店時間までまだ少しあるが、早めに見て貰いたい。

 店に下りると、客はおらず、灯りも落ちている。

 夕方から雨が降りだしたせいだろうか。

 アキは、この店の厨房と食品庫が広いのが気に入ってると言っていた。

 食品庫の奥には事務所とロッカールームがあり、トイレやシャワーも付いている。

 ロッカー室には簡易ベットがあり、アルバイトが客に飲まされて酔いつぶれた時や、同居前、新作メニューの開発で徹夜になった時には、アキ自身も使っていたらしい。


 事務所の方で物音がする。


 今夜は早仕舞いにして、事務仕事でもしているのだろうか。

 覗いて見ると、事務所の中は空っぽで、ロッカールームの扉が微かに開いていた。


「アキ?」

 扉の隙間から見えたものは、髪の長い女と抱き合うアキの背中だった。

 微かにシャワーの水が流れる音が響いていた。

 余りの驚きに、自然と数歩後ずさる。

 アキに抱き付く女と目が合う。

 女は春日に気がつくと、ニヤリと笑った様に見えた。


 身体中の血液が一気に逆流する様な気持ち悪さと共に、頭が急速に凍る。

 氷水を頭からかけられたかの様な具合に、カタカタと震えが来た。

 書類が手から離れて、床にぶつかり、カサリと音を立てる。

 アキが物音に気付いて振り返ろうする前に、春日は、走りだしていた。


 店の扉を開いて外に駆け出ると、雨は本降りになっていた。

 冷たい雨に濡れるのも構わずに、纏わり付く何かを振り切るためだけに、あても無くただひたすらに走った。

 あの女性とは、おそらく深い関係だろう。

 店で何度か見かけた事がある。

 髪の長い、瞳の大きな美人だ。

 スタイルも良く、いつも女性らしい服装をしている。


 アキ程の男なら引く手数多じゃないか。

 こんな当たり前の事に、今までどうして気が付かなかったんだろう。

 2人の同居生活が心地良すぎて、パートナーの存在を確認するのを失念していた。

 彼女ならお似合いだ。


 そう思った瞬間、胸の奥が引きちぎられる様な痛みが走った。


 この胸の痛みは何なんだ。


 こんな苦しい痛みは知らない。


 樹との時だって、こんなにも苦しくなかった…


 ……?

 樹との時?

 まさか、俺は…… アキの事……

 こんな時に、この気持ちに気付きたく無かった……

 全く……まるで学習して無いじゃないか……

 一体これからどうしたらいいんだ……


 茫然と、雨に顔を向けた時、突然後ろから腕を掴まれた。


「ナナさん!」


 振り返ると、ずぶ濡れのアキが微笑んでいた。

「アキ…… どうして…… 」

 不意に緩く抱きしめられる。

「ナナさん。あの子とは何でも無いんだ。ちゃんと話すから、まずは、家に帰ろう。風邪ひいちゃうよ」

 それから、アキに手を引かれて、夜の街をトボトボと歩いた。

 この気持ちを意識してしまったために、まともに顔を見られない。

 一方、アキは、まるでいつもと変わらず、むしろ機嫌が良い様にも見える。

 益々、この状況が理解出来ない。


 雨の中、傘も差さずに、男が2人手を繋いで歩いている光景は、嘸かし奇妙なことだろうなどと考えているうちに、いつのまにか店まで戻って来ていた。








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