第6話 リラ冷えの夜
俺はすっかり〔
いこごちが良いのは勿論だが、食の好みが俺に合う。
コーヒーは豆の甘みを引き出すネルドリップだし、俺の好きなハード系のパンで作ったオープンサンドはどれも美味い。
自家製のピクルスも酸っぱすぎず食べ飽きなくて、今度はセロリで作ってくれないかとリクエストしてしまったくらいだ。
スティックサラダのディップも特製で、とても美味い。
残すのが勿体なくて、パンにつけて残らず食べてしまう。
残業で遅い日は、作るのが面倒でつい寄ってしまうし、休日も美味いコーヒーが飲みたくて本屋の帰りに自然と足を運ぶ。
マスターの低い声と穏やかな話し方が好きだ。
普段は他人との間に壁を作ってしまいがちだが、彼と話していると心がほぐされて行くような気がする。
若いのに、さりげない気遣いが出来て、温かみのある人だ。
基本的に他人を信じる事が出来ずにいる臆病な俺とは大違いだ。
しかし、ふとした時に思い出すのは、樹の事。
切ない想いには蓋をして忘れようと思ったが、携帯電話に残る優しい声は、未だ、消せないままだった……
こちらでは、春の終わり頃、初夏に移り変わる前に一時的に冷え込みが来る。
その時期にライラックが咲くので〔リラ冷え〕と云うらしい。
その日、帰り掛けに頼まれた仕事が予想外に手間取り〔ameno〕に寄れなかった。
東京の春より寒く感じる夜を、歩いて部屋に帰ると、灯りがつかなかった。
廊下の電球が切れたのかと思い、壁伝いにリビングに向かって、扉を開けると足元が濡れていた。
慌てて携帯の懐中電灯をつけて見ると、部屋中水浸しだった……
驚いて、見上げて見ると、天井も壁も水が伝っていて、上の部屋から水が来ている事が分かった。
おそらく、上の階で漏水したのだろう。
ひとまず、数日分の着替えとパソコンをスーツケースに詰め、これからの事を考えようと部屋を出た。
俺の足は無意識のうちに〔ameno〕に向かっていた。
店の前の小径に着くと、大きく息を吐き、気をとりなおして扉を開けた。
「あれ?ナナさん?こんな時間に珍しい」
既に客の姿はなく、マスターは洗い物をしていた手を止めた。
〔ameno〕は23時閉店で、今は、22時50分を回ったところだ。
ラストオーダーはとっくに終わっている。
「うん。もう閉めるよね?」
「そうだね。看板は仕舞うけど、ナナさんなら大歓迎!セロリのピクルス食べ頃になってるよ」
「ありがとう。助かるよ」
「ところで、スーツケースなんか持って出張帰り? なんだか疲れて見えるけど…… 」
「んー。実は…帰ったら部屋が水浸しで…… 」
部屋の惨劇と、管理会社に連絡したものの対応は明日以降になるとの事と、ホテルを取ろうとしたが、人気アイドルのコンサートと重なってどこも満室で、途方に暮れている事を話した。
「それは大変だ!良かったら僕のウチくる?この上だけど」
「え?ホント?良いの?」
その日から、俺たちの同居生活が始まった。
数日後、管理会社から連絡が入り、部屋のクリーニングと壁紙の張り替えなどがあり、元のように住める迄には1月以上かかるとの説明があった。
ウィークリーマンションが見つかるまでお世話になりたいと、改めてお願いしてみると、
「そんな、勿体ないよ。部屋は空いてるし、戻れるまで居て良いよ」と言ってくれた。
正直、お金には困ってなかったが、マスターとの同居生活は思いの外快適で、親切な申し出に甘える事にした。
俺はそんなに神経質な方ではないが、些細な事が気になったりする事もある。
例えば、外で着たものと、シーツやタオルを一緒に洗濯するのはなんとなく抵抗が有るし、液体の調味料は、冷蔵庫にしまって置きたい。
夜は風呂に浸かりたいし、出掛ける前にはシャワーを浴びたい。
部屋着に着替えずにベットに上がりたくない。
トイレットペーパーは、シングルが好き。
そんな日常生活の些細な事が、擦り合わせなくてもすんなりと噛み合っている。
家でもマスターと呼ぶのは、憚られる位には近しい距離感になってきて、「アキ」と呼ぶようになった。
ストレス無く過ぎていく毎日に心地良ささえ感じていた。
同居生活も3週間が過ぎようとしていた。
〔ameno〕の定休日は、毎週火曜日。
俺のシフトも今週は火曜日が休みだ。
この生活ももうすぐ終わる。
お礼と感謝の気持ちを込めて、月曜日の夜、酒とツマミを用意して待っていた。
11時30分に差し掛かる頃、玄関を静かにカチャリと開く音がした。
「お帰り。アキ。お疲れ様」
声を掛けると、アキは少し驚いた様子でリビングに入って来る。
「ただいまー。今日はどしたの?寝てて良かったのに」
「ん。実は、俺も明日休みなんだ。今夜は一緒に飲もうと思って待ってた」
準備していた冷したグラスと酒とツマミを冷蔵庫から出した。
「えー?嬉しい!」
ロックアイスをグラスに入れ、冷えたチンザノを注ぐ。
「ホントはビールかワインが良いのかなと思ったんだけどね。好みが分からなかった。いっぱい種類があるだろ」
「あは。ナナさんらしい。普通そこまで気にしてくれないよ!」
優しくグラスを合わせると、透明な音色が小さく震えた。
「バカラのグラスって口当たりが良いな」
「でしょ!より美味しく感じるよね」
「店の食器やカラトリーもこだわってる」
「まぁね。でも汎用性も大事だよ。あと、壊れた時に替えがすぐ手に入るかも」
「なんか、若いのにスゴイな」
「えー?そんな事無いよ。ナナさんだって若いじゃん。そういや、恋人は?遠距離?」
「俺?もうすぐ三十路。恋人はいない」
気の置けない相手と、取り留めのない話をしながら飲む酒は存外に美味く、心地良く俺を酔わせた。
酒の力も有って、随分と自分の事を喋り過ぎたと思う。
樹と出会いや、恋愛に形づく前に行き場の無くなった気持ち、その気持ちに戸惑い逃げた事、祖父の話、家族の事故の話……
あとの記憶は曖昧で、、、アキが何か話してくれていたが、ぼんやりと覚えているのは、色素の薄い柔らかいくせっ毛に触れてみたかった事だけだった。
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