第4話 生い立ち

 あれから、どこをどうやって帰って来たのか覚えていない。

 樹は、何のつもりで俺を口説いていたのだろう。

 遊び相手が欲しかった?

 戸惑う俺をからかって愉しんでた?

 ゲイじゃなくバイ(?)だったのか?

 俺を好きなんじゃなかった?

 それとも、何かの詐欺?

 騙すって何の為に?

 もしかして、、、俺の素性を知ってる?


 行き場のなくなった気持ちを抱えきれず、かといって捨て去る事も出来ずに、考える事を放棄した。




 木曜日。


 携帯にメッセージが届く。

『明日の夜は、赤坂の創作日本料理の店を予約してあるよ。旬の山菜を食べよう。その後は、スポーツバーでサッカー観戦しながら飲まないか?』と。

 いつもと変わらず、こちらの都合など御構い無しの様子に薄く苦笑う。


 一緒に過ごす事を当たり前だと思ってる。

 それを心地良く感じ始めていたのに。

 少し考えて、『もう会うのはやめにする。身近な人を大切にした方が良いよ』と返信した。


 既読に成った直後、着信音が鳴り、携帯が震えながら、樹の通話の意思を伝えてくる。

 また少し考えて、携帯をタップする。

『もしもし?春日?何かあった?』

 いつもの声が、耳に優しく響いた。


 携帯電話は、何度も着信を知らせたが、その度に、今は出られないメッセージを流した。

 何度目かの着信の後、留守電に残されているメッセージを再生する。

 何度も何度も繰り返し再生する。

 優しい声を聞きながら、瞳をとじる。

 瞳を閉じても、流れるものが溢れ出て頬を濡らすのを止められなかった。



 俺には家族が居ない。

 中学の頃、両親と妹が交通事故で一度に亡くなった。

 居眠り運転の車が正面衝突してきたのだ。

 相手も即死だった。

 過重労働が続いた上での業務上過失致死で、全てが行き場の無い悲しさで塗りこめられた出来事だった。


 父は元々体が弱く、若くこの世を去る事になった時、遺された家族の為にと、高額の生命保険に入っていた。

 未成年だった俺に、多額の保険金が入るのを聞き付けた親戚達は、急に気遣わしげな顔をして関わりを持とうと擦り寄って来た。

 他人を信じられなくなり、何事にも疑心暗鬼に成るには充分だった。


 塞ぎ込み、引き籠りがちに成っていた俺に「ウチの工場で働け」と言って来た祖父。

 何か言いたげな親戚達に有無を言わさず、俺を引き取った。



 *****



 数年前に病気で祖母を亡くした祖父は、新宿区の江戸川の側で製本工場を営んでおり、古い工場の二階を住まいにして一人で暮らしていた。

 工場は、従業員が2人だけの零細企業ではあるが、丁寧な仕事と、柔軟な対応や確実な仕上がりに定評があり、少部数の冊子や変則折のパンフレットなど安定した受注があった。


 紙の匂いとインクの匂いに満たされた工場と、いつも製本機の音が聴こえる部屋は、最初こそは煩わしく感じたものの、朴訥とした祖父そのものに感じられて次第に居心地の良い空間に変わっていった。


 祖父は本当に中学生の俺に仕事を与えた。

 最初は梱包作業。

 その後は、伝票の整理、機械の操作や調整・手入れ、高校を卒業する頃には、経理を手伝い、契約や銀行との接渉にまで同行させられる様になり、祖父は俺に工場を継がせるつもりなのだろうと、漠然と思っていた。


 20歳になった日、祖父はビールを持って部屋に入って来た。

 成人の祝いだと2人で酒を酌み交わす。

 いつも寡黙で強面な祖父がその日は少し嬉しそうだった。

 大学の話を少しした後、胸元から徐ろに2冊の通帳を取り出した。

「春日。これが、お前が引き継いだ保険金と、今迄働いた賃金だ。今年一杯で工場は閉める。今日で一人前の大人だ。これからは、ここを出て、自分の力で暮らしていけ」

 一冊は、両親が俺の名義で将来の為に積み立ててくれていたお金と保険金が入っており、もう一冊には、今まで工場を手伝っていた期間の給料が入っていた。


「なんで?俺、工場継いで、ここに居るよ?このお金で新しい機械買って良いよ」

 俺は、これからも祖父と暮らしていくつもりだったし、工場を閉めることにも納得がずに食い下がった。

「俺は親じゃないし、学もない。生きている間にお前に教えられる事は、家の仕事や、会社の仕事を通して、1人で生きて行けるようにしてやる事だと思った」


 祖父は初めから工場を継がせるつもりはなかったらしい。

 どこかに勤めるとしても、自分で事業を興すとしても、一つの会社がどうやって成り立っているか知っておく事は、役に立つとの考えで働かせていたと言った。

「ヤスさんも、マサさんももう年だ。どちらかが引退する時に工場は閉めようと思っていた。2人もそれは承知している。それに、お前は既に重たいものを背負っているんだ。これ以上余計なものは背負わせたくない。これからは、じぶんが選んだものを背負っていけ」


 ヤスさんとマサさんは、工場の従業員で2人とも70を超えている。

 ここに来てから、仕事の他にも、釣りを教えて貰ったり、将棋を打ったり、とても可愛がってもらった。

 俺も、親戚よりもずっと近い存在として、2人を慕っていた。


 ここを出で行く事に全て納得した訳では無かったが、祖父にも考えがあるのだろうと思い、寂しさを感じつつも、大学側にアパートを探す事にした。


 祖父が部屋から出て行った後、通帳の残高を見て驚いた。

 父が高額の生命保険に入っていた為、それなりの額だとは予想していたが、賠償金も入っており、想像を遥かに超えた金額だった。

 生涯収入より遥かに多い。

 そして、祖父はその金に全く手を付けていなかった。

 祖父の作ってくれた通帳には、毎月の賃金が入っていた。

 毎年、新卒の平均賃金を時給に換算して計算していたらしい。

 真面目な祖父らしいと思った。

 いつも表情の少ない祖父が本当は、凄く優しい事を知っている。

 工場で働かせる事も、友達も少なく、引き籠りがちだった俺が、悲しい事を考えて気持ちが膿まないようにとの気遣いだとばかり思っていた。

 先立つ祖父が居なくなった後、俺が1人でも生きて行けるように考えてくれていたとは…

 祖父の深い愛情を改めて感じた出来事だった。


 大学4年の秋に祖父は亡くなった。

 祖父は自分の死期をなんとなく悟っていたのかもしれない。

 工場を閉めた後身の回りを整理していたらしく、遺品の整理も諸々の手続きも然程でもなく終わってしまった。

 仏壇を掃除していると、引き出しから俺宛の封筒が見つかった。

 中には、ビルの権利書と、印鑑と通帳。

 祖父は相続で揉めないようにと、父へと遺す予定だったものを、先に俺の名義に変更して残してくれていたのだった。


 北品川の駅から徒歩7分程の8階建の商業ビル。

 1階には、カフェレストラン。2階から7階までは、歯医者などのクリニックやネイルサロンなどが入っている。

 バブルが弾けた時に、資金繰りに困った友人から頼まれ、安値で買い取ったのだそうだ。

 その最上階は、俺の為にと空けてあった。

 事業を興した時に事務所にしてもいいし、住まいにしてもいいと考えてくれていたらしい。

 今はそこをリノベーションして住居にしている。


 樹は、何度かここに来ているが、このビル全部が俺のものだとは知らない。

 家族の事にも触れた事はない。

 考えても考えても答えの出ないループにはまり込んでしまったようだった。


 全てを忘れてリセットしたかった。

 異動の話を正式に受けようと心に決めた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る