第3話 散った恋

 あの頃、俺は疲れていた。


 とにかく、疲れ果てていた。


 おかしな時期に異動になり、配属された経理課。

 驚く程に整理されていない書類の山。

 把握仕切れない契約までの流れ。

 明らかに高額な単価の見積書や請求書。

 前任者は……横領していた…

 道理で、細かく見ていけば辻褄が合わない筈だ。


 日々の残業。


 最終電車で帰る日々。


 そんな週末の夜、何となく、本当に何となく、しかし衝動的に反対方向の電車に飛び乗っていた。

 そして、たまたま隣に乗って来た酔っ払い。

 それが、高杉 樹たかすぎ いつき


 俺のジェンダー感を緩やかに、そして確実に、掻き乱した男だ。


 樹は、少し赤い顔で俺の隣に空いた席を見つけ、「ココ、良い?」と返事も待たずに座ってきた。

 ダークグレーのスーツにつつまれた肩幅は広くがっしりとした体躯。

 身体は、175センチの俺より少し高い位か。

 凛々しい眉、髪はオールバックに撫で付けてあり、仄かに甘いトワレの香りがする。

 一見強面だが、笑うとくしゃりとなる笑顔。

 女にモテそうだ。


 彼は、その日、大きな契約が取れ、接待で呑んだらしく上機嫌だった。

 相当嬉しかったらしく、見ず知らずのたまたま隣の席に座ってるだけの俺に自分の経歴を楽しげに語り出した。

 元々は工業用機械や工場プラントの設計をしていた事。

 営業マンの知識の無さで、設計上不可能な事を安請合いしてくる事に腹をたて、自ら営業に付いて行くようになった事。

 その影響で、営業のスキルが身に付き、今は独立してフリーでやっている事。

 今日は、一年以上前から育てて来たアイディアが実って契約まで漕ぎ着けた事。


 いい年の大人が少年の様に瞳をキラキラさせて仕事の熱をぶつけて来た。


 降車際に、「話を聞いてくれてありがとう。

 君、聞き上手だね。また何処かで会ったら声掛けてよ」と名刺を一枚置いて、颯爽と降りて行く。


 ホームに降りると、こちらを振り返り一瞬目が合う。

 ニコリと笑顔を見せ、右手を小さく挙げて歩き去る後ろ姿を見送った。


 ぼんやりと、車窓から夜の街を眺める。

 暫くすると終点の駅に着いた。

 プチ逃避行もこれで終わり。


 仕方なく降りようとした時、隣の席に落ちている名刺入れが目に留まる。

 拾ってみると、案の定、それはさっきまで隣に座っていた男のものだった。

 中を確認すると、契約が取れたと喜んでいたクライアントであろう名刺も入っている。

 酒に酔っていたとはいえ、こんな大切な物を落としていくとは……


 これが無いときっと困るだろう。

 駅員に預けても良いのだが、どうせ明日の帰りの電車で彼の最寄り駅を通る。

 そこまで届けてやってもいいか……と、ひとまず携帯に連絡を入れてみる事にした。


 俺は基本的に面倒な事は避けて通りたい方だ。

 普段とはまるで違う自分の思考に思い当たり苦笑する。

 あのキラキラしたオーラに当てられたせいなのだろうか……


 ……思えばこの時、既に彼に惹かれるものがあったのかもしれない。


 連絡してみると、明日は品川の客先に打合せに行くのだと言う。

 偶然にもウチに近い。

 俺の住居は北品川だ。

 夕方、駅前で待ち合わせをする事にして電話を切った。



 翌日、彼は濃紺のスーツ姿で颯爽と現れた。

 キリッとした眉と、長身の美丈夫。

 周りの目を引くには十分過ぎる存在感。

 俺を見つけると、くしゃりと笑って近づいてきた。


 昨日の詫びと今日の礼を兼ねてと、食事に誘われ、近くの居酒屋に入った。そこで改めて自己紹介をする。

「実はね、この出会いに恋の予感を感じてるんだ。春日ハルヒは、多分こっち側の人間だよ。ねぇ、俺の事好きになって」

「えっ⁈」

 彼は同性愛者だという。そして、俺に興味を惹かれるのだと、俺をもっと知りたいのだと……


 いきなりの名前呼びに驚くのを忘れる程、内容が衝撃的だった……


 俺、七尾 春日ななお はるひは平凡 の中の平凡だと思う。

 そこそこの大学を出て、そこそこの会社に入社し、特に出世コースにも乗ってなく、日々の仕事を淡々とこなしていく。

 今まで何人か彼女は居たが、何故か長続きしなかった……

「貴方はとても優しくて、彼氏としては完璧だけど…… 私の事、本気で好きじゃないでしょ…… 」なんて言われる事にももう慣れた。

 彼女たちの望むように意識して振舞った。

 勿論浮気なんてしない。

 大切にしてきたつもりだった。


 何がいけないのかよく分からない……


「本気で好き」ってよく分からない……


 仕事が忙しくなってからは、時間的にも精神的にも余裕が無くて、すっかり考えるのも止めてしまった。

 そもそも、今まで、恋愛対象は女性だ……

 ただ、思い返してみると、告白されて特に苦手な子でなければ付き合っていただけで、自分から誰かを好きになった事がない。

『彼女』がいると、他から告白される煩わしさから逃れられた。


 俺は本当はそちら側の人間なんだろうか……

 胸の内側がザワついて仕方がなかった。


 それから、樹は何かにつけて俺を誘うようになった。

 誘いはいつも甘く、ちょっと強引で、上手く断り切れない俺は流されるままについて行く。

 会う度に、恥ずかしい程ストレートに好意を向けらる。帰り際には毎回「ねぇ。俺の事、少しは好きになった?」と聞かれ少し困る。

 初めは、食事や映画、それから、バッテイングセンター、ボーリング、ゴルフ、そして少しの遠出、夏の海、秋の紅葉、冬の星座…


 それまで職場と家の往復で過ごし、引きこもりがちだった俺を、明るい世界に連れ出してくれた。

 気がつくと、週末を一緒に過ごす事が当たり前になり、誘われる事が楽しみになっていた。今まで無機質だった携帯電話が、樹からの連絡を振動しながら伝えてくれる様子が、可愛いらしく感じられる。まるで、自分の揺らぐ心のようだと思った。


 向けられる好意には曖昧にしか答えられない俺だったが、樹の存在が日常生活の一部に組み込まれる位には、心を許していたのだ。


 いや、むしろ、《知合い》から《友人》へ、そして、少しずつ《恋愛対象》へと気持が傾いている事を感じずにはいられなかった。


 しばらくして、春の足音が聞こえて来た頃、件の横領事件も後片付けに差し掛かり、収束が見えて来た。そんなある日、上司から呼び出され、異動の話を打診された。


 行き先は北の街。


 何もかも嫌に成っていた一年前に、誰も知らない、シガラミの無い場所へ逃げ出したくて、異動希望を出していた場所だった。

 一年前とは状況が変わった今は、異動について躊躇いが生じていた。

 樹と会えなくなる事に寂しさを感じでいる。今の脆弱な関係では、会えなくなれば切れてしまうだろう事に不安を感じずにはいられない。


「なんだ。そうか…… 」



 その日の夕方、暫く振りにあの電車に乗る。

 自ら会いに行くのは初めてだったが、曖昧なままにしていた気持ちを伝え、これからの事を相談したかった。

 異動の事を話したら、遠距離は無理だと振られるだろうか、、、遠くへ行くなと引き留められるだろうか、、、どちらにしても、中途半端なままには出来ない。


 気持ちはまだ中途半端かもしれないが、揺らいでいる今、感じているまま素直に伝えよう。

 焦燥感に背中を押され、いつになく行動的になっていた。


 その事が、辛い事実を突き付けてくるとは知らずに。


 初めて降りた駅前には、緑が溢れる公園と昔ながらの商店街が有り、ベットタウンの様相だ。

 少し都会から離れただけで青空が広く感じられた。

 名刺を片手にタクシーに乗る。

 着いた先は、新興住宅街で綺麗に整理された街並みが続いていた。


 緩い坂道に桜並木が美しい。

 この坂道を曲がった角が彼の事務所兼自宅だろう。

 ガレージには、何度も乗った樹の愛車が停まっている。

 在宅を感じホッと胸を撫で下ろす。


 インターホンを押そうとした時、庭から聞こえてきた声に違和感を感じ手を止めた。

「なんだ……これ……」

「パパー!ママー!早く、はやくー!」

 小さな男の子がガレージの方に駆けて来た。

「ゆうー!ちょっと待って。勝手に出ちゃダメよー!」

 玄関から、母親らしき女性が顔を出している。

 これから家族で出掛けるところなのだろう様子に絶句する。


 恐る恐る、表札に目を向けると、四角いシルバープレートには、〔高杉 樹〕の名前の下に、〔史花〕、〔優〕と彫られている。

 彼には妻子が居たのだ……

 守るべき家庭が有ったのだ……


 突然の受け入れられない現実に胸が押しつぶされそうだった。

 玄関の中から聞き慣れた声が聞こえ、慌てて来た道を引き返す。


 美しかったはずの街路樹たちは色を無くし、広い空は震えながら駅へ向かう身体から体温を奪って行くようだった。






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