37 隠れ狼
『もうお婿に行けない』などと泣き真似をするヒースを引きずってディーンとエリーは退出した。
フィリアスが持参した分厚い資料を確認する間、古い音楽室には時計の秒針が奏でる規則的で堅苦しい沈黙が満ちていた。
人数が減って、がらんとした部屋はどこか寒々しく感じる。五線譜が描かれた床の上、椅子や机の上にそれぞれ思い思いに座っている様は、自身が音符になったようだ。奏でるのはやはり憂鬱で暗い音なのだろう。
宣言通り、私たちはフィリアスにラヴィアとレナリスの件を報告した。勝手に行動したことを叱られるだろうと覚悟していたけれど、フィリアスから言われたのは『裏を取るからしばらくは動くな』の一言だけだった。
もしかしたら、レナリスは来たくても来れなかったのかもしれない。何か大変な事態に巻き込まれているのかもしれない。すぐに何らかの対策をして欲しかった私は、冷淡なフィリアスの対応に反発を覚えた。
けれど、その対応こそ妥当だと、時間が経って頭が冷えた今なら思える。
確信の持てない情報を鵜呑みにしない。裏を取るのは捜査の基本だ。レナリスが全てを話してくれたとは限らない。そんな当たり前のことにも考えが回らない程に気が急いていた。
ページを捲る手が止まり、フィリアスは小さく息を吐いた。ぱたんと閉じた資料を机の上に置くと、足を組み替えてしばし瞑目する。やがて開いた目には強い憤りのような感情が揺らめいて見えた。
「君らの報告を受けて、ヴェイグにラヴィア・ラッセル男爵令嬢とその婚約者レナリス・フォーサイスの件を探ってもらっていたんだ。その結果を今しがた受け取った」
ヴェイグ・セシル。セシル伯爵家三男で騎士団本部所属のエリート中のエリート騎士だ。現在はこの学院に在籍している二人の王子の警護を担当する片手間に、教官の助手として訓練の指導をしている。
ヒース曰く『ヴェガ兄は対アルファルド最終兵器だから』とのことだ。
アルが怯える唯一の存在だというから、未だに会ったことがないにも拘らず、私の中では体長二メートル超のゴリゴリの強面マッチョというイメージになっている。
アルに真相を確かめたくても、お兄さんの事を聞くと露骨に嫌そうな顔をするので、真偽の程は定かじゃない。
「
「ははは。自分に言えないことを俺に言わせようとするなよ」
……どうやらフィリアスから見ても怖い人らしい。益々私の中のイメージが斜め上に補強されてしまう。
「まず最初に言っておくが、俺はラヴィアとレナリスのことは君たちの報告を受けて初めて知った。学院入学の際の書類を確認したが、両方とも獣人であるとの申告はしていなかった」
「……入学に獣人の申告が必要だったの? ということは、私のことも最初からバレていたの?」
そういえば、私が獣人だと打ち明けた時も、フィリアスに驚いた様子はなかった。
自分の思う以上に声に嫌悪感が混じったのだろう。アルが宥めるように私の背中を撫でた。
「すまない。誤解を招いたようだ。入学時に国籍を確認するため、戸籍謄本の写しを学院に提出しただろう? そこに出生時に獣人だった者は獣人と記載されている。当然、普段は厳重に保管されている。今回は俺が持てるコネの全てを使って、ようやく閲覧できた。その手続きで少し時間がかかったんだ」
「なるほど」
特別に『獣人です!』と申告するわけじゃないけど、入学時に書類を出せば、ついでにわかるってことか。
納得しかけて、はたとフィリアスを見つめる。
「……えっ、あれ? ということは?」
眷族にするための赤い牙が生えるのは、生まれながらの獣人のみだ。書類に記載が無かったラヴィアは、入学の時点で身分を偽っていた。そればかりか……
「出生時から戸籍を偽っていた可能性がある」
「男爵夫妻も獣人ってことか」
アルの指摘にフィリアスは首肯する。
「ラッセル家は親子二代……いや、もっと前からかもしれない。代々正しい申告をしていなかったことになる。――これは、由々しき問題だ」
頭痛を堪えるように顔を顰め、フィリアスは椅子の背もたれに背中を預けた。
余計な仕事を増やしてしまった手前、なんとかフィリアスの力になりたいとは思うけれど、事態は私たちが思っていたよりも深刻化してしまったようだ。
「簡潔に言えば、ラッセル家は獣人保護法に違反している。獣人として生まれた者は、その旨を領主に届け出なければいけないし、眷族を作った時、眷族にされた時も届け出が義務づけられている。届け出をすることによって、双方の合意の上で眷族化が行われたと見なされるので、これは肉体的に弱い立場の人間を守るための法律でもある」
ただ、いくら法律で保護されているとはいえ、現代でも獣人への差別は根強く残っている。申告時に情報が漏れて周囲に正体を知られてしまうのではないかと難色を示す者達もいる。
過去に情報漏洩した領主や役人が裁かれた事件もあったので、同じ獣人として彼らの懸念は痛い程わかる。
けれど、血で惑い易い獣人を何の配慮も無く人間と混ぜるのは、兎だらけの檻の中に腹ペコの狼を放すようなものだ。
いくら狼側が食べないよ。安全だよ。と言ったところで、ある程度の枷を掛けなければ信用を得られないと思う。
獣の衝動を理性だけで制御するには誘惑が多過ぎる。共に暮らすには双方が歩み寄らなくてはいけないと思う。
「狼種などの男女の比率が極端に偏っている種族は、フェロモン抑制薬を優先的に安価で入手できるなどの優遇措置もあるので、正しく申告した方が何かと恩恵を受けられるはずなんだがな……。申告をしていないために、獣人の情報網からも漏れてそういう事も知らなかったのだろう。だから、早期に
牙が抜ければ、フェロモンの分泌が収まる。薬が不要になるし、狼男の興味を引くこともない。鼻が利くアルやヴェガ兄さんすら気付かない程に。
けれど、小さい頃に噛んだ相手を、その後一生愛せるのだろうか。良くも悪くも人は変わるのだから。
――なるほど。ラヴィアにとって私は、のほほんと多くのものに守られて、いつまでも番を選ばずにフェロモンを振り撒き、自分の好きな相手を眷族に選ぶことができる嫌な女に見えたことだろう。
目の敵されたのも理解はできる。かと言って彼女の所業を許すことはできないけれど。
「これらを理由にラッセル男爵を逮捕し、ラヴィアとレナリスの行方や、出資詐欺の被害を明らかにする必要がある」
フィリアスが解決に動いてくれるなら、私たちの説得に応じなかった二人の考えも変わるかもしれない。
「是非そうして欲しいけど……何か問題が?」
「……同様の詐欺の被害者が多数。事件との関係が疑われる獣人女性の失踪者が二十名。まだ事件の全貌はわかっていないが、国王陛下のお耳に入ったことで上は大騒ぎになっている」
呆れた。
今頃動き出すなんて。陛下のお耳に入らなければ無視できる問題だったのか? 失踪者が二十名も出ていれば、もっと早くに訴えがあった筈だ。領主や役人が訴えを軽んじたのだろうか?
王族の一員として責任を感じるのか、もう充分に働いてくれているのに、申し訳無さそうにフィリアスは萎れる。深いため息を吐く姿には疲労の色が濃く見えた。
「フィリアスが陛下に伝えてくれたの?」
私の質問に、フィリアスは困ったように笑って首を振る。隣に座るアルがこそっと耳打ちした。
「この学院の学院長は国王陛下だよ。エリーが狙われた時点で学院内で不穏な何かが起きていると報告が行ってるだろうし、今回の件も陛下はフィリアスとヴェガ兄さんに調査を命じていると思う」
『持てるコネの全て』ってそのことか。
今度こそ、開いた口が塞がらなかった。
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