38 絡みつく夢

 薄く開いた扉の向こうから話し声が聞こえる。

 私は白い狼のぬいぐるみを抱いた幼い頃の自分を、後ろから見つめていた。

 彼女と一緒に扉の向こう側を覗き見れば、珈琲とブランデーのにおいがつんと鼻を突く。この頃の父はまだ煙草は控え目だったのになぁと懐かしく思う。


 応接用のソファに腰掛けた父の背中には重い悲しみがのしかかり、荒げる声には悲壮が混じっていた。父が怒鳴るのを聞いたのはこれが二度目で、以降は一度も無い。

 それぐらい、父は温厚な人だ。


「いい加減にしてくれ! こうなるってわかっていたから俺は……」


「しかし、それがセラを救う近道だとお前も理解しているだろう?」


 父の正面に座る誰かの顔は見えない。けれど、その声の主を私は知っている。レグルス・セシル伯爵は父の声を遮って冷静に言葉を重ねた。


「エリオット……子はいつか、親の元から巣立って行く。永遠に親が守り続けることはできないんだ」


 ガタンと大きな音に怯えて、幼い私はぬいぐるみをぎゅっと抱き締めて身を竦ませた。父がソファを蹴り伯爵の胸ぐらに掴みかかる。


「あの子は母親を亡くしたばかりなんだ。まだ傷も癒えないうちに父親とも引き離すつもりなのか!? それが月神セシェルの意向だと言うのか!」


「……そうだ。お前の内なる月女神ルーネもそれを望んでいる筈だ」


 震える背中は言葉にならない叫びを上げて、すとんとソファに落ちた。

 伯爵の仰るように、月女神はオクシタニアの神話の森に帰りたがっているのだろうか? だから月神の末裔を引き寄せるのだろうか? 月女神の心は御印みしるしを持つ父にしかわからない。


 怒り続けるにも体力が必要だった。母の葬儀や仕事、私へのケアにたったひとりで奔走していた当時の父には、それ以上伯爵の提案を突っぱねる力など残されてはいなかった。


つがいを選んで牙さえ抜いてしまえば、もう狙われることは無い。それがセラのためなんだ」


 仕方がないんだ。そう父に言い含める伯爵の声音には、どこか嬉しそうな響きを感じる。それに気付いた時、ぞくりと肌が粟立った。


 ――ああ、やっぱりこの人はアルファルドの父親だ。月女神の末裔に執着している。


 待ち望んでいた獲物が罠に掛かったかのような仄暗い喜び。今、父が顔を上げていたなら、そんな微笑みを見たかもしれない。


「…………望み通り会わせてやる。だが、ひとつ条件を出す。噛むか噛まないかはセラの判断に任せる。セラが嫌だと言ったらこの話は無しだ。月神は月女神に強要はできない。そうだろう? ……セラは、自分が噛んだことで狼男を招いたと思い込んでいるんだ。セラはきっと、生涯狼男を嫌って生きる。君の息子を選ぶことはできないだろう」


 月神は月女神に強要はできない。

 けれど、月神は月女神を手に入れるためなら手段を選ばない。優しい笑顔で愛する女神に毒を盛る恐ろしい神なのだから。


 昏い瞳から大粒の涙が零れて頬を伝う。子供ながらに、父が自分のために何か恐ろしい取引をしてしまったことを悟った。幼い私が抱き締めたぬいぐるみは苦しそうに、青いボタンでできた無垢な瞳を私に向ける。

 まるで、泥沼の中から助けを求めるかのように。




 ***




 太陽の暖かさが遠ざかった気がして目を開くと、三対の目が心配そうに私の顔を覗き込んでいた。オリオンとディアナの赤い目とアルファルドの緑の目は、驚愕に見開かれていた。


「……ど、どうしたの? もう昼休みは終わり?」


 ピクニックシートから半身を起こした拍子に、ぽろりと一粒の涙が零れ落ちて制服のシャツを濡らした。

 嫌な夢を見た。胸にもやもやと不快感が残って気持ちが悪い。そのせいか熟睡できなかったようで、まだ頭がぼーっとしていて周囲の動揺に気がつかなかった。


 私が涙を流したことに慌てたのか、オリオンとディアナに勢いよくのしかかられて顔を舐められた。


「うわ! ……ちょ、やめて! ありがとう。ありがとう! 私はもう大丈夫だから! やめ、やめて!」


 悲しげに鳴きながらべろべろに舐められて、顔がベタベタする。私を助けもせずにぷるぷる震えながら笑いを堪えているアルを睨んだ。


「……一旦、顔洗ってきていいかな?」


「そ、そうだね……ふふ」


 私の涙が止まって、満足げにフンスと鼻を鳴らす二匹を怒る気にはなれず、私はすごすごと近くの運動場の手洗い場に向かった。


 雪解け水を引く水道は、この時期は冷水しか出ないようで、両手で氷水のように冷たい水を掬う。私は大きく深呼吸をして覚悟を決めると、息を止めて手早く顔を洗った。

 叫び出したい程の冷たさに、さっき見た夢の後味なんて一瞬で蒸発してしまいそうだ。体温を取り戻そうとタオルで顔を覆う私の足元に、心配そうにディアナが擦り寄って来た。


「落ち着いた? うなされていたよ」


「んー? うん。昔の夢を見た」


 タオルから顔を上げると、探るような視線を寄越すアルと目が合う。アルの足元に寄り添うオリオンも、置物のように微動だにせず私の顔を見上げている。


「夢? どんな夢?」


「……うちの父さんと伯爵が話しているのを、聞いている夢だよ」


「それは、君が泣く程嫌な内容だったの?」


 アルの様子に違和感を感じながら、私は首を振る。


「内容が嫌っていうよりは、雰囲気が怖かった……のかな? 小さい頃のことだからよく覚えてないよ」


「よく覚えていないのに怖いの? どうして?」


 普段から私のことを知りたがる彼だけど、今日はやけに食い下がる。漠然とした違和感が疑問に変わっていく。

 そっと絡め取るように私の手を握って、気遣わしげに見つめる目は、私の目から何らかの答えを引き出そうとしているようだった。私の胸の内で、忘れていた彼への警戒心が頭をもたげる。


「変なの。君こそ急にどうしたの? 小さい頃の思い出を夢に見ただけだよ。君はいなかったし、たぶん関係無いよ?」


 風に煽られ流れて行く雲が、ほんの一瞬太陽を覆い隠す。急に暗くなった空の下、彼のエメラルド色の瞳に金色の光が浮かんだように見えた。


 捕まえられた手をやんわりと引いて、彼の手から逃れようとしたけれど離してはくれなかった。先程は微笑ましかった三対の視線が今は針のように鋭い。


 アルは私から何かを聞き出そうとする時、こうして私の手を握って目を見つめる。それは、もしかして私が嘘をついているかを見極めるためじゃないかって、ふと思った。


 昔読んだ小説にそうして好意の有無を占う方法があった事を思い出したのだ。当時はくだらないと思っていたけれど、理屈を考えれば有り得ない話じゃない。

 生きとし生けるものは全て、微弱な魔力を放出して生きている。手は特に魔力を集めやすいのでほんの少しの魔力の流れの変化で嘘か真かがわかるのだという。


 月神の加護を取り戻した今なら、相性が良い月女神の魔力を察知しやすいのでは?

 知らずに無意識でやっているのだとしたら、やっぱり無条件で信頼するには恐ろしい男だと思う。


『セラは、自分が噛んだことで狼男を招いたと思い込んでいるんだ』


 夢の中の父の言葉を思い出して、犬歯の裏を舌で探れば、そこにはまだ小さな牙が生えている。


 ――私は、番を選んだわけじゃない。あの時は逃げるため、生きるために噛み付いたんだ。だから牙は抜けなかった。


 牙が皮膚を破り、他人の血が口内に溢れるあの嫌な感触、臭い、味を思い出す度に、自己嫌悪で吐き気がする。あんな血生臭い儀式がどうして求愛の証になるのだろう? どうしてそんなことを求めるのだろう? 


 私は彼の手を振り払って、背を向けて荷物を回収しに戻った。刺さるような視線を後頭部に感じながら。

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