FileNo.5 ブリッジ - 05

 声に出して、それから、彼女は自然と額に手を当てていた。浮かぶ考えは一つだ。


 ヤバい。


懸衣翁けんえおう?」


「三途の川に居る鬼の一種だよ。婆さんの鬼とタッグで、死者から服を剥ぎ取る毎日だ。いやぁ、あたし鬼って生まれて初めて見たぜ」


「……暢気のんき言ってる場合?」


「なワケねえだろ……」


 『鬼』――古今東西の神話や伝承で語られる、紛れも無い常世の存在。特徴は様々あるようだが、人間を紙のように引き千切り、身の丈よりも巨大な鋼鉄製の棍棒を片手で振り回すという破壊的な膂力りょりょくは、どの逸話でも共通している。鬼退治の物語は多くが伝説として残っているが、それはひるがえすと、退治すること自体、伝説級の難易度であるということに他ならない。


「そらベテランでも死ぬわな」


「話は終わっただろうか」


 鬼が、右手を伸ばしてくる。思えば、相手の体がこれだけ近くとも真っ黒にしか見えないのは、人間の脳が処理できるような存在では無い、ということの証左なのかもしれない。『在る』ことは間違いない。但し、どのように『在る』かは計測できない。別次元で、桁違いの存在であるが故に。


「さぁ、帰ろう。此れにて橋を見回る日々も終となり、我らは橋のたもとにて務めを果たす日々に回帰する」


 つまり、と、晶穂は頭を掻いた。整理すると、事の顛末てんまつはこうだ。相手の正体は三途の川の住人・懸衣翁けんえおう。何らかの理由で別離してしまったらしい妻・奪衣婆だつえばを探す内、彼は常世に存在するとされる三途の川の『橋』にまで赴いた。しかし、実際に彼が行き着いたのは、極めて常世に似た『現世』――つまりは、この道路だった。雨月が提唱した説は正しく、彼にとってここは常世であり、三途の川に掛かっている『橋』なのだ。そう考えれば、何故自分の時にだけ彼が現れたのか、も理解できる。そして同時に、この事件の最も簡単な解決方法も。


「あたしが連れて行かれさえすれば、ひとまず万事解決か」


 懸衣翁は「帰ろう」と言っている。これで見回りも終わりだとも。


「駄目よ。しょーちゃんは奪衣婆じゃない」


「相手はそう考えちゃいねえさ。奪衣婆は生者から罪を測る為に服――つまりはけがれを引き取る役目だろ? 率先して穢れを纏ってるって意味じゃ、確かにあたしにそっくりだ。


 故にこの爺さんは、あたしを連れて帰れば満足する。イコール、もう犠牲者は出ない」


「説得は?」


「『良く似た別人だから帰ってくれ』って? だがそれじゃ、この爺さんは同じことを繰り返す」


「じゃあ」


 諦める? ――雨月はそう、イヤホン越しに尋ねてきた。


 晶穂は。


「アホか」


 笑った。


「懸衣翁。別れたカミさんを連れ帰ろうってんだ。一筋縄じゃいかねーぞ」


 伸ばされた右手に触れることなく、晶穂は白衣の両のポケットに手を突っ込んだ。何を、と、眼前の鬼は言うが、彼女は応えず、ポケットの中身を次々に周囲へ放り投げる。


 鬼は、首を傾げて晶穂を見た。


「何をしている? 生者より預かりし穢れを、この場に捨ててはならぬ」


「力比べをしようぜ、爺さん」


 ポケットの中身――小汚い、厄に塗れた古いお守りを十数個、道路に散りばめて、晶穂はまた、笑った。うまくいくかは分からない。だが、うまくいかなくても、精々死ぬだけだ。


 ならば。


「これからあたしは、アンタを一発ぶん殴る。そうしたら、アンタも一発、あたしをぶん殴れ。全力でな」


「何故に?」


「アンタはあたしを連れて帰りたい。だが、今のあたしはアンタと一緒に行く気は無い。だから力比べだ。アンタがあたしを認めさせられたら、あたしは大人しく三途の川へ行ってやる。男だろ? 欲しいもんがあるなら、戦ってもぎ取れ」


 漆黒の巨躯は、暫く何も言わなかった。晶穂は静かに、懐からもう一つのお守りを取り出す。


「覚悟は……出来てるか?」


 それは、眼前の鬼への言葉ではなく、自身への問い掛けだった。長い年月、人々の恨みや苦しみの感情に晒され、いつしか呪いを振りく物質と成り果てた、お守りの形をした呪詛。彼女が右手に握るそれは、周囲にばら撒いた同質のそれらよりも、遥かにおぞましく、強大な呪いを保持するものだ。


 それを、強く握る。刹那。


 青白く、かつほのかな暗紫を纏う稲光が、彼女の右手から弾けた。


 呪われた輝きが、真っ黒な道路を照らし出す。


「それは」


 鬼が、不思議そうに言った。


「何だ?」


「呪いさ。あたしはこれを、魔を祓う為に行使する。それが『鬼』に通用するか」


 更に、拳を固めた。輝きが稲光のように煌めき、夜を覆していく。


 最中で。


「さぁさ御立合おたちあい。一世一代の大勝負、ってな。じゃあ行くぞ、歯ァ喰い縛って――」


 晶穂は。


「――そのまま!」


 右腕を振りかぶった。


「往生――じゃなくて、あの世まで吹っ飛んで行けジジイ!!」


 怒鳴り、右足で踏み込み、全力で振り下ろした拳から、雷轟に似た爆音が夜を翔んだ。晶穂の放った右ストレートは、惜しげもなく周囲の闇を青白い光で塗り潰し、一振りの槍のように鬼の右腕を喰らう。爆風が衝撃波となって鬼と晶穂の周囲の大地に波を作り、砕けたアスファルト片が無数のつぶてと化して宙を舞った。生まれた竜巻が周囲に礫の壁を創り上げ、その中心で風に身を切り刻まれながら、晶穂は鬼を見る。


 鬼は。


「力比べ」


 晶穂の光の槍――呪いをぜて創り上げた渾身の右ストレートを片手で受け止めながら、尋ね返す。


「殴り返せばいいのか、妻よ」




 ――マジかよ、ホントに全ッ然効いてねえ!




「別離の合間に、実に猛々しくなったものだ」


「来いッ!!」


 晶穂は叫んだ。黒い影は右腕を振り上げる。刹那、彼女は見た。


 眼前に、音よりもはやく闇が広がる様を。巨大な闇色の腕が彼女の顔面目がけて振り下ろされる様を。それはあたかも、宇宙が自身の目前で広がっていく様を目の当たりにしているようで、晶穂は自身の生み出した光がどれだけ小さく、頼りなく、脆弱なものかを思い知った。


 だが。


 晶穂は見据えた。闇を。真っ直ぐ顔面へ向かってくる巨大な腕を。その腕に残る微かな呪いの残滓ざんしを――先ほど叩きつけた輝きの一端を。彼女はイメージする。竜巻で舞い上がった複数のお守りと、未だ大地に伏したままの幾つかのお守り、そして自身に迫りくる強大な力に、のみのように張り付いた微かなお守りの欠片。それらを。


 脳内で。


 結びつける。


「勝負!!」

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