FileNo.5 ブリッジ - 06

 怒鳴り、全力で跳んだ。強大で巨大、宇宙のような漆黒の腕を、取りけた微かな呪いの欠片を頼りにいなしながら。鬼の腕は跳び上がる晶穂の体躯を掠め、晶穂は衝撃で血を吐きながら、最中で念じた。


 無数の炸裂弾が同時に破裂したかのような爆音が空に弾けた。大地から宙、晶穂の周囲において弾けたお守りたちが碧い光を放ち、光は互いに互いを結び付け合って投網のように鬼の腕へ絡みつく。そこからは一瞬だった。


 鬼の腕は晶穂を掴むことなく、アースによって大地へ引きずり込まれる電流が如く、光の網に絡め取られながら道路へと振り下ろされた。閃光と灼熱が焼夷弾しょういだんのように瞬時に道路を焼き砕き、生み出された衝撃波で晶穂は受け身も取れずに鬼の後方を転がっていく。激痛が全身をのたうちまわり、骨のきしむ音と血の吹き出す音が身体中を支配する。


「しょーちゃん!!」


 どん、と強い衝撃と共に、彼女の体を受け止める者が居た。ぐらぐらと揺れる視界と激痛の中で、晶穂は何とか、自身を受け止めた者が、幼馴染・坂田雨月であることを知る。


「よー……うーちゃん」


「馬鹿! ああもう、血だらけ!」


「あいつは……」


 雨月の体を勝手に支えにしながら、鬼を振り向く。直後、彼女は乾いた笑いを浮かべた。


「鬼、やべーな」


 川沿いの道路――晶穗が歩いてきた古いアスファルトの道。幅四メートル程の真っ直ぐなそれは、いま、立ち尽くす真っ黒な人影の向こうから、切り離されたように砕け散り、巨大な穴を創り上げている。穴の深さは十数メートルに達しているらしく、河の水が勢いよく流れ混んでいるのが見えた。


 鬼は、それをじっと眺めていた。何かに取り憑かれたように、じっと。


「一つ。奪衣婆だつえばは生者から服を引っぺがし、アンタに受け渡す役目を持つ。なら、引っぺがした服を地面に放り捨てるような奴が、奪衣婆である筈が無い」


 雨月に肩を貸して貰いながら、晶穂は鬼の後ろ姿へと言った。


「一つ。ここが常世なら、一人の鬼如きの力で地形なんざ変わる訳が無え。三途の川の橋なら尚更だ。他でも無い自分でやったことだ、否定は許さねえぞ」


 鬼は、動かない。……晶穂は最後の言葉を放った。


「分かっただろ。あたしはアンタの妻の奪衣婆じゃねえし、ここは三途の川でもねえ。


 ここは現世だ。アンタは勝手に現世にまで来て、現世を歩いてた生者を勝手に死者と勘違いし、けがれを削ぎ落して連れて行った。常世の官吏かんりとして有ってはならないあやまちだ」


「そうか」


 鬼は晶穂と雨月を振り向き、ボソリと呟いた。


「そうか。迷い出したるは我か」


 そう言うと、懸衣翁はフラフラとこちらへ向かってきた。雨月が警戒した面持ちになるが、鬼はボロボロの晶穂と雨月の横を何も言わずに擦り抜け、更に道路の奥へと進んでいく。その姿はやがて、周囲に蔓延はびこる闇と一体となり。


 消えた。


「……消えたわね」


「消えたなぁ」


 二人で言葉を掛けあう。やがて晶穂は静かに力を抜いて、道路に寝っ転がった。


「あー……死ぬかと思った」


 だが、これで再び懸衣翁が現れることは無いだろう。救急車を呼んでいる雨月に礼を言いながら、晶穂は右手を掲げてみる。


 爪はがれ、小指と薬指はおかしな方向に曲がり、割けた皮膚からダラダラとだらしなく鮮血が滴っている。恐らく全身がこんな状態だろう。だが鬼と遭遇してこの程度で済んだのは、幸運と言うより他に無い。


「痛む?」


「そりゃーなぁ」


「そうよね。後でかさねさんにも連絡しておくわ。治病祈祷の準備しておいて、って」


 仲間の名前を挙げながら、雨月は寝転がる晶穂の腕に、体に、どこかからか取り出した包帯を巻きつけていく。器用なもんだ、と晶穂は感心した。同時に、思う。ここまで人に気遣いが出来るのに、どうして――。


「そう言えば、しょーちゃん。おめでと」


「何が?」


「今回の事件の黒幕は、妻を探しにきた常世の住人・懸衣翁けんえおうでした。彼はこの道路を『橋』と言いました。三途の川に掛かっている橋――古い言い伝えによると、そこは『善人だけが渡れる』場所、だったわよね」


 善人認定されて良かったわね、と雨月は微笑んだ。天使のような、美しい微笑み。それに苦笑いしながら、晶穂は一人思った。


 


 ――幼馴染が悪人認定された時って、どんな顔すればいいんだ?




「今の世の中、常世が認めるレベルの善人なんて、早々居ないものよ」


「……そんなもんかねえ」


 遠くから聞こえる救急車のサイレンの音と、こちらの思考を読んだような雨月の言葉に溜め息をつきながら、晶穂は一人、呟いた。


「善人だったから連れてかれた、だなんて、世知辛え世の中だな」


「あの世の鬼だって奥さんに逃げられるくらいなんだから、どこに行ったって一緒よ」


「『今いる場所でベストを尽くしましょう』ってか?」


「そういうこと」


「救いがあるんだか無いんだか」


 再度溜め息をついた晶穂の腕を、雨月の包帯が固く締め付けた。





【ブリッジ 完】

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