FileNo.4 フラワー - 01

「わたし、『トイレの花子さん』を燃やしに来たの」


 あなたは誰、と尋ねた私に、その女の子は目的だけを答えた。だから私はただ、困った顔をするしかなかった。


 時刻は恐らく、十六時頃。昼と夕の隙間に出来た、陽がぎりぎり陰っていない静かな時間。私はその時、木製の――遠慮なく言ってしまうと『小汚い』ドアの前に立っていた。古い、今は使われていない校舎の、三階西側。水が流れるかどうかも分からない、カビとアンモニアが混じった異臭の立ち込めるトイレの奥。手前から数えて三番目、一番奥に位置する個室の前。そこで私は、ドアの前で右手を掲げ、ノックの一歩手前にいたのだ。


 そんな私のもとへ、彼女は唐突に現れた。


「そこで何してるの? 邪魔なんだけど」


 棘のある言い方で告げた声の主は、きっと十二歳くらい――私と同じくらいの背格好の、上品な身なりの女の子だった。丈の長い真っ黒なスカートに白いブラウス、幅広のネクタイ、黒いカチューシャ。瞳は真っ黒で、髪は焦げ茶色。腰まである長い髪の先は、癖毛なのか少しハネている。真っ黒な手袋を嵌めながら、彼女はツカツカと私のもとへ歩いてきた。恐れるものなど何もない――そんな自信が、表面の磨き上げられた真っ赤なチャンキーヒールにも表れている。


 突然の来客に正体を尋ねて、目的だけを応えられて――私はただ困惑していた。そうこうしている間に、その子は私の隣に立って、じっと私の顔を見つめる。穴が空きそうな程に。


「あなた、外人さん? それともハーフ? ここ、立ち入り禁止の筈だけど?」


「私は――」


「っていうかあーもう、ここホントくさい! くっさい! 汚いし薄汚いし汚いし臭いし! なんでそんなに平気な顔してられるの?」


 尋ねてきたくせに、その子は耐えかねた様子で――心底嫌そうに――忌々しそうにトイレの内部を見回しながら怒鳴り散らした。


「そ、そりゃあ古いトイレだもの」


「古いからって手入れしなくていい理由にはなんないでしょ! たいまんよ、タイマン!」


 無茶苦茶なことを言う子だなぁ、と私は苦笑した。古いから――使われていないから手入れの必要が無く、結果として荒れるのだ。ただ、そんな正論を告げても、彼女はきっと聞く耳を持たないだろう。……たぶん、だけど。


「えっと、それじゃ……鼻で息をしなかったらいいんじゃないかな」


「なんでわたしがトイレなんかに気を使わなきゃいけないのよ。トイレが気を遣って清潔になれば済む話だわ」


「む、無茶苦茶言うね?」


「不潔は犯罪。ナイチンゲールだってそう言うハズ。あーもういいや、さっさと燃やしちゃお」


 まるで犬の散歩に出掛けようとするかのような軽い調子で、その子はそんな物騒なことを言った。だけど、次の瞬間。


 ポン、と、弾けるような音を立てて、目の前に火の玉が現れた。


 あまりにも唐突で、私はポカンと口を開けて、それを見つめていた。女の子は右の手のひらを――ウエイターが食器を重ねたトレイを持つように――天井へ向けていて、火の玉はその上に浮かんでいる。丁度、握り拳くらいの大きさのその火球は、まるで小さな太陽のように、超極小規模のプロミネンスを放っている。


 熱い。


 頬が灼けるようだった。


「退いて」


 混乱している私を左手で掴んで、その子は扉の前から私を引き離した。そして、「えっ、えっ」と、事態の飲み込めない私を放って、女の子はボールでも放り投げるかのように、私の立っていた扉へと火を『投げた』。木製の扉は火の玉の着弾と同時に炎を纏い、激しく燃え上がる。


 瞬く間に、焦げた臭いが古ぼけたトイレに充満した。私は慌てた。


「も、燃えちゃう! 火事! 火事になっちゃう!」


「ホラ、もっとこっちに来て、熱いから。で、あんた何してたの?」


「そんなこと言ってる場合じゃ――!」


「大丈夫よ、他に燃え移らないようにするから。ホラ」


「大丈夫って言っても――!」


 わたわたと女の子と燃え盛る扉を交互に見比べていた私は、しかし、やがて異常に気付いた。炎は激しく木製の扉を包んでいる。だけど――確かに、女の子の言う通り――隣の個室に燃え移る様子も、天井に飛び火する様子も無い。ただただ、『扉だけ』が燃えている。


「ホラ、嘘じゃないでしょ? わたしが創った火なんだから、わたしが操れるに決まってるじゃない」


 火を創った。……私は驚愕のまま、傍の女の子を改めて見つめた。そして尋ねた。


「あなた、何者なの?」


「あ、聞いちゃう? ふっふっふっ、聞いちゃったわね! じゃあ応えるしかないわよね! 応えるわ! 私こそ! 人呼んで常勝のまじゅちゅし!」


 その子は噛み噛みでそう言うと、大げさに両腕を振り上げ、両の手のひらを空に――というより小汚い天井へと向けた。直後、ボン、と強く音がして、彼女の両手から大きな――大人の頭くらいはある――火炎球が出来上がる。


 そして。


「天才霊能力者リョウ・アオキ! 人はわたしを……涼ちゃんとかこう……そんな感じで呼ぶわ! ……わたしに、燃やせないものは無し、よ」


 実に機嫌よく彼女は言って、それから、ふ、とキザっぽく笑ってみせた。……どうも途中から言葉を適当に並べている感じがヒシヒシと伝わってくるのだが、私はとりあえずパチパチと手を叩いた。扉は燃え続けている。ゴウゴウと音を立てながら。


「霊能力者……火が出せるの? 超能力者みたい」


「超能力者であり霊能力者でありさいきょーなのよ。……わたしに、燃やせないものは無し、なんだから」


 それはさっき聞いた。


「もう分かったでしょ? この場所には除霊に来たの。くにからのおしごと、ってやつよ!」


「おしごと……」


「そ! ややこしいことは省くけど、ここにいわゆる『トイレの花子さん』が居るって話だったから、常勝のまじゅちゅ……まじゅつし! であるわたしが、わざわざ出向いてあげたの! 古い悪霊だって聞いたけど、居場所ごと燃やせば万事解決よね!」


「でも……」


「なに?」


「消えちゃった……みたいだけど……」


 恐る恐る言うと、両手を振り上げて炎をブンブン宙で振り回していた彼女は、「は?」と一瞬で笑顔を崩した。私は怯えながら、先ほどまで燃え上がっていた扉を指さした。


 扉は。


 先ほどまでの炎など嘘であったかのように、平然と小汚い肌を私たちに見せつけていた。


 その表面に炎などは一切なく、燃える音は一切聞こえない。焦げ付く臭いも煙も消え、燃やされる前の状態そのままに戻っている。……いや、ここまでくると、さっきまで燃えていたのが、何かの幻だったかのようだ。


「あの……」


 私が声を掛けるのと、『涼』と名乗った女の子がつかつかと扉に近づいていったのは、ほぼ同時だった。口を挟めず、眉根を寄せて扉を睨む涼ちゃんを見つめていると、彼女はもう一度、手のひらを天井へ向けた。


 火炎球が出来上がる。


 涼ちゃんは、それを扉に投げる。


 扉はそれを受けて勢いよく燃え上がり――しかし、すぐに鎮火する。


 火炎球を創る。扉へ投げる。燃える。鎮火する。火炎球を――。


「りょ、涼ちゃん! ちょっと落ち着こうよ!」


「何で!? 何で燃えないの、この廃屋かぶれ!!」


 腕を掴む私の制止を振り払いながら、涼ちゃんは次々と、バンバン火を創っては木製の扉にぶつけた。一方、扉はと言うと「もう効かんぞ」とでも言わんばかりに燃え上がることすらなくなり、火の玉をボールのように跳ね返し始めている。涼ちゃんはあからさまにヤケになっていた。初見の、上品で瀟洒な雰囲気はどこへやら、今やそこに居るのは癇癪を起こして次々と近くのものを相手に投げつける子供以外の何物でも無い。投げつけているのが炎の球、というのは異常だけれど。


「もう!! 何で!! 燃えなくなったのよ、こいつッッッ!!!」


「……わたしに燃やせないものは無し」


「何か言った!?」


「ごめん、何でもない! 何でもないから許して!!」


 呟きを聞き逃されず、炎の球をこちらへ投げつけようとする涼ちゃんへ、私は慌てて謝る。大きく肩で息をして、涼ちゃんは私と木の扉を交互に見た後……ぼそりと呟いた。


「……分かったわ」


 何か分かったらしい。


「こうなったら!」


「や……やめた方がいいと思うな、私」


 嫌な予感がビシビシして、先んじて告げてみる。だけど、もう手遅れだったらしい。


「全焼させてやるんだから」


 そう言うと、ふっふっふっ、と、どこか鬼気迫った表情で涼ちゃんは笑った。思わず怯える私の肩を掴み、「いったん外に出るわよ」と告げてトイレの外に私を引っ張り出して――そこでふと、涼ちゃんは私の顔を改めて覗き込んだ。


「そう言えば……あんた、名前なんだっけ?」


「め……メアリーです」


 今更かぁ、と、私は胸中で呟いた。

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