FileNo.3 ロスト - 07

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 目を覚ましてから数日経っても、私は夢の中に居るような、奇妙な感覚を拭えずに居た。病室には四十代と思われる夫婦が私の世話をしに日々やってくるのだが、私には彼らが誰なのか分からない。あなたの母親だ、お前の父親だ、と彼らは言う。だが、違う。私の両親はもっと老いていたし、父に至っては他界していた。


 その筈だ。


 確信がある。


 だが、何故か、が分からない。


 事故による一時的な記憶の喪失だと医者は言う。だが、本当にそうなのだろうか? どうにも医者はとんだ勘違いをしているように思えてならない。だが、何故かが分からない。何故私がハッキリと「彼らは誤っている」と感じるのか、何故今の私は本来の私ではないと感じるのか、何故別に両親が居ると感じるのか……何故このような、夢の中に居るような――本来、ここに居るべきでない、という感覚に見舞われるのか。一向に理由が見いだせない。それは、点滴が味の薄い病院食に変わってからも同じだった。


 事故。


 私は事故に遭ったのだという。それは間違いない、と思う。記憶がある。白い大型トラックが正面からやって来たあの瞬間――人生に於いて初めて感じた確実な死の感触を、私は今でもありありと思い出せる。結果として、私はこうして死に至ることなく、日常に回帰した。だが――。


「おーい、栄絵―。入るぞー」


 ――呆けた頭で、まとまらない思考に身を委ねていた昼下がり。気の抜けた低い声が、病室にノックと共に響いた。


「おー、起きてたか。すまねえな、どうにも都合が合わなくてよ」


「はい。あの……失礼ですが」


「ああ、記憶がトンでるんだっけか」


 病室に入ってきた快活そうな女性は、そう言うとボリボリと頭を掻いた。金色のボリュームある長髪、白衣の下にノースリーブのシャツとホットパンツ、素足にサンダル、そして日本人らしくない青い瞳。特徴的なシルエットだが、私には見覚えのない人物だ。


 だが、彼女からすれば、私は見知った人物なのだろう。彼女はズカズカと個室に入り、私が上体を起こしているベッドの傍の椅子に座って、また頭を掻いた。


「ならまずは、改めて自己紹介だな。で、その次に謝罪だ」


「謝罪?」


「ああ。あたしはお前の通う高校の教師、雷瑚だ。で、お前を護ってやれなか――」


 そこでふと、眼前の雷瑚なる女性は、私の顔をじっと見つめた。それから、スンスンと鼻で息をして、何か匂いを確かめるような素振りをし……やがて、ボソリと告げた。


「お前。もしかして、池尻亮か?」


 ――ガツンと、思い切り頭を殴られたような衝撃が、全身を貫いた気がした。私は顔を覆い、突如滝のように流れ混んでくる記憶の濁流に溺れた。溺れながら、何度も無意識に呟いていた。ああ、ああ、ああ。


 ああ。


 どうして。


 どうしてこんなことを忘れていたんだろう!

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