FileNo.3 ロスト - 02
突然、坂田先生の声色がえらく軽くなった。同時に、先生はあたしの体の奥、ベッドの隣に置いてある、緑色のクロススクリーンを横にどける。自然、その奥のベッドがあたしの視界に入り、直後、あたしは目をパチパチさせていた。
金色のハリネズミが寝ている。
「……ぐぅ」
ベッドの上で、そのハリネズミは――いや、違う。どうやら人間のようだ。とにかくそこには、えらくボサボサでツンツンな髪を天に向け、ベッドにうつ伏せになっている『誰か』が居た。よくよく見ると女性らしい。腰まで伸びた長い金髪の下に、白衣らしき衣服が見える。腰から先は掛け布団で見えないし、枕に顔面を埋めているので顔立ちも分からないが、身体付きは完全に女性のそれ……だと思う。多分。
「
一際大きな声で坂田先生が声を掛けると、そこでようやく、ベッドの上の女性型ハリネズミはモゾモゾと動いた。うう、などという低い呻き声のようなものが聞こえる。それを見て、坂田先生は「もう!」と可愛らしい抗議の声を上げ、あたしの上から退いて隣のベッドに向かい、ハリネズミから掛け布団をひっぺがした。
「お仕事だってば! ほら起きて!」
「うう……やめろようーちゃん、昨日あたしあんまり寝てないんだってば……」
「遅くまでゲームしてるのがいけないんでしょ! それから、うーちゃんって言わない! 仕事とプライベートは区別しなさい!」
腰に手を当てて叱る坂田先生を、あたしは呆然と見つめていた。我らが保健室の女神は、いつもふんわり妖しく笑っている――それがこの学校におけるほぼ全ての生徒と教師の一貫した認識だった筈だ。それが、どうだろう。この、まるで駄目な息子を叱る母親のような、所帯染みた姿は。
「ほら、さっさと起きる!」
「分かったよ、分かったからあんまり高い声出さないで……」
そう言って、ようやく枕から顔を離したハリネズミは、ご丁寧にゲームキャラクターの目が描かれているフザケたアイマスクまでしていた。彼女はそれから、これ以上無い程に『しぶしぶ』という表現が相応しい仕草と共に、アイマスクを取り去ってベッドに胡座を掻く。
青い瞳。
可愛い、というよりは凛々しく整った鼻筋。
柔らかく、しかし細すぎない輪郭。
金色の眉。
「あー……ねみぃ」
盛大な欠伸をするハリネズミ――いや、『彼女』の姿を細かく言い表すと、そんな表現になるだろう。つまり、簡単に単純に率直に言ってしまえば、ボサボサの髪をボリボリと眠そうに掻く彼女も、坂田先生に負けず劣らずの美人だった。……美人なのだが、白衣の下にノースリーブ、ホットパンツというラフな格好で、化粧っ気も無く、夜勤明けのオッサンのような伸びをする彼女から、色気のイの字も感じないのは、きっとあたしだけではない筈だ。
例えるなら、坂田先生が血統書付ゴールデンレトリバーなら、彼女は偶然写真に映り込んだ野良犬だ。坂田先生が方眼紙なら彼女は段ボール、坂田先生がスタイリッシュで先進的な企業ウェブサイトなら彼女は大学生手造りの個人ブログ……ええい、何が何やら分からなくなってくるからもう比較はやめよう。とにかく、ベッドでのそのそと動く彼女は、そんな調子の女性だった。
「で」
ボリボリと頭を掻いて、女性はようやくこちらへ目を向けた。あたしは警戒心と共に上体を起こし、「初めまして」と一応、頭を下げる。
「あー、これはどうもどうも御丁寧に、初めまして。……初めまして?」
「いつものことでしょ」
坂田先生はそう言うと、トコトコと歩いて、再度あたしの傍らのスツールに座った。そして、不満げに告げる。
「保健室のお仕事は全部私任せで、自分はいつもベッドでぐっすり。お陰で雷瑚先生、生徒どころか先生にも知られてないこと多いんですから。……存在自体を、ですよ!」
「あの、坂田先生。つまり、この人は」
「あ、ごめんなさいね、東さん、置いてけぼりにしちゃって。うん、そう。この人、これでもこの学校の先生なの。私と同じ、保健室の先生」
坂田先生はにこりと笑った。……先生? この風体で?
「あー……露骨に疑われてるなぁ」
「今度から教員免許状でも飾っておきます?」
「ふふん、任せろうーちゃん。ええっと……」
そう言うと、金色ハリネズミはベッドの奥の床に手を伸ばした。どうも鞄を置いているらしい。やがて……彼女は一枚のB5大の紙をあたしに渡した。坂田先生と共に覗き込むと――。
「えっ、履歴書のコピー? 何ですかこれ、まさかいつも持ち歩いてるの?」
「いやぁ、前に警備員のオッサンにすら疑われてさぁ。それからここに置くようにしてんだ」
へへへ、と頭の裏で手を組み、金色ハリネズミは笑う。……変な人だ。
「でもこれ、この学校に赴任する時に書いた奴でしょう? 職歴の欄が空だし、そもそも履歴書じゃ何の証明にもならないし。困った時にこれを見せても、『この学校の教師です』って証明にはなりませんよ?」
「えっ」
「えっ、じゃないですよ、もう」
……変な人だ。二度繰り返してから、改めて履歴書に目を通す。名前は――。
「らいこしょうほ……先生?」
「じゃあどうやって証明すれば……あ、そうそう、雷瑚、雷瑚晶穂だ。変な名前だろ? ま、宜しくな。ええと……」
「東です。二年A組の東栄絵と云います」
「栄絵ね。で、どうした? 毎晩枕元に誰か立ってたり、誰も居ないのに右肩とか右腕を掴まれたり話しかけられたりでもしてるか?」
「えっ」
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