FileNo.3 ロスト - 01

 ――想像してみて欲しいんだけど。




 朝、通学途中、ずっと誰かに見られているような視線を感じて、視界の端に度々黒い影が映り込んだら。


 昼、誰も居ない廊下を歩いている時、耳元でボソボソ聞き覚えの無い声が聞こえて、繰り返し肩や足を掴まれるような感触があったら。


 夜、ふと目覚めると枕元にぼんやりと人影が立っていて、カラカラの喉がヒリヒリ痛んだら。


 そんな生活が一週間以上続いて、ついに倒れて、保健室に運ばれて、簡単な問診の後、先生にこう尋ねられたら。


「何か原因に心当たりは無い?」




 ――正直に答えられる?




「もし思い当たることがあったら、話してみて。どんな些細なことでもいいから」




 ――少なくとも、あたしはムリ。




「と……特に、何も」


 あたしはベッドに仰向けに寝かされたまま、傍らに座る保険医・坂田先生へと、そう返した。


 坂田先生は、ハッキリ言って美人だ。サイド三つ編みにした艶のある長い黒髪、清潔感のある白衣と白シャツと黒のスカート、主張の激しくない茶色のフレームの眼鏡、モデルさんのように整った端正な顔立ちに、漫画の登場人物かと突っ込みたくなるような長い睫毛。ボディラインは細いけれど出ているところは出ているし、穏やかに柔らかく浮かぶ微笑みは、どこか蠱惑的な雰囲気を醸している。男子生徒にも男性教師にも人気だし、こうして一対一で微笑みかけられると、女のあたしですらドキドキしてしまう。


 そんな人に、「毎日の怪奇現象で気が休まらないの☆」なんて、言えるだろうか? 相手は隣に居るだけで劣等感に苛まされるような、圧倒的な美人さんなのに。きっとそんなことを告げようものなら、覇気のない眼の窪んだサラリーマンを遠巻きに眺めるかのような、憐憫の視線を向けられてしまうに違いない。それは……キツい。実にキツい。きっと、暫く立ち直れないと思う。


 憐れみは時に、人の尊厳をこれでもかと言う程に痛めつけるものなんだ――と、誰かが言っていた――ような気がする。


「本当に?」


 坂田先生は、ゆっくりと、あたしの顔を覗き込んだ。綺麗な瞳だ。真っ黒だが、やはり艶がある。


 妖艶――この前、何かの小説で見た表現が頭に浮かんだ。何も特別な仕草は無いのに、この色香は何なのだろう。これがオトナのヨユウなのかな。


「……私じゃ、頼りにならないかしら」


 あたしが何も言えないでいると、坂田先生は哀しげに眼を伏せた。それから立ち上がって、保健室の扉に歩いていく。どうしたんだろう、とその背中を見ていると、先生はカチャリ、と保健室の内鍵を閉めた。


「先生?」


「これで、部外者は入って来れない」


 そう言って振り返った坂田先生の顔には、悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。先生はゆっくりとベッドに近づいてくる。まるで、獲物を見つけた大蛇が、ずりずりと地を這ってやってくるように。


「あ、あの。あたし、そろそろ戻り――」


「だーめ」


 尋常でない雰囲気に体を起こそうとしたあたしを、その肩を、坂田先生は優しく――しかし強く――戻す。押し倒されるような形になって、あたしの心臓は一際高鳴った。


 あたしの顔を真正面から覗き込み、先生はくすくすと笑う。


「隠してること、あるのよね? 先生、教えて欲しいな」


「あ、あのっ、でもっ」


「だいじょうぶ、安心して。何も怖くないから」


 あたしはパニックになった。他に誰も居ない保健室に二人きり。あたしはベッド、その上に圧し掛かるように迫ってくる先生。この次に起きること――間違いない。それはこの上なく不健全なことだ。あたしにそんな趣味は無いのに!


「ね」


 教えて、と、坂田先生はあたしの耳に息を吹きかけるように、囁くように言った。ぞくり、と、金縛りにあったように体が強張って、脱力感が耳元から全身に広がっていく。あかん、とあたしは直感した。動けない。というか、そっちの趣味は無いっていうのに、体が抗うことを拒絶している。美女の色香、げに恐ろしき。


「だめ、かしら」


 また、寂しげに先生は言った。頭がくらくらする。女の涙はリーサルウェポンと言うが、それはきっと老若男女誰にでも有効な、平和的暴力装置なのだ。そして恐らく、あたしはそれに、為すすべも無く敗北を喫してしまうことだろ――。


「仕方ない。じゃ、出番ですよ、雷瑚らいこ先生」

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