FileNo.2 ライフ - 02

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 私には、夫が居た。この国に来て数年経った頃、仕事で知り合った男性だ。


 私はそれまで、男なんてどこの国でも同じだと思っていた。横暴で、偉そうで、プライドが高く、いつも煙草の臭いを燻らせている。意地汚い言葉を空気のように吐き出し、嘘をつくことに何の躊躇もない。勿論、女だって数人集まれば仲違いもするけれど、それは横並びで対等な闘争だ。男は違う。彼らは、いつだって――何の理由もなく――女を見下し、圧し潰そうとする。横並びや対等という概念は皆無で、まるで生きるということが嘲ることと同義である、と信じ込んでいるように私には思えた。


 だから、あの人と初めて出会ったとき、私は衝撃を受けた。彼は優しく、謙虚で、誰に対しても敬意を崩さない人だった。生まれた国も性別も違う私に対してもそれは同様で、私は吸い寄せられるように彼に惹かれた。仕事でこの国に来ることになった時は、目の前が真っ暗になった。何せ、航海も困難な遠い国への勤務だ。私は二度と生家に戻れないことを覚悟し、旅立つ前に両親や姉妹と何度も抱擁した。だが、彼と出会い、私の眼前には光が射した。面白いもので、彼と結婚してから家族に出した手紙は――一年もの時を経て――祝福という形で、海を越えて返ってきた。


 ああそうか、と私は思った。私は思い違いをしていたのだ。猿の棲まう野蛮な国には、心から愛せる運命の男性が住んでいて、二度と触れられないと覚悟した大地と愛する家族にも、文字という形で繋がることが出来た。


 残念ながら、私と夫の間に子供は生まれなかった。だが、夫はその分、私を愛した。私もそれに応えた。断言できる。私は幸せだった。私と夫は、度々、自宅の近くにある小高い丘、桜の木の下まで散歩して、のんびりと暮れていく夕陽を眺めた。あの日々のすべてを、私は克明に記憶している。勿論、それは永遠ではなかった。年を経て、私は流行り病に罹り、自宅から出ることすら難しくなったから。それでも、私は幸せだった。あの人が居てくれたから。


 いつの頃だったか、あの人が病に臥せる私の傍で、大きな声を上げて泣いたことがある。私は掠れる声で言った。またあの桜の下まで散歩しましょう、と。夫は何度も何度も頷いていた。全身が虚脱感に包まれていて、はっきり言ってとても快適とは言えなかったけれど、あの人が私のために涙してくれていたことは、心の底から嬉しかった。だから、こうして丘の上、桜の下に来ることが叶った時は、こんなに幸福なことがあっていいのかと思ったものだ。一緒に歩いてくることは出来なかったけれど、あの人は必ず後で迎えに行くと言ってくれた。だから私は待っているのだ。あの優しい笑顔が、私のもとに歩いてくる、その時を。


 少し不愉快なことは、度々、大勢の人が、この桜の下にやってくることだ。それはいい。この桜は決して、私と夫の所有物ではないのだから。だが、彼らは何を思ってか、この桜を切り倒そうとする。私は懇願した。やめて。まだ夫が来ていないの。そして抵抗した。やめて。乱暴なことをするなら、ここから立ち去って。


 祈りは通じて、そういった乱暴な人々には、悉く天罰が落ちた。雷だ。そういった人々は見慣れぬ機械を持ってやってくることも多かったけれど、それらはすぐに砕け散った。たまにそういった機械が燃えることがあって、私は大声をあげて桜に燃え移らないように祈った。あの人が来るまで。あの人が来るまで。


 あの人が来るまで、誰もこの場所を奪わないで。


 私は立って待ち続けた。或いは草原に腰を下ろして待ち続けた。雨の日も風の日も雪の日も、騒がしい日も静かな日も、朝も夕暮れも夜も待ち続けた。あの人はまだ来ないけれど、きっと仕事が忙しいか、もしくは誰かの頼まれごとを引き受けて、急いでそれを終わらせようとしているのだろう。何せ、優しい人だったから。それでも、最後は必ず、私のもとに来てくれる人だった。


 そんな、ある日のことだ。


 金色の髪の女性が、ふらりとやってきた。彼女は丈も袖も長い、真っ白な上衣のポケットに手を突っ込んで、眠たげにボサボサの頭を掻きながら、欠伸交じりで桜と私に近づいてきた。


 最初の日。彼女は私たちを眺めるだけで、すぐに立ち去って行った。


 次の日。彼女は私たちの周囲をぐるりと回って、暫く考え事をしてから、また去って行った。


 そして、今日。


 夕暮れ時に来た彼女は、私の近くまで来て、こう告げた。


「旦那を待ち続けてる女、ってのは、あんたのことだな?」


 私は嫌な気持ちになった。別に、その女性がぶっきらぼうな口調で話しかけてきたことが、ではない。彼女の纏う雰囲気が、空気が、実に気味の悪い――生理的嫌悪感を催すような、酷い醜悪さに満ちていたからだ。


《私に、何の御用でしょう》


「単刀直入に言う。残念だが、あんたの旦那は此処には来れない。もう百年以上前に、この世を去ってるからな」

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