龍神物語 其の四
龍神物語 其の四
少しの間の沈黙。
琴はまるで固まったように、動かない。
龍神は手を離し、うつむくように正面を向く。
つられて琴の手のひらも、すっと落ちた。
「どういう……ことでしょうか?」
琴が声を絞り出すように、そう口にした。
龍神はちらりと琴の顔を盗み見る。
少しだけ、寂しそうな顔をしていた。
「余は神の身だ」
またわずかに下を向き、龍神は答えた。
「元々、人と交わってはならない、そういう掟があるのだ」
龍神はうつむいたまま、言葉にわずかに落胆を孕みながら、そう言う。
「泣いていたそなたを放ってはおけなかった。それだけで済ませればよかったのだが、毎日のように足を運ぶそなたのことが気になって……な。つい、姿を見せてしまった」
そう。
龍神は神。
神は人前に出てはならない。
神の国の掟として、神は人々と必要以上の接見をしてはいけないのだ。
それでも。
あの日、雨が降ってから、琴は以前よりも頻繁に、山に足を運ぶようになった。
龍神と出会った、あの広間へ。
その場で両手を合わせ、膝を付き、静かに祈りを捧げる姿は今も覚えている。
一歩も動かず、ただ、感謝の意を表するその琴の姿は、もう一度会いたい、と、そのように言っているように、龍神の目には見えた。
「余も……余も、そなたともう一度、話がしてみたかった」
人の願いを聞き入れるのが神ではない。
人を幸せにするのが神ではない。
龍神の行うべき神の所業は、ただ一つ。
安定だ。
自分用に決められた範囲の中で、異常気象や天災などを防ぐこと。
それ以外のことはやるべきでない。
神へ祈る人々の願いをすべて受け入れるほど、神は寛大ではないのだ。
今回の件も、ひどくなる前に何とかするつもりだった。
だが、龍神の予想よりも百姓へのダメージは大きかったらしく、龍神が気づいたときには、もう村の人々は非常に苦しい目にあっている最中であった。
そんなときに、山に入ってきた、琴。
叶えてやる、と言ったが。
正確には、聞き入れたのではなかった。
ちょうどタイミングがよかっただけ。
龍神にとっては、ただそれだけの、些細な所業に過ぎない事で、終わるはずだった。
それなのに、龍神はこだわった。
その存在に。
琴という、一人の女性の存在に。
山に来れば姿を変え、同じ人の身になり話を聞いた。
琴が困っているときは手を貸したし、一緒に山を歩いたこともある。
どうして、そこまでこだわるのか。
「余は」
琴と共にいたい。
琴ともっと話をしたいし、琴の村や畑だって、見てみたい。
神の身でありながら、守護する身でありながら。
龍神はそう、思った。
本当にささやかな、人の身であれば本当に小さな願い。
それを龍神は、禁忌と知りつつも、心から願う。
その感情がどういう感情なのか、龍神にはわからなかった。
「琴と、共にいたいと思うのだ」
口にしたのは、先と同じ言葉。
同じ言葉だが、それには深い感情と、深い想い、そして願い。
琴の方を向いて、決意したかのように見つめる龍神の目に、琴は何か感じ取ったのか、軽く目を伏せる。
「我々は……」
琴のほうを向いて、それでもわずかにうつむいて。
龍神は続ける。
「神の身であって、人と交わってはならぬ」
それも、先ほど言った言葉。
だが、今度はそれに続きがあった。
「それ故、もし、この身において人と交わるようなことがあれば、それは、神権の喪失を持ってそれを成すこととなる」
言葉の意味がわからなかった。
琴はただ黙って、その言葉の続きを促す。
龍神は一度琴の目線を伺う。
琴と目が合い、琴は強く、見つめ返してきた。
その続きの言葉が、非常に辛いものになるということが伝わったのか、少しだけ険しい表情をしながら、かすかに頷く。
龍神も軽く頷き返して、息を軽く吸った。
「すなわち、余は全ての力と、記憶を失うことになる」
いろいろな音が聞こえたような気がした。
鳥の羽ばたく音、雨が地面を叩く音、風の音、動物の遠吠え。
だが実際に鳥など飛んではいないし、地面が濡れているでもない。
風は吹いたかもしれない。動物は声を上げたかもしれない。
でもそんなものが耳に入ってきても理解はできなかったし、理解する必要もなかった。
むしろ、脳内はただ、龍神が言った言葉を理解するだけで精一杯。
まず理解して、それがどういうことかを知る。
それが何を意味するのか、それがどういうことを意味するのか。
理解したとき、琴は何も言うことが出来なかった。
龍神も悲しそうな顔をして、視線をそらす。
「今までは、他の連中も情けをかけてくれていたのだが……」
重苦しく一度息を吐いて、龍神は空を仰ぐ。
「これ以上琴と会うようならば、そうせざるを得ないということだ」
空は暗い。
日が沈んだだけが理由ではない。
真っ黒な雲が、頭上を覆っている。
まるで、そこから上の世界を見せないようにするかのように、雲は二人の頭上いっぱいに広がっていた。
「余には義務がある。この山と、その近隣の世界を見て、不穏を廃する。それが余に定められた義務であり、為すべき所業だ」
視線を低く戻し、正面の木々を見据えて龍神は言う。
木々の向こうももう暗くなっていた。
「それでも余は、琴と共にいたいと思ってしまうのだ」
琴は何も言わない。なんて言えばいいのかわからないのか、それとも、必死に言葉を捜しているのか。
沈黙に耐え切れず、龍神はまた正面を向き、静かに息を吐いた。
それが全て。なんということはない。
説明すればなんと簡単なことだったのか。
自己の中に溢れる想いを話した。
もう龍神に為すべくことはない。
ただ、答えを待つだけ。
ただ、琴の一言を聞き入れるだけでいい。
それで終わる。
琴が共にいることを選ぼうが、今生の別れを告げようが、どちらにせよ、二人の関係はここで終わるのだ。
覚えていながらも会えないことを呪い、ただ、琴の幸福だけを祈るか。
忘れながらも共にいることを選び、人として生きようと思うか。
どちらにしても、もう、琴とは会えない。
きっと、この日が最後。
「私は」
琴が口を開いた。
「私も……それでも龍神様と共にいたいと思います」
迷いのない、確かな言葉。
それは明確な答えだった。
「記憶を、失う。琴と出会ったことも、話したことも、今までの全てを忘れるのだぞ」
「忘れたのなら、私が今まで話したことをもう一度お話しします」
「自分がわからない不安に駆られ、どこかに行ってしまうかもしれないぞ」
「龍神様がお迷いになるのでしたら、私が同行して、迷わないように道を示して差し上げます」
「何も話さない、ただのものになるかもしれないぞ」
「龍神様はお強いお方です。そのようなことは絶対にありません」
何を言っても、琴はそれを否定する。
強い口調で、真っ直ぐな瞳で。
「記憶をなくそうと、私を忘れようと、たとえ神の身でなくなろうと、私がそうしたいと願うのです。龍神様と共に目覚め、共に働き、共に歩んでいきたいと思うのです」
その言葉は、懇願に近かった。
全ては自分の願い。
それがもし龍神と同じ願いなのだとしたら。
辛い道が待っていようとも、決して、後悔はしない。
それが、琴の決めたことだった。
「……わかった」
龍神は頷く。
それが、全ての決意。
それが、全ての約束。
辛さも苦しさも、全て。
これからは共有することもできないのに。
琴は、そう言ってくれた。
ならばすべきは、決別。
神の身から。
神の世界から。
全てをつかさどる、神から。
「琴……ありがとう」
琴にそう言い、立ち上がる。
琴はその場を動かない。
龍神は天を仰ぎ、大きな声を上げた。
人の声でない。
それはまるで動物の雄叫びのよう。
そして神々に届く、神聖な声。
龍神の体は宙へと舞い、琴はただ、それを見守る。
最後に一度振り返り、龍神は空へと舞っていった。
(そうか)
そこにいた。
全てをつかさどりしもの。
龍神だけではなく、この国の神と称される全てを管理する、神の中の神。
(それが答えか、龍神よ)
「そうだ」
そんな大きな存在に一切怯みもせず、龍神は力強く答えた。
「余は琴と共に生きてゆく。そう決めた」
(共に、か)
その存在の言葉に、龍神は頷く。
ふざけたことを。その存在は、口では言わずにそう言った。
共になどではない。
単に、自己の肉体を押し付けるだけの愚かな行為だ、と。
それでも龍神は、迷いなく、言った。
「山見も飽きた。これからは、人の世を見て生きてゆく」
笑い声は聞こえなかった。
周りには誰もいなかったのか。
不快な笑いは聞こえず、ただ、大きく息を吐く音だけが耳に届いた。
(わかった)
空気が変わる。
龍神の周囲を風が吹き抜ける。
それを合図に、龍神の体は動かなくなった。
それでも、決してひるまない。
ただ正面にいる存在だけを、龍神は鋭い目で見据えていた。
風が体を包み込み、だんだんと、渦巻いてゆく。
周囲に見えるものは、ただ、渦巻く風の流れと、自らの肉体のみ。
いや。
これは、本当は自らの体ではない。
だがこれは、今後の自分の体。
もう自らの意思で動かすことは出来ないかもしれないが、それでも。
この体こそが、自分の体だった。
(龍神よ)
風の向こうから声がする。
風は体を包み込み、もう目など開けてはいられないくらい、強くなっている。
だから、聞こえるのは声だけ。
それでも風の向こうから、その声が聞こえていた。
(そなたならば、我と共にいずれ全てを統べる者になれただろうに)
声がだんだんと遠くなってゆく気がする。
本来人には聞こえない声。
それが聞こえていたのは、自己それ自体が人でなかったから。
聞こえなくなっている、ということは。
それは確かな、自己の変革だったのかもしれなかった。
(残念だよ)
その声を皮切りに、風の勢いが増した。
身動きもとれない。
ただ目を閉じ、歯を食いしばり、風が体を侵すのに耐える。
風は体を蝕み、体を軽くし、そして、全てを奪ってゆく。
ふわりとした感覚。
自己の記憶。
山を統べた想い。
一人の人との出会い。
会話。
笑顔。
それらの全てが風に飲まれ、霧散してゆく。
風が収まり、体が浮いているような感覚。
それ以外、もう何も感じられなかった。
突然、目も開けてもいないのに、辺りが明るくなったような気がした。
真っ白な光りに包まれて、全てが周りからなくなる。
自分。
自分を形成していたもの。
自分の周りにいたもの。
全ての喪失を感じながら、ただ、最後に浮かんだのは。
もう名前も思い出せない、一人の女性の笑った顔だった。
顔に雫が落ちるのを感じる。
薄く目を開けてみると、真っ黒な空から、ぽたぽたと雫が舞い降りている。
ざあざあと耳障りな音を出すそれが一体何なのか、思い出すのに少しだけ、時間を要した。
雨。
そう、雨。雨が降っていた。
雨は遠慮なく降り注ぎ、体を、周囲を濡らしてゆく。
冷たい雫が顔に落ち、不愉快だ。
そう思っていると、冷たい雫に紛れて、ほんの少しだけ暖かな雫が落ちてきた。
「龍神様……」
雫に驚きまた目を閉じると、誰かの声が聞こえたような気がした。
声のしたほうに、少しだけ顔を動かしてみる。
そこには一人の女性がいて、自分の肩に手を乗せていた。
その顔はかすれて、よく見えない。
雨が目に入るのにも構わず、目を開けてみる。
「龍神……様ぁ」
幼い顔立ち。
かすれた声。
ずっと雨にさらされていたからか、着物も髪も、ずぶ濡れだった。
特に目の下や頬の辺りには雫が絶え間なく流れている。
その顔を、じっと見てみる。
ただその女性は、嬉しいのか悲しいのか、よくわからないような顔をして、こちらを見ている。
その顔に、見覚えはない。
ないはずだ。
「……そなたは?」
声が出た。
ごく自然に出た言葉は、いざ出してみれば今までずっと使っていたような気もするし、初めて口にしたような気もする。
それでもしっかりと自分にも理解できる言葉が出てきたのは、やはり自分は、この言葉を知っているのだろう。
「そなたは、一体……」
言葉を続ける。
意味は伝わっているのか。
何もない、何も思い出すことの出来ない頭で、必死に何かを考える。
何を。
何で。
何が。
頭の中に走るのは意味のわからないものばかりだった。
「……はい」
それでも伝わったのか、目の前にいる女性は指で目元を拭い、こちらを向く。
その顔に、憶えがあるような気もする。
目を覚ます前まで見ていた景色を思い出そうとしても、何も思い出せない。
それでもつい先ほどまで、何か、暖かなものを見ていたような、そのような気だけはした。
そう。
ものすごく美しいものを。
きっと、ものすごく好きだったものを。
誰かの……笑っている顔を。
「琴、と、申します。龍神様……」
思い出せない景色の中に確かにあった、誰かの笑顔。
目の前にいる女性の笑顔は、その笑顔よりも美しいような、そんな気がした。
千年の後 其の四
じっと睨み付けてくる、瞳。
その瞳の色は、青い色をしていた。
「里歌……?」
目の前に立つ一人の女性。
響、里歌。
それは、つい昨日まで味方だったはずで、そして、仲間だったはずだ。
共に武器を持ち、走り、振るい、そして、助け合った。
そんな相手が今、目の前で武器を振るう。
敵として。
「里歌!」
その瞳は青。
澄んだ色というよりは、万物を寄せ付けない、大海の色をしていた。
その着物も青。
人の住み着けない、深海の色をしていた。
そして、名乗った。
青龍、と。
呼びかけても、返事もしない。
確かな敵意がこもっている、その瞳。
まるで、こちらの動きを伺っているかのような、そんな視線。
竜も琴音も、そんな風に見つめられて、動くことすらできなかった。
「ここを通りたいのなら」
里歌が口を開く。
その口調は、以前の里歌とはまったくといっていいほど違うものだった。
「我を倒してからにしてもらおうか!」
くるくると、頭の上で薙刀を振り回す、里歌。
そして、その刃先を竜の方へ向け、大きく振るった。
竜は唇を噛みながら、『龍殺しの剣』を手の中で回転させた。
「操られているかもしれません」
琴音が竜の方を見て、言う。
「どうすればいいんだよ」
悔しそうに、剣を構えながら竜が聞く。
「わかりません!」
琴音は一歩下がりながら、声を張り上げた。
「ですが、必ず手はあるはずです。どうにかして、彼女を」
少しだけ視線を鋭くし、こちらを見る琴音。
くるりと振り返った竜とちょうど目が合う。
その目が、何かを言っていた。
「そう簡単にいくかよ」
竜は小さくそれだけを言って、顔を正面、里歌の方に向ける。
里歌は準備完了、いつでも来いというような顔で、こちらを見ていた。
「ちくしょう」
小さく、誰にも聞こえないように口を動かす竜。
さらに一歩、下がる琴音。
奇妙な空気の中、里歌、竜、ほぼ同時に、一歩だけ足を前に出す。
ざっという、足と地面がすれる音が響く。
静かだった。
風の吹く音が、こうもはっきりと聞こえる。
坂の下の騒ぎが、わずかに聞こえてくる。
琴音の息を呑む音、竜の呼吸音。
すべての音が、ただ、はっきりと響く、その空間の中。
均衡が破れたのは、ほぼ同時。
里歌が地面を蹴って、駆け出す。
竜も一歩遅れで、地面を蹴った。
振るわれた二つの武器が、互いにぶつかり、火花を散らす。
里歌と、竜。
二人の戦いが始まった。
何度も何度も、金属同士のぶつかり合う音が響く。
その度、二つの人影は前後し、時折その場に立ち止まる。
大きく振るわれる、薙刀。
それを竜は刀で受け、弾き返す。
しかし、薙刀は両に刃のある武器。
弾き返したら弾き返したで、今度は反対側を使い、体をえぐろうとしてくる。
大きく一歩下がり、その攻撃をかわす。
里歌は薙刀を振るった勢いそのままくるりと体を回転させ、反対側の刃で襲いかかる。
竜は何とか手首を返し、この攻撃を抑える。
弾き返された勢いを殺さず、今度は反対側に回転する里歌。
下に向けた剣を、手首を回して今度は上に。
剣は何とか間に合い、攻撃は抑えた。
一瞬、目が合う。
青い瞳。
その奥にこもる敵意。
敵意と、そして、こちらの剣の動きを見据える、目の動き。
それしか見えない。
それ以外は、何も見えない。
「里歌っ!」
剣を薙刀に押し付けながら、竜が口を開く。
「どうして!」
手首に力をこめる。
ほとんど全力で押し付けているにもかかわらず、里歌は涼しい顔で、ただこれを押さえつけていた。
「お前がいなくなれば」
里歌が、とても里歌のものとは思えない口調で口を開く。
「龍神は、我一人になる!」
「何っ?」
一瞬、剣と薙刀が離れた。
里歌が力を抜いたのだ。
前に重心をかけていたせいで、前のめりになる竜。
里歌はそんな竜の横に動き、薙刀を振るう。
竜はとっさに体を丸め、かけた体重そのままに、前に転がる。
竜が先ほどまで立っていた場所に、薙刀が振り下ろされていた。
足のばねを利用し、転がりつつも立ち上がる、竜。
立ち上がり振り返ると、すぐ近くに里歌がいた。
振るわれる斬撃。
竜は頭を下げ、その、頭部を薙ぎ払おうとする攻撃をよける。
里歌は回り、今度は腹部を薙ぎ払おうとする、斬撃。
今度は剣を使えた。
金属同士がぶつかり合う音が響く。
火花が散る。
その火花を中心に、竜と里歌の目線が、
「っ!」
「!」
クロスした。
薙刀を構えなおし、今度は突き攻撃をしてくる里歌。
横に跳ね、それを避ける竜。
里歌はまたくるりと回転し、反対側の刃で竜を襲う。
竜は大きく後ろに飛びながら、これを避けた。
「ふっ」
小さく笑う里歌。
まるで、獲物を追い詰める狩人のように、にやりと。
竜は体制を整え、剣を構えなおす。
対峙したのはほんの一瞬。
それなのに、その一瞬がとても長く感じた。
地を蹴る里歌。
竜は体を傾け、縦一文字に振り下ろされた薙刀を避ける。
里歌は勢いそのままに、ぶんぶんと手のひらの中で薙刀を振り回す。
自分の体の右で回し、左で回し、頭上で回し。
そして、思い切り振り下ろした。
「ぐっ……」
振り下ろされた薙刀を、剣で抑える竜。
それは、里歌のものだとは思えないほどのすさまじい力がこもった攻撃だった。
手が痺れてくる。
竜は一瞬の隙を見て後方へ跳ね、何とかその攻撃から逃れる。
先ほどまで竜を追い詰めていた薙刀は、地面に深々と突き刺さった。
大きく跳ねる。
里歌と一定の距離を取って剣を構えると、里歌は静かに薙刀を地面から引き抜き、くるくると回し始める。
薙刀の回転を止め、まっすぐ腕を前に伸ばして、構える。
竜は距離を一定に保つよう、円を描くようにして里歌の周りを動く。
里歌も倣って、同じように動き始めた。
二人で、円を描くように距離を保つ。
向こうは余裕の表情、こちらは少しだけ、あせっているような表情。
仲間が、下で時間稼ぎをしている。
そのことが竜たちの頭から離れない。
時間稼ぎは無限にはできない。
時間がかかればかかるほど、それは、仲間の危険を意味する。
だから極力早く、黄龍を引っ張り出さないといけない。
それはわかっている。わかっているのに。
目の前に立つ人物が、里歌という存在が、それをさせない。
「なんで……」
竜が口を開いた。
静かに、それでも、里歌に届く声で。
「なんでなんだよ!」
今度は大声で、里歌に問いかける。
里歌は青い瞳を光らせて竜を見、一瞬だけ口元に笑みを浮かべた。
その言葉で、竜は一瞬の隙を作ってしまった。
そのタイミングを逃さず、里歌が駆ける。
竜は慌てて剣を構え、なんとか里歌の一撃を抑える。
里歌はにやりと笑った顔で竜を見、そのままとんでもない腕力で、押し込む。
竜は何とかその力を抑え込んで、里歌に対して睨み返す。
里歌は何食わぬ顔でその視線を受け流し、一瞬体を離し、大きく振りかぶって、思い切り薙刀を振り下ろした。
竜はとっさに構えをといて、大きく横に転がるように跳ぶ。
竜が立っていた地面に深々と薙刀が突き刺さる。
その衝撃ではねた土が、竜の顔にかかった。
そのまま大きく後退する。
里歌は静かに薙刀を引き抜き、両手でそれを構える。
竜は大きく息を吐いて、里歌の青い瞳を見た。
目の前にいる者。
それはきっと、自分の知っている人物ではない。
もしかしたら、それは知っている人物と同じ肉体を持っているかもしれないが、それでも。
里歌じゃ、ない。
竜はそう思って、彼女の後ろに見える、影を見る。
それが、倒すべき相手。
剣を握る指に力を込める。
里歌が走った。
竜は動くことなく、ただ、振るわれる薙刀に対して、剣を当てるだけ。
金属同士の反発しあう音が響き、里歌の顔が近づく。
腕に力を込める。
急に体重がかけられ、里歌の体は少し後方へ動いた。
その一瞬の隙を逃さない。
竜は体を低くし、思い切り相手の武器を押す。
里歌の腕が上がり、その、わずかに空いた隙間に体を滑り込ませる。
薙刀は、両刀。
下のほうに向いていた刃が動き、竜の体を持っていかんとする。
一瞬の動作。
竜は体をひねって、紙一重のところでその攻撃をよける。
前髪がわずかに持っていかれたが気にしない。
ただ、返した刃で薙刀を払い、そのまま、里歌の腹に向け、思い切り剣を振った。
「目ぇ覚ませ、この馬鹿!」
里歌の腹に、剣が入る。
押し込まれた勢いで、里歌の足が地を離れ、遥か後ろに飛ぶ。
薙刀を落とし、里歌はそのまま、地面に背中から落ちた。
琴音が駆ける。
竜は剣を振りかぶった姿勢のまま動かなかったが、琴音が里歌の近くにしゃがみこむと、思い出したように走り出した。
里歌の顔を覗き込む。
目は閉じている。
苦しそうにお腹を押さえながらも、里歌はそのまま、気を失っているみたいだった。
竜が手を伸ばして、ぺちぺちと里歌の顔を叩いてみる。
何度かそうしているうち、里歌が薄く目を開けた。
開けた途端、苦しそうにお腹を押さえる。
その、瞳。
瞳の色は、変わっていた。
「里歌さん!」
琴音が叫ぶ。
里歌はお腹を押さえたまま、静かに目を開いた。
「琴音……竜?」
薄く開いた目を動かして、二人の顔を交互に見つめる。
「あたし、どうして……」
そのまま視線をふらふらと漂わせながら、里歌は静かにつぶやく。
「そうだ、黄龍!」
立ち上がろうとして、また、腹を押さえる。
琴音が支えると、里歌は琴音に寄りかかるように体を預けて、二人に言った。
「黄龍に……奴に会ったの」
里歌は少しだけかすれた声で、そう言った。
「奴に会って、話してるうちに、急に視界が暗くなって……あたし、どうしてこんなところに?」
不安そうな顔で見上げる。
竜は里歌の肩に手を乗せて、小さく頷いた。
「大丈夫だ、お前は休んでろ」
そう言って、立ち上がる。
そして、振り返る。
まるで、そこにいることがわかっていたかのように、確信を持って、竜はそちらへ向いた。
山の頂に位置する場にある、一軒の建物の、入り口。
そこにいた。
その場に立っていた人物が誰か、なんて、改めて聞くような必要はない。
「貴様ぁ!」
竜が叫ぶ。
黄龍は小さく笑い、腕を組む。
「荒療治とはな、恐れ入った」
口を開く。
聞いたことのないはずのその声は、なぜだか、聞き覚えがあるような、そんな気がする。
竜は剣を構え、黄龍を見据える。
黄龍はただこちらをじっと見ているだけで、動きもしない。
視線を細め、にらみつけるかのように、ただ、じっと。
「龍神の血を引くものとして、もう少し働いてくれるかと思ったのだが」
しばらく睨み合い、やっと口を開いた黄龍は、そんなことを言った。
「……どういうことだ」
少しだけ驚いたような表情で、竜が問う。
「言葉の通りだ」
その質問が来ることがわかっていたのか、黄龍はすぐさまその質問に答える。
「貴様も、その女も、互いに龍神の血を引くもの。貴様の方が龍神の力が色濃く出ていたと、ただそれだけの話だ」
淡々と、黄龍はそう語る。
「里歌も……龍神の血を引くだと?」
竜が一歩前に出て、そう言う。
黄龍にとってはそれも予想済みだったのか、静かに口元をゆがめて、笑った。
「その女と貴様は、遠い親戚ということになるな」
笑いながら、言う。
里歌は琴音に支えられながら立ち上がり、黄龍を睨みつける。
竜も剣を構えなおして、黄龍に向けた。
「そう怖い顔をするな」
黄龍は余裕の表情を浮かべ、わずかに顔を上げてその場にいる三人を見下ろす。
その視線はまるで、自分よりも下のものを見ているような、そんな視線。
「来い、龍神」
黄龍はそう言って、三人に背を向ける。
そのまま建物の中に入ってゆき、黄龍の姿は消えた。
竜は地を蹴って、黄龍を追う。
「龍神様!」
途中、名を呼ばれて立ち止まる。
振り返ると、琴音が心配そうな瞳で見つめてきた。
「罠です、むざむざ向こうの思い通りになど」
少しだけ早口に、そう言う。
見上げるような、そんな視線。
心配してくれている。
それが痛いほどよくわかる。
それでも、いや、それだからこそ、竜は首を横に振った。
「龍神様!」
琴音が叫ぶ。
琴音に支えられる里歌も、心配そうな表情で龍を見る。
竜は二人の顔を交互に見、そして、口を開いた。
「奴を倒せるのは俺だけだ」
『龍殺しの剣』を掲げる。
刃の根元から先まで視線を動かし、そして、二人の顔にまた視線を向ける。
「だから、ちょっと行って来る」
心配そうに見つめる、二人。
それでもその視線に対して力強い視線を向け、龍はそう口にし、二人に背を向ける。
正面には黄龍の館。
扉の中は黒い煙のようなもので覆われていて、様子はわからない。
そこに恐怖を感じるものもいるだろう。
そこに入るのに臆するものもいるだろう。
それでも、その雰囲気に対し、竜は剣を向ける。
真っ直ぐ、ただ、真っ直ぐに。
二人の心配そうな顔ももう見えない。
行かないで、と暗に言ってくる、琴音の顔も。
行っちゃだめ、と語りかけてくる、里歌の顔も。
だから、竜は歩き出せる。
二人の制止も、恐怖によってすくむ足も乗り越え、龍はその黒い闇の中に、吸い込まれるように入っていった。
「龍神様……」
心配そうな声をあげる琴音。
「竜……」
悲しそうな声をあげる里歌。
里歌はふと、自分の手を見た。
この、体の中を流れる、血液。
その中に、竜と同じ血が、龍神の血が流れている。
だとしたら、自分にもまだ、できることがあるのではないか。
そう思って、里歌は鋭い目線をその建物へと向けた。
煙の中に入ってみると、それは、先ほどまで見ていた館とは、明らかに違うであろう場所。
重苦しい、黒い空気。そして、冷たい空気。
見上げると、そこには下に砂がすべて落ちきっている、砂時計のようなもの。
見たことのある映像だった。
そして、正面。
こちらに背を向けた、颯爽とした立ち姿。
黄龍。
黄龍はこちらが来たのに気づいたのか、ゆっくりと振り返った。
その顔は、敵を見るような瞳ではなく、まるで、旧友でも迎えるかのような顔。
その顔が、とても癪に障った。
「黄龍!」
竜が叫び、剣を構える。
黄龍は何をするでもなく、ただ、真っ直ぐに竜を見る。
「お前は許せない。自ら神を語り、人に危害を与えるような存在……そんな奴は!」
構えたまま、黄龍にそう言う。
黄龍は大きく息を吐いて、目を細めた。
「勘違いしているようだな、龍神。我々はもうすでに、神そのものだ。我々はすでに完全な龍。人を超えた存在なのだよ」
静かにそう語る、黄龍。
「黙れよ! 人を超えた存在など!」
竜はそんな黄龍に対して、そう叫ぶ。
「我に言わせてもらえば、貴様の方が、人を超えた存在に変わりはないのだがな」
怒りに任せて物言う竜に対し、黄龍が小さく、そんなことを口にする。
「……どういう意味だ」
その言葉の真意が見えず、聞き返す竜。
黄龍は鼻を鳴らし、わずかに口元をゆがめる。
「貴様は元々、人によって捨てられた存在。森の奥で捨てられていた、小さな赤子。我は偶然、それを見つけたのみ」
その言葉を聞き、竜の腕がわずかに下がった。
構えていた剣も、わずかに下を向く。
「だが貴様は違った。我は、貴様を育てる気もなければ、助ける気もなかった。だが、龍の魂は、貴様に反応したのだよ!」
黄龍の顔が歪む。
怒り、憎しみ。
そんなものでは言い表せないような表情で、黄龍は竜を見た。
「我が手に入れた伝説の龍の肉体は貴様に吸い込まれ、貴様は他の連中と同様、龍となった! 我が手を下したわけでもない、貴様は唯一、龍に選ばれた者なのだよ!」
そんな表情で、黄龍は忌々しそうに叫ぶ。
「貴様は本物の神になる可能性があった。だから我は、貴様を神として育てながらも、貴様をできるだけ、中心にいさせないようにしたのだ。その場で、貴様が偶然いた場所で出会ったのが、琴という名の……人間の娘」
琴。
その名前に、聞き覚えがある。
琴音じゃない。
琴音とはまったく違う存在として、なぜか、そのイメージが存在した。
「我はチャンスだと思った。貴様を一度神という存在から引きずりおろし、そして待った。千年という、長い期間だ。貴様が一体どのような力を得、この場所に戻ってくるか……」
長い期間。
確かにそうだ。
千年などという期間は、人は生きてゆけない。
「この世界が一体何なのか、貴様は知るまい。この世界は、貴様たちの世界から切り取られたもう一つの別世界。貴様らの世界の歴史の中で何千年も前から切り離され、そしてそのまま、時間と共に隔離された世界なのだ!」
驚くことを言う。
「ど……どういうことだよっ!」
竜が問う。
それに対して、黄龍は静かに笑いながら答える。
「貴様らの歴史で千七百年程前か。我は伝説の龍の体を手に入れ、それを自らの体に取り込んだ。我は龍となり、そして、その時我は、世界の一部を切り離し、その世界の統治者になった。しかしこの世界は時空が不安定で、貴様らの世界と同じような時間軸に立つことが出来なかった。この世界は貴様らの世界と比べると、遥かに時間の進みが遅い」
突然そんなことを口にする。
その言葉、その理屈を上手く当てはめれば、この世界が昔の日本のようだ、という点も、納得できないことではなかった。
「そんな不安定な中で、貴様らの世界と我々の世界の中間点を貴様に見張らせていたのだが……見事に貴様はそれにはまってくれたようだ」
にやりと笑って、黄龍はこちらを見る。
「千年というときを経、龍神という存在を人として消滅させ、そして、龍神の力がどのように推移するのか……我はこの世界で、ずっと見ていた。貴様らの世界の千年はとても長いかもしれないが、こちらにとってはたいした時間ではない。貴様は人としての生涯を終え、子を為し、そして、『龍の命』を消していった」
そう言って、天井を指差す。
それは、先ほど見た砂時計。
完全に砂が舞い落ちてしまった、もう、時を刻まない砂時計。
「あれは龍神の命の砂。神でなくなったものは、その力を時間とともに失ってゆく。その力尽きたときこそ、龍神が真に神であるかどうかを試すためのとき! 千年という時間を経、貴様は現れた……龍神の子孫として!」
ぱりん、という音がして、砂時計が割れる。
落ちてくるはずの砂は落ちるどころか、そのまま宙を漂い、そして、まるで最初から何もなかったかのように、消えていった。
「あの女は想定外だったがな。まさか、龍神の力が、分割されているとは思わなかった」
里歌のこと。
やはり、里歌も龍神の力を継いでいる、ということか。
「龍神が……選ばれた神だと?」
「そうさ! 貴様は唯一、我々のように、望んでなったわけでない、選ばれた神! そなたの力がどの程度か、それは、我らでもわからなかった」
天井を指していた指が、こちらに向く。
「貴様の力はもはや風前の灯! だが、我が貴様に力を注ぐことで、おそらくは、どのような龍でもなし得なかった力を、貴様は手にすることとなる」
伸ばした指を返し、手のひらを上に向ける。
そこに、流れていた龍神の砂があるのだろうか。
「我と手を組もう、龍神。選ばれた神よ! 我らが手を組めば、世界はおろか、宇宙ですら手にすることができる!」
「何を!」
竜は剣を握る腕に、少しだけ力を強める。
「俺は神なんかじゃない! 誰が貴様なんかと手を組むものか」
剣を構える。
剣を向けた先にいる黄龍は、剣を持ち上げ、掲げるまでをじっと見、そして、鋭い瞳でこちらを見据える。
「……そうか」
黄龍は手を下ろし、さらに鋭い瞳で竜を見る。
一瞬その迫力で体がこわばったが、なんてことはない。
息を吐いて、剣を構えなおす。
「失望したぞ、龍神よ」
黄龍は扇を取り出し、それを口元に当てた。
「貴様など見つけなければよかったということだな。選ばれた神など……我らの世界には不要な存在。この場で消え去ってもらおう、龍神」
畳んだ扇を真っ直ぐこちらに向けて、そう言う黄龍。
「やってみろよ」
竜は剣を構えて、黄龍を見据える。
さっきにらみつけられた礼に、と、思い切り強い目線を向けて。
「行くぞ、『龍殺しの剣』!」
そう叫んで、竜は駆けだした。
迎え撃つ、黄龍。
最後の、戦いが、今。
均衡を破り、そして、始まった。
ただの一撃。
それが入れば、龍である黄龍は滅びる。
だから竜は、最初から全力で剣を振るう。
前に体重をかけ、一撃一撃に力を込め、上から右から左から、黄龍の体をえぐりとらんと、何度も何度も剣を振るう。
対して黄龍は余裕の表情。
たたんだままの扇を静かに振るい、竜が放つ一撃一撃を抑え、そして、受け流す。
しかし竜の全体重を乗せた斬撃に、黄龍の体は一撃につき一歩、後ろに下がる。
その度にまるで部屋の中心がずれてでもいるかのように、後ろにあったはずの壁が遠ざかる。
追い詰めても、いつまでも追い詰められない。
ただ、いちいち全力を注いで振り下ろすその攻撃に、竜の息が上がってきている。
黄龍はうっすらと笑いを浮かべるだけ。
目を細くして、竜の顔を静かに見据える。
呼吸も乱さずに、ただ、一心不乱に剣を振るう竜を見つめていた。
「所詮は人間、ということだな」
黄龍が口を開く。
竜は負けじとさらに体重をかけて攻撃を繰り返すが、それすらも黄龍の扇にはじき返され、決して黄龍の体に傷をつけることはなかった。
向こうは確実に、一歩ずつ後ろに下がっているのに、壁はいつまでも遠ざかり、追い詰めることもできない。
竜は一度思い切り扇に剣をぶつけ、その反発の力を利用して、大きく後ろに飛び跳ねた。
かなり黄龍を後ろに下げたような気もするが、自分が立っている場所は、まさに先ほど黄龍と話をしていた、その場所。
少し上に、割れた砂時計の残骸が残されていた。
「その程度か?」
笑うように、黄龍が言う。
その、余裕の表情が憎い。
全てを自分のものに出来ると本気で考えている、その、考えが憎い。
黄金の着物も、地に響くような低い声も。
竜には、その全てを憎く感じた。
「黄龍ぅっ!」
叫ぶ。
その叫びに黄龍は表情を変えることもなく、ただわずかに視線を下に動かすだけ。
それはまるで、自分よりも下位の生物を見下すような、そんな表情。
竜は剣を構えなおす。
たった一撃。それで、終わる。
どんなに抑えられようが、どんなにこちらが疲弊しようが、ただ、わずかでもいいから傷を与えることで、ドラゴンである黄龍は『滅びる』。
そう、一撃だ。
そのくらいなら、一瞬の隙が出来るチャンスを狙えば、倒せる。
竜は上がった息を整えるでもなく、地を蹴る。
目に映るのはその憎い顔。
竜の目には、それしか映っていない。
黄龍が笑う。
その笑い方が、ますます竜の感情に火をつける。
黄龍の手前で大きく飛び、全体重をかけて振り下ろす。
その攻撃を、手にした小さな扇で抑える黄龍。
剣と扇が反発しあい、竜の体は再び、後ろに飛ぶことを余儀なくされた。
構えなおす。
目の前にいるのに、すぐ近くにいるのに。
たった一撃。
それで終わるというのに。
その一撃が、与えられない。
竜は一度大きく息を吐いて、静かに黄龍を見据える。
相手は変わらない。
ただ、余裕の表情を浮かべるだけ。
「少しは力が増している可能性も考えていたのだが……」
その表情のまま、黄龍が口を開く。
「力すらない。どうやら龍神は、結局ただの人間に成り下がったようだ」
腕を下ろして、笑うように口元を歪めながら言う。
竜はそんな黄龍にただ強い視線を向け、相手がいつ動いてもいいように、足の幅を上手く調節する。
黄龍は動くことなく、ただじっとこちらを見据えている。
腕を下ろしたまま。
五、六歩で届くくらいの距離。
「神だとか人間だとか、そんなのくだらないってんだよ。ただ俺はあんたを倒す。それだけだ」
そう言い、剣を向ける。
『龍殺しの剣』。
相手がドラゴンであるのなら、ほんのわずかな傷でも、確実に相手を『殺す』剣。
「この剣なら、お前だって倒せる」
ただ、真っ直ぐ剣を向ける。
その先には、冷たい黄龍の視線。
剣を真っ直ぐ見据え、その奥にいる、竜を見ている、その、漆黒の闇。
対する竜は、目の奥に闇も、光も灯さない。
ただそこにあるのは、人の目。
モノを見、光を感じ、そして同じように、闇をも感じることのできる、人間の瞳。
そんな瞳が、目の前にいる『神』を見る。
「貴様は神にふさわしくない。存在する価値もない神など……この世から消えてなくなってもらう」
黄龍はただ不愉快そうに顔を歪める。
「価値、か」
笑いながら、目線をそらす黄龍。
「たかだか人間風情に、我の価値を決められるとでも?」
ぎろりと、こちらを向く。
その瞳の奥に感じるのは怒り。
今まで感じたこともないような威圧感が、体全体を電気のように駆け巡る。
「貴様に価値があるっていうのか! 他人を見下すことしかできない、支配することしか知らない貴様に!」
それでも負けじと、声を張り上げる竜。
「わからないね」
張り上げた声も、今までの言葉と比べるとつぶやくような小さな声にかき消される。
「我は神だ。人間の感情など、人間の存在など、そんなものはとっくの昔に忘れている」
飽き飽きとした、黄龍の声。
「見下す? 支配? 強いものが弱いものを支配し、弱いものが強いものに跪くのは自然の摂理であろう?」
さも当然とでも言うように、黄龍がそんなことを言う。
「我は神! 人を超えた存在、人を支配する存在だ!」
黄龍が身を乗り出すように言う。
「人間などという一つの固体では何もできないような貧弱な生物は、常に強者によって支配されなくてはいけないのだよ! 所詮人間など、自然界の中で少々賢かっただけの弱小生物にしか過ぎん! 一匹死のうが二匹死のうが、そんなことはどうでもいいではないか!」
黄龍が叫んだ。
いささか感情的に、まるで、たまっていたものを吐き出すかのように。
「貴様ぁ!」
その言葉に、竜も叫ぶ。
「人間など、所詮神に敵うことは不可能! 我は人間全ての命を統制し、管理しするもの! たかだか弱小生物の一匹が、我のような高貴な存在に対して何を血迷いごとを!」
「貴様だって人間だろうが!」
「我は神だ!」
竜が地を蹴った。
本当に一瞬の動作。
黄龍が身を乗り出して叫んでいる、その一瞬。
黄龍の体は、その、すれ違い際振るわれる剣を抑えるほどの余裕さえなかった。
ただ、竜の持つ剣に、体をえぐられる。
腰と肋骨の間、骨による守りのない部分に、竜の振るった『龍殺しの剣』が傷をつける。
着物を切り裂き、人の色をしている肌を切り裂き、その切り口から、明らかに人のものとは思えない、青い液体が流れ出る。
竜は静かに振り返った。
流れる液体を見る。
「神だと……」
構えを解き、静かに息を吐いてから、竜が口を開いた。
「神は人を守るものだ」
流れる青い液体は黄龍の着物を染め、色を変えてゆく。
「人を陥れる神など……そんなもの」
黄龍が、傷口に触れた。
流れる青い液体が、黄龍の手にまとわりつく。
その、青い色に変化した手のひらを、黄龍はじっと眺めた。
「必要ない」
剣先を上げて黄龍に向け、竜はそのように口にした。
途端に聞こえてくる、足音。
見ると、琴音と里歌が、駆けながら入ってきていた。
二人は黄龍の体に流れる液体を眺めて、足を止める。
そんな二人に、親指を立ててみせる竜。
それを見て、二人は頷いた。
琴音が黄龍を見据える。
黄龍は手のひらの青を見つめ、微動だにしない。
「終わりです、黄龍」
そんな黄龍に向かい、琴音が口を開く。
「龍であるあなたは、『龍殺しの剣』の力によって滅びる。あなたの負けだ」
そういって、にやりとした笑みを浮かべる。
竜は剣を下ろし、大きく息を吐いた。
これで、全てが終わった。
「……ふふ」
しかし、黄龍は笑う。
切り裂かれるはずの体はまだ生きていて、流れるはずの青い液体ももう、すでに流れていない。
黄龍は顔を上げ、琴音を、里歌を見、そして振り返り、竜を見た。
「言ったであろう?」
先ほどとなんら変わりのない、余裕の笑み。
「我は神。この世の全てを支配するものだ」
傷口から流れていたはずの青い液体が、完全に消えている。
「『龍殺しの剣』だかなんだか知らぬが、『その剣で斬られれば龍は滅びる』という摂理、そんなもの、我の一存で変えられるということに、どうして気づかぬのだ?」
青く染まっていたはずの着物が、元の色に戻る。
まるで、ただ衣服が破れていただけのように、まるでただそれだけのように。
明らかに、先ほどつけたはずの傷跡はなくなっていた。
「な……なんだと!」
竜が叫ぶ。
その叫びに黄龍はさも愉快そうに笑った。
笑いながら、竜に近づく。
竜は剣を向けるが、黄龍はゆっくり一歩ずつ、まるで剣が目に入っていないかのように歩く。
一歩近づけば剣が刺さるほどの距離に黄龍は立ち、剣先に軽く扇を当てた。
「残念だったな、人間」
そして、そう言った。
刹那、竜の体が動く。
剣を前へ動かし、黄龍の体に突き刺そうとする。
黄龍はその動きを読んでいたのか大きく横に動き、竜の突き出した剣は何もない空を斬る。
黄龍が動き、竜の横に立つ。
とっさに剣を横向きに振り払おうとするが、それよりも先に、黄龍が上げた手が背中に当たり、竜の体が浮いた。
「龍神様!」
「竜!」
二人が叫ぶ。
本当に、わずかに手が触れただけのような感じだったのに、竜の体は遥か高みまで体を浮かせ、そのまま地面に落ちる。
背中を地にぶつける衝撃で、竜の呼吸が一瞬止まる。
だが、同じ場所に停滞していたらやられると思って体に鞭打ち、何とかすぐに立ち上がった。
黄龍は動かない。
「……くそ、だったら」
ただ、竜は黄龍を見据え、忘れていた呼吸を再開し、剣を構え直す。
体は疲弊し、大きな衝撃を受け、もうボロボロになっているような気がする。
だが、この目の前の奴だけは、許せない。
竜はもう、そんな感情だけで動いていた。
「ぶった斬ってやる!」
飛ぶように、駆ける。
もう、構えだとか作戦だとかそういったことを考える余裕なんてなかった。
ただ、奴を斬り刻む。
その強い感情が竜を動かしている。
それしかない。
黄龍の一歩手前で、竜が跳ぶ。
あとは剣を振るだけで、黄龍の脳天から真っ二つに出来る、そんな状況下。
竜の動きが止まった。
空中で、剣を掲げ、そのままの姿勢で。
「あれは!」
琴音が叫ぶ。
それは、見たことのある光景。
黄龍の体が黒い光を放ち、竜はその光に飲まれて、身動きが取れなくなっている。
その光は、紛れもなく。
ドラゴンの、光。
竜は反発するかのように体が後ろに弾けた。
空中でなんとか体勢を立て直し、足を滑らせながら着地した後、もう一度剣を構え、黄龍に向かって走る。
思い切り、剣を黄龍が放つ闇に向かって振るが、叩き付けようが突こうが刺そうが、その黒い膜を剣が突き抜けることはなかった。
「竜! いったん下がって!」
里歌が叫ぶ。
しかし、その声も竜には聞こえない。
竜は何度も何度もその膜に対して剣を振るい、何度も何度も弾き返される。
もう何度腕を振ったかわからない、そんな時。
膜の内側から、何かが伸びてきた。
黒い、何か。
それを理解する前に、竜は体をわずかにそらす。
しかしその動作も一瞬遅く、鋭利なモノが、竜の肩からひじにかけてをえぐる。
「っ!」
竜は声にもならない声を上げ、後退する。
左腕の感覚がない。
腕丸ごとはなんとか持っていかれなかったが、その爪はかなり深く、竜の腕をえぐっていた。
それは紛れもなく、ドラゴンの腕だった。
黒い膜が弾け飛び、その中から、まるで、美すらも感じ取れるかのようなシルエットの、黄金のドラゴンが現れる。
その長い尾は幾重にも巻かれ、鋭利な爪はまっすぐ伸び、指先には、真っ赤な雫が滴り。
そして、その黄金の顔に宿る、目。
それすらも、黄龍の目と同じ色をしていた。
片手で剣を構えながら、その、ドラゴンの神秘的な姿を見据える竜。
「これが人を超えし存在、人を支配する存在の姿だ!」
黄龍が叫ぶと、先ほどまであったはずの壁が全て消し飛んだ。
まるで、違う場所にでもいるような感覚。
この広い空間は、それこそドラゴンが自由に空を舞えるだけの、それだけの大きさを持ち、そして、空へ舞い上がってゆく黄龍の姿は、それこそ、『神』そのもの。
「これが……神」
竜が高い天空を見据えながら、つぶやく。
後ろにいる二人も、何も口にしないまま、ただ、空に浮かぶその姿を見ていた。
「消えるがいい、所詮は我を裏切り、下等生物に成り下がったクズがぁ!」
空へ向かっていたはずの黄龍が向きを変え、竜に迫る。
振るわれる腕。
竜は右腕だけで剣を掲げて、長く、そして鋭利な爪を受ける。
だが、片手だけではその力には敵わない。
攻撃を受け、剣がぶれる。
その一瞬を、黄龍は逃さない。
剣がぶれ、その軌跡を正そうと、右手に力を入れた、その一瞬。
黄龍が体をひねってまわし、そして、長い尾で、竜の体を襲った。
「ぐっ!」
正面からのその衝撃で、右手が下がる。
その、瞬間。
もう一度振るわれた尾が竜の顔面に当たり、竜の体は大きく、後ろに跳ねた。
琴音の叫び声が聞こえる。
でも、それは耳に入らなかった。
腕の痛みもない。感覚すらない。
ただ、感じたのは負けた、ということ。
そして、終わったということ。
所詮、神の身には敵わない。
どんなに強い意思を持ってしても、どんなに強い感情を持ってしても、人間よりも遥か優れた生き物には、敵わない。
神には、敵わない。
完全に背中から、地面に落ちる。
二人が駆け寄る間も無く、黄龍が大きく体をそらした。
口元に集まる、真っ赤な何か。
それが収縮し一つの塊となって、そしてそれは、勢いよく竜に向かって、吐き出された。
「消えるがいい!」
炎が迫る。
琴音は動けない。
今駆けても、間に合わない。
それでも前に出ようとする琴音が、何かに引っ張られた。
ふと横を見ると、腰にかけてあったはずの護身刀を、里歌が握っていた。
「あたしにも龍神の血が流れてるなら……」
里歌はそれをためらいなく、自分の足に突き刺す。
歯を食いしばってその痛みに耐え、血で染まったその刀を、里歌は、投げた。
「あいつに届け!」
投げた刀は竜へ向かい、竜のすぐ近くに突き刺さる。
突き刺さった衝撃で血が跳ね、竜の顔にかかる。
熱い液体が頬に流れるのを感じながら、竜は空を見上げた。
目の前には火の玉。
もう、あと数秒。
数秒で終わる。
そう、思った。
神は人を守る存在だと思っていた。
神は人を支える存在だと思っていた。
それなのに、違った。
もしかしたら、自分は神だったかもしれないのに。
龍神としてこの世に君臨するかもしれなかったのに。
それなのにただ客観的に、そんなことを思っていた。
神は、守らない。
神は、支えない。
もし、自分が神なら。
守ったのに。
救ったのに。
目を閉じる。
そう。
もう、自分は神ではない。
あの時から。
雨の中抱きかかえられた、あの時から。
あの時も同じ。
自分の頬に、自分のものではない人のモノが、流れていた。
あの時も……
そして、あの時も。
月の綺麗な夜だった。
ここからは、月がよく見える。
でも、体を動かすことは出来なかった。
無理すれば、縁側に出られて、月も星も見られたかもしれない。
でも、動けなかった。
体が重い。
ちょっと動くだけで、息が上がる。
それは、今まで味わったことのない感情。
当然だ。
普通は、二度と味わうことはない。
だってそれは、もう、終わりということだったんだから。
手のひらに温もりを感じる。
ずっと、誰かが握ってくれている。
その温かな手のひらは、一つじゃない。
二つ、三つ……温かな、本当に温かな温もりが、手を握ってくれていた。
月を眺めるのをやめ、顔の向きを変える。
「龍神様?」
たちまち、悲しそうな声が聞こえた。
「なんだい……琴」
自分の声だとは思えないほど、かすれた声。
こちらに耳を向けないと、聞き取れないのではないだろうか。
そんな危惧は、必要なかった。
声が聞こえただけで、琴は静かな笑みを浮かべ、握る手の力を、わずかに強める。
力が入らなくて握り返すことは出来なかったけど、それでも、とても嬉しかった。
少し視線を下げると、同じように手を握ってくれている二人の子供。
……そうだ。
この子達は、自分の子供だ。
自分の愛した女性が産んでくれた、子供だ。
二人は涙を浮かべながら、何度も何度も、名前を呼ぶ。
「いいか、お前たち」
小さな声で、その子供たちに話しかける。
二人は涙を浮かべながら、何度も何度も、頷く。
「これからは……二人で母様を支えてやるんだぞ」
手を伸ばして、頭を撫でてやりたかった。
握ってくれている手のひらに、力を入れてやりたかった。
それが出来ないのが、とても辛かった。
「やだ、やだよ、父様が一緒じゃないとヤダ」
「お父様、お父様っ……」
二人の顔を涙が流れる。
拭ってやりたかった。
指を伸ばして、その、流れる涙を拭いてやりたかった。
それも出来なかった。
ただ、涙を流す子供たちと、琴。
何もしてやれないのが、悔しかった。
そこで思い出す。
自分が、忘れていたこと。
自分が、守ってきたこと。
自分が……決意したこと。
「琴」
愛する人の名前を呼ぶ。
ずっと支えてくれた、その人の名前を呼ぶ。
「何ですか、龍神様」
初めて会ったのは、まだ、琴が大人になりかけていた時期。
今ではもうすっかり大人の女性だ。
しっかりとした物腰と、物言い。
子供には時に優しく時に厳しく、そして、時には包み込むように。
今までこんなに近くで見たことのない、「母」の姿がそこにはあった。
「余は……」
言葉を紡ぐ。
静かに、小さく、それでも確実に、言葉を繋げる。
それは、人の言葉。
人間同士が、吠えるでもなく、動くでもなく、互いに意思を疎通できるように創ったもの。
それは紛れもなく、自分が人だという事実。
自分が人だということ。
それを思うと、嬉しかった。
「余は、守れただろうか?」
静かに紡いだその言葉に、琴は意外そうな顔をした。
「余は……琴を、子供たちを、この村を……守れただろうか?」
最後まで言うと、琴は小さく、しかし確かに、頷いた。
「はい」
笑顔を浮かべる。
ずっと見てきた笑顔。
ずっと好きだった笑顔。
ずっと、守りたいと思った、笑顔。
「私は……いえ、私たちは……龍神様のおかげで救われたのです」
琴は一度言葉を区切って、目元を拭い、言葉を続ける。
「龍神様がいなければ、村はなくなっていたかもしれません。あの時、龍神様がいてくれたから……私たちは救われたのです」
顔には満面の笑み。
ちょっと無理しているようにも見えるのが、辛い。
それでも優しく語りかけてくれるのが、嬉しい。
複雑な想いが、心が揺り動かす。
「そして、何よりも」
頷いて、感謝の意を示そうとしたら、まだ、言葉は続いていた。
「私は今、幸せです」
琴は涙を浮かべて微笑みながら、そう、言ってくれた。
「龍神様がいなければ……きっと私は、こんなに幸せにはなれなかった。龍神様が、龍神様がいてくださったおかげで、私は今……とても幸せです」
話すたび、琴の目から涙が流れる。
拭っても、拭っても、それはとめどなく流れ、琴の頬を濡らしてゆく。
「幸せ……です」
最後は涙を拭うこともなく、静かに近づきながら、そう言ってくれた。
琴の涙が、頬に落ちる。
温かい。
人の、温かさ。
そうだ。
(俺は、この時も)
人の温かさに、包まれていたんだ。
握ってくれる手と、頬に落ちた涙と。
そして何よりも、その、言葉。
満たされていた。
もう……それ以上ないくらいに。
「そうか」
横になっている龍神が言った。
「余は……琴を守ることが出来たんだな」
その表情はただ、満足そうで……まるで、今の自分と一致するようだった。
「はい」
琴が頷く。
涙を浮かべて、それでも笑顔で。
精一杯の笑顔を浮かべて。
龍神も、笑顔を浮かべた。
「……人になって、よかった」
その言葉で、琴の表情がわずかに変わる。
「我々は……何を守るべきか、ずっと、考えていたのだ」
龍神はただ、静かに言葉を続ける。
かすれた声で、小さな声で。
それでも、精一杯、最大限の言葉を。
「余は……琴を……皆を……守れたのだな」
「龍神様、記憶が……」
琴が口を開く。
龍神はそれに答えず、ただ、空に光り輝く月を見上げた。
「よかった」
月を見てから、もう一度、三人の方を向く。
二人の子供、男の子を見て、女の子を見て、そして最後に、琴を見て。
「本当に……よかった」
最後にそう言って、笑顔を浮かべた。
そのまま、ゆっくりと瞳が閉じられる。
それは、別れの言葉。
それは、別れの合図。
閉じた目はもう開くことなく、握った手のひらに、力がこもることもなく。
龍神は、人としての生涯を、終えた。
「……龍神様」
子供たちが、龍神を揺する。
それでも龍神は目を開かなくて、手を握り返すこともなくて。
「龍神……様ぁ」
いつかの雨の日のように、琴は泣いた。
それは、別れ。
それでも……わかっていた。
きっとそれは、一時の別れだと。
また、琴は龍神に会える。
あの子たちが大人になって、それからたくさんの時を過ごし、孫を抱き上げて。
そしていつか、琴は、龍神にまた会える。
龍神が守った琴。
龍神が守った子供たち。
琴はこれから、龍神の代わりにこの子たちを……守る。
そして、そんな琴を。
遠くから龍神は見守ってくれる。
もう人の身はないかもしれないが、それでも。
彼はこれからもきっと、守り続けるのだ。
見えていた光景が段々と遠くへ流れてゆく。
手のひらに残った、そして、胸の奥にあるわずかな温かさに竜は一瞬目を閉じた。心地良さが、竜の体を包む。
目を開くとそこは自分の見ていた景色ではなく、薄い緑の光で満ちた、不思議な空間に変わっていた。
でも不安はない。わかっているから。
竜が振り返る。竜の後ろには緑色の着物に身を包む、一人の青年が――龍神が立っていた。
「あんたは、わかったんだな」
龍神が、その言葉で竜の方へと顔を向ける。
「神だとか、人だとか、そういうことに関係なく」
目の前にいる青年は、ただ、静かに竜を見据える。
「何を守るべきなのか、わかったんだな」
その言葉に龍神は、静かに頷いた。
「我々は……」
口を開く。
その言葉はかすれてもいなく、心に直接響いてくるでもなく。
龍神の口から響き、そして、竜の耳へ入ってくる。
そこにいるのは、紛れもなく、一人の人間。
龍神という名の、神だった身の、人間の姿だ。
「我々は、守るべきだったんだと思う」
龍神は、少しだけうつむくように、そんなことを口にする。
「圧倒的な力、人にはない力。そんなものを持っている我々は……支配する側に回ってはいけなかったのだ」
周りは、緑色の光に包まれている。
もう、琴と子供たちの姿は見えない。
二人の空間。
龍神と、竜。
二人はただ、静かに向かい合っている。
「余は、守りたかった」
顔を上げる。
真っ直ぐに竜を見据え、今度は力強く、そう口にする。
「人を、村の者たちを。そして何よりも……余が愛した人を」
その目の奥に宿る光を見る。
黄龍の目の奥にあったのは、闇だ。しかし、龍神の目の奥にある光は違う。
きっとそれは、人の持つ、温かな感情の光だ。
「琴を」
竜は頷いた。
今の竜には、わかった。
自分も、龍神だから。
今なら全てがわかる。
かつて、自分は神だった。
神の身で、守護者となり、人に恋し、そして、人となった。
全てを忘れ、それでも大切な人が支えてくれたおかげで、生きることが出来た。
子供が、出来た。
たくさんの愛情を注ぎ、育てた。
そして……そのまま、最期まで龍神は、人だった。
「それが、あんたの願いだったんだな」
竜は言った。
真っ直ぐ見つめてくる、龍神に向けて、こちらも同じく、真っ直ぐな視線を向けて。
「守りたい。そんな、本当に小さな、それでも大きな願い。それが、あんたの願いだったんだな」
今度は龍神が、頷く。
今の龍神にはわかる。
人の、気持ち、想い。
人となってはじめて知った、人の感情。
それは、とても温かくて。
まるで、全てを包み込んでくれるかのような安心感があって。
これこそが、自分の守るべきものなのだ、と。
消えてしまった記憶の中で、唯一、残っていた、想い。
竜の、言う通り。
守りたい。
ただその一心で、龍神は、「人」として生きた。
それは、人が生きるための道。
それは、人が生きてきた道。
彼は神である以上に……人だった。
「そなたは?」
龍神が、そう訊ねた。
「そなたは、何を願う?」
「俺?」
竜が聞き返す。
龍神は笑みを浮かべて、頷いた。
竜はわずかに、天を見上げる。
緑色の光に包まれた空間に、天も、地も、切れ端もない。
それでも竜には見えた。
琴音、里歌、村の人たち、仲間や、友達。
たくさんの、たくさんの人の想い、願い。
竜は無意識に、握りしめた手に力を入れる。
最後に浮かんできたのは、黄龍の顔。
圧倒的な力で、全てを支配しようともくろんだ者。
人の命をゴミくず程度にしか考えてない、その存在。
自ら神を名乗った、その存在。
「俺は……」
竜は少しだけ目を細め、静かに口を開く。
「俺は、教えてあげたい」
静かに、しかし、力強く、竜は口にした。
「神は一つじゃない。神は一人じゃない。神は支配者でもない。俺たち人は……自らの手で変えないといけない」
少しずつ、大きくなってゆく、竜の言葉。
龍神はただ静かに、その言葉を聴く。
「神という存在は、そんなものじゃない。人を蔑み、人を陥れ、そんなことをする神は……消さないといけない」
少し下を向き、そして、また顔を上げ。
竜ははっきりとした口調で、続ける。
「教えてあげたい。神は、神という存在は……本当は、人を守ってくれる存在なんだって」
握りしめた拳、少し上がった肩。
竜はただ必死に、心の中にある言葉を搾り出す。
「雨を降らせ、人に糧を与え、人を守り、人を救う。それこそが、その存在こそが神だということを……教えてあげたい」
神。
人ではない、そのもの。
それでも、人が信じるべき神は。
人を守り、救い、そして、助ける。
それこそが、神。
人は、大切な人を守る。
神は、全ての人を守る。
たった、それだけの違い。
圧倒的な力も、奇跡的な力も。
全て、そのためのもの。
……龍神のように。
守るために。
「それが、そなたの願いか」
「ああ」
龍神の質問に、力強く頷く竜。
龍神は優しい笑顔を浮かべて、頷いた。
「そなたの想い、よくわかった」
龍神の体が、光を放ち始める。
黄龍たちとは違う、まるで、人々を温かく照らしつけてくれるような、そんな光。
「ならば、そなたの願い、叶えよう」
龍神の体が浮く。
光を放ち、静かに、ただ静かに、龍神の体が浮き上がってゆく。
龍神が目を閉じ、手を掲げた。
途端に光が全てを覆いつくし、緑の世界も、龍神の姿も、竜からは見えなくなる。
その眩しさの中でも、決して目元を手で覆ったりはしない。
ただ、光に包まれ、その光の中に飲み込まれていくように。
竜はその温かさの中に、身を委ねた。
「叶えてやろう……我が名は龍神」
心の奥深くから、聞こえてくる声。
それは、本当に神々しい言葉で、温かな言葉で、少しだけ懐かしいような、そんな感じもする。
「龍の名を持つ神」
光が世界を覆う。
光が竜を包む。
光の奥。
竜は手を握った。
手には、確かな感覚。
その手にしたものを真っ直ぐに、光の中、一点だけ見えてきた闇に向ける。
「人の身を持つ神!」
光が、弾ける。
体が浮き上がるような感覚。
竜は大きく息を吸い、手にした『龍殺しの剣』を、再度掲げた。
「何だとっ?」
突然現れた光に、火の玉は弾き飛ばされる。
黄龍も、里歌も、琴音も、何が起こったのかはわからなかった。
緑色の光が大きな球体を作り、宙に浮く。
その球体が内側から光を放ち、そして弾けたかと思うと、その中から、緑色の長い体が、雄叫びを上げて姿を現した。
それは、黄龍と同じ肉体。同じ形。
しかしその身は、まるで、ずっと広がる草原のような、温かな緑色。
長い体をくねらせ、空に舞い上がるその姿は、黄龍の姿と違い、本当に「神々しい」という表現がしっくりくるような、そんなものだった。
「そ……そんな馬鹿な」
黄龍が浮かべる、困惑の表情。
その、緑色の姿は紛れもなく。
「龍神……」
龍神の、真の姿。
「竜!」
里歌が叫ぶ。
その、龍神の頭の上。
『龍殺しの剣』を掲げ、颯爽と構える竜の姿があった。
「黄龍っ!」
竜が叫ぶ。
それに同調するかのように、龍神が大きな口を広げ、雄叫びを上げた。
「ば……馬鹿な、なぜ、なぜ、龍神が二人っ?」
黄龍が困惑したような声を出す。
里歌も、琴音も、何が起こったのか全くわかっていない様子で、ただ、天高く対峙する黄龍と龍神、そして、龍神の頭の上に立つ、竜を見ていた。
「言っておくが」
竜はにやりと笑って、黄龍を見る。
黄龍は身動きもせず、ただ、目を見開き、二人の『龍神』を見ていた。
「俺は、中山竜だ。龍神じゃない!」
『龍殺しの剣』を低めに構え、竜は先ほどまで黄龍が浮かべていたような余裕の表情で、そう言った。
「中山竜……だと?」
黄龍が笑う。
ただ、吐き出すだけの笑い。
目を見開き、軽く口を開け、小さな声を、ただ静かに絞り出す。
「ふざけるなぁ!」
今度は黄龍が叫んだ。
その叫びはまるで空気の振動のように震え、黄龍の立つ周囲に、大きな波を立てさせる。
里歌たちが耳を塞いだ。
竜もわずかにひるんだが、それでも、構えを解くことはない。
ただ龍神の頭の上で剣を構え、じっと、黄龍を見据える。
黄龍が動いた。
大きく息を吸い、黄龍の口の周りで、真っ赤な炎が形を作る。
黄龍が大きく背を反らせ、そして、その火の玉を吐き出すように、体を前に突き出す。
その衝撃で、火の玉は黄龍の口から離れ、竜たちに向かって飛んでゆく。
竜はその炎に向かって大きく剣を振るった。
『龍殺しの剣』。
その剣先が火の玉に当たり、方向が変わる。
遥か遠く、高い上空へと火の玉は飛んでいった。
「ば、馬鹿な」
黄龍がひるむ。
「なぜ、その剣が力をっ?」
竜はにやりと口元を吊り上げて、その疑問に答える。
「確か、神は摂理だとかを曲げれるんだったよな?」
その言葉に、黄龍ははっとし、視線を動かす。
視線の先。
緑色の龍と、目が合った。
「忘れたのか。龍神も、神だ!」
竜が叫び、龍神が吼えた。
黄龍はまるで信じられないものでも見たかのように目を開き、そして、その大きな龍の口を開く。
「おのれ、おのれぇ!」
黄龍が体を動かした。
竜は構え、龍神も身構える。
「おのれぇっ!」
先ほどと同じように体を反らし、勢いよく吐き出す火の玉。
龍神は天を華麗に泳ぎ、その攻撃を避ける。
続けざま吐き出される、新たな炎。
今度は竜が、その攻撃を弾き返した。
(どうする、竜)
龍神の言葉が、竜に届く。
竜は激しく動く龍神の体に左手でしがみつきながら、答えた。
「黄龍の上へ!」
龍神が頷く。
長い体を動かし、尾を揺らして、龍神は空を舞う。
それを追わんと黄龍が、同じように体を動かして空へ上がってゆく。
距離は近い。
火の玉攻撃が何度も龍神の体をかすめ、あるいは何度も弾き返される。
段々と黄龍との距離が近づいてゆき、火の玉攻撃を避け姿勢を崩した龍神の体に向かって、黄龍の爪が伸びた。
とっさに爪を合わせる、龍神。
剣と剣がぶつかった音とはまた違った、鋭利な音が上空から響いた。
今度は龍神が、腕を振るう。
黄龍は一度体を離して、それを避ける。
攻撃は空振りし、前衛姿勢になった龍神の体に、黄龍の爪が伸びた。
が、今度は。
竜の剣に、弾き返された。
「へへ」
弾き返し、一瞬ひるんだところに剣を振るう。
黄龍は尾を動かし、一瞬の動作で龍神から離れる。
『龍殺しの剣』の剣先が、黄龍の腕をわずかにかすめた。
かすめただけ。
傷にはなっていない。
「このぉ!」
黄龍が叫ぶ。
再度口に集められる、火の玉。
一撃目をかわし、二撃目を龍が弾き、そして、三撃目。
振りかぶり、火の玉に向かって平行に、剣を当てる竜。
火の玉は真っ直ぐ、黄龍に向かってはね返された。
「なにっ!」
黄龍が叫び、体を動かす。
ぎりぎりのところで、何とか火の玉を避けた。
だが、それまで。
その一瞬の隙が、命取り。
見上げると、すでに龍神は、黄龍の体の遥か上の場を陣取っていた。
見下ろす龍神の、頭の上。
竜が、飛び降りた。
「行くぞ、『龍殺しの剣』!」
大きく、上段に構える。
黄龍は動けない。
火の玉を避けたままの不安定な姿勢を直す間に、竜の剣が、黄龍を『殺す』。
「龍神!」
黄龍は火を吹く。
精一杯の抵抗。
最後の反抗。
竜が剣を振り下ろす。
『龍殺しの剣』は、その、最後に吹き出された炎さえも切り裂いて、黄龍に迫る。
「最後だ、黄龍!」
真っ二つになった炎の隙間から見える、その、黒い巨体。
「龍神っ!」
そして、黄龍から見える、その、人の姿。
さらにその人間の後ろ。
緑色の、ドラゴン。
「りゅぅぅうじぃぃん!」
大きく目を見開いて、叫ぶ黄龍。
竜は振り下ろした剣をそのまま、黄龍の顔、目と目のちょうど間に向かって、振り下ろした。
「りゅぅぅぅうじぃぃぃぃんっ!」
黄龍の頭から、『龍殺しの剣』が走る。
それは、顔を分割し、体を切り裂き、そして、長い尾を、黄龍の体から切り離した。
「っっっっっ!」
叫びにならない叫びが、辺りに轟く。
黄龍の体は完全に二分化され、上から順に、体がただれてゆく。
その体は赤く発光しだし、自らの体重を支えきれないまま崩れ、そして、そんな体に、いくつもの線が、包帯でも巻くかのように走る。
しかしそれは傷を覆うためのものでない。
それは、『龍を殺す』もの。
やがて、線が体を覆い、体が完全に真っ赤になったかと思うと。
黄龍の体は、自らを破裂させるように、内側から爆発した。
光が、満ちる。
黄金の光を、緑色の光が包み込む。
そんな光の中、竜は静かに空に浮かんでいた。
ゆっくりと目を開く。
目を開くと、そこに、緑の着物に身を包んだ、一人の青年。
龍神が、いた。
(わが名は龍神。そう、呼ばれていた)
龍神は頭に直接響くような声で、そう言った。
(我は神という立場を捨て、人として生きることを決めた。しかし、余はやはり、神という殻から抜け出すことは出来なかった。余は……目覚めてしまった)
少しだけ悲しそうに、そんなことを龍神は口にする。
(ある意味では黄龍の望んだ通りになってしまったのだな。余はまた神として目覚めた。目覚めてしまった)
龍神を支えた琴は、もういない。
それなのに龍神は、全ての記憶を告ぎ、全ての記憶を持ち、また、『龍神』として目覚めた。
千年という、長い時だ。
千年という長い時の中、ずっと龍神は、どこかにいた。
それが誰かに告がれ、またそれが誰に告がれ、そして……竜に宿った。
そんな長い時を経て、また龍神は、目覚めた。
『神』として。
(だからこそ、我は神になろうと思う)
龍神は顔を上げて、そう言った。
(琴が愛した世界を、そして竜、お前が望んだ世界を守る、神に)
突然話が振られて、竜は驚いた表情を浮かべた。
龍神は静かに頷き、言葉を続ける。
(お前は、神が人を守る存在だと言った。余はこれから、神として、人々を守る。守り続ける)
龍神は空を見上げる。
緑色の光が包んだその空は、とても温かくて、そして、優しい感じがした。
(琴の想いを。そして、お前たちの想いを。永遠に)
まるで、龍神が泣いているように見えた。
だから声をかけてやりたかった。
それでも、言葉は出てこなくて、ただ、じっと空を見つめている龍神のことを、見守るしか出来なかった。
やがて、龍神が視線を下げる。
その顔は泣いているようにも見えたが、涙は流れていなかった。
むしろ、龍神の顔には、温かな笑顔が宿っていた。
(この世界は余が守り続ける。安心して人々が暮らしてゆけるように、余は努力する)
龍神は笑顔を浮かべて、そう口にする。
竜は少し安心して、頷いた。
龍神も返すように頷いて、そして、体から光を放った。
龍神の体が光に包まれ、変化してゆく。
やがて人の姿が消え、そこには、緑色をしたドラゴン。
龍神の、真の姿。
(竜、『龍殺しの剣』を、天に掲げろ。そうすれば、元の世界への道は開かれる)
龍神は、長い体をくねらせ、天へと向かう。
その際に口にした言葉が、竜の心の中に響いた。
(さらばだ、余の血を告ぐ者たち)
そして最後に、真っ白な光を放ちながら、龍神はそう言った。
光の眩しさに目を細め、手をかざす。
光が広がり、そして、その光が弾けた、その時。
龍神の姿はなかった。
あるのは、いつも通りの、真っ青な空。
緑色の光も、天を覆う雲もなくなり、ただそこには、青空が広がる。
まるで、何もかもがなかったかのような、そんな感じがした。
でも、手の中には。
確かに、『龍殺しの剣』が握られていた。
「龍神様!」
琴音が叫ぶ。
竜は緑色の光に包まれ、ゆっくりと降りてきた。
光が弾け、最後に両足をしっかり使って、地面に降り立つ竜。
振り返り、静かに二人を見つめる。
「……終わったぞ、琴音」
そして、笑顔を浮かべて、そう口にした。
「龍神様!」
琴音が駆け寄る。
里歌も竜の元へ走り寄った。
「待てよ、龍神は……」
後ろの、上の方を指差す。
二人はその場に立ち止まり、竜が指さす先を見た。
空へと舞い上がる、一匹のドラゴンが、大きな口を開けて、雄叫びをあげた。
緑色の体。温かな光。
龍神。
かつて千年前存在していた龍神の姿が、そこにはあった。
「龍神……様?」
空に浮かぶその姿を見、どうしたらいいかわからないような表情を浮かべる琴音。
そんな琴音に、静かに龍神は頷いた。
「……終わったな、全部」
竜がそう口にした。
三人でじっと、龍神が舞い上がっていった空を見つめる。
しばらく、ただ、空から降る光に包まれながら、そうしていた。
建物があった場所から降りると、すでに戦闘は終わっていた。
操られていたものは正気を取り戻し、疑問符を浮かべて状況を理解しようとしている。
皆が疲れ果てたかのように座り込み休んでいたが、琴音たちの姿を見るなり立ち上がり、そして、琴音が頷くと、ある者は歓喜の声を上げ、ある者は静かに座り込んだ。
「ところで竜」
そんな光景を眺めていると、里歌が口を開いた。
目を向ける。
里歌こちらの腕の付近を覗き込んでいた。
「黄龍にやられた腕、大丈夫なの?」
聞いてから、思い出す。
そういえば、黄龍に左腕を切り裂かれたんだっけ。
慌てて左腕を見てみると、そこは確かに、着物が破れ、肌が露出しているのだが、そこには傷ひとつ存在せず、痛みだとか痺れだとかも全くなかった。
「あれ?」
左腕を振り回してみても、普通に動く。
いつの間にか治っていたわけはない。
だったら、どういうことか。
「……龍神か」
思いついて、口にする。
そこでもう一つ思い出したことがあって、竜は里歌を見る。
里歌はわかっていたかのように頷いて、自分の足元を指さした。
琴音の護身刀で切りつけたはずの、太もも。
そこは着物が破れているだけで、傷一つない。
真っ白な、いかにも健康的な足が、小さく顔を出していた。
「痛くなかったから、ちょっと見てみたら、いつの間にかこうなってたんだ」
はりのありそうな肌。
筋肉質というわけでもなく、運動不足というわけでもなく。
すらっとしたしまった足が、ちょうどいい具合に見える。
下から覗き込めば、足の付け根あたりまでも見えてしまいそうな、わずかな露出。
「いつまで見てんの」
軽く肩を叩かれ、竜の視線が変わる。
見ると、里歌が汚らわしいものを見るような視線でこちらを見ていた。
目が合うと里歌は「ふん」と声を出してからそっぽを向いた。竜は少し気まずくなり、咳払いをする。
「その、ありがとな」
竜がそう言うと、里歌はゆっくりとした動作でこちらを向いた。
「里歌のおかげだ。里歌のおかげで、思い出した」
頬を指でなぞりながら、言葉を続ける。
「人の温かさとか、想いとか。龍神が忘れていたこと、思い出した」
不機嫌そうな表情だった里歌も、その言葉で少しだけ笑みを浮かべる。
「あたしの血で?」
「そ、里歌の血で」
竜は笑いながら、答える。
里歌はあきれたかというように息を吐いて、真っ直ぐ前を向く。
「里歌のおかげだよ。勝てたの」
そう言うと、里歌も、わずかに口元を緩める。
まんざら不満でもないらしい。
とにかく竜は、自分一人の力でなく、たくさんの人の力で勝った。
時間稼ぎをしてくれた仲間。
剣を渡してくれて、最後まで手伝ってくれた琴音。
そして、龍神。
そんな仲間たちの中に自分がいることに、少しだけ、満足していたのかもしれない。
「なーんでコイビトでもない奴を命がけで守んなくちゃいけないのよ」
正面を向いたまま、そんなことを口にする里歌。
「いっそなってやろうか?」
そんな里歌に対して竜は、どの程度本気なのか、そんなことを口にする。
「アホ」
ひじで腹を殴られ、その提案は拒否された。
村へ戻ってきた。
そこは相変わらずひどい惨状だったが、琴音たちが戻ってくるのを見ると村の者たちは立ち上がり、大きな声を上げた。
たくさんの歓喜の声と、涙。
竜は英雄として、たくさんの人から感謝され、手を握られ、頭を下げられた。
里歌は少し離れた場所で、そんな様子を見ている。
竜は困ったような顔を里歌の方へ向けるが、里歌は軽く笑って手を振るだけ。
竜は大きく息を吐いて、その、村の人たちの歓迎を受けた。
それから宴が始まり、たくさんの豪華な食事や酒が並べられ、皆が杯を持ち、皆が一斉に声を上げ、すべての戦いの終わりと、新しい時代の始まりを祝った。
竜は慣れない酒に頭痛を訴え、しかも真っ赤になった里歌が何かと絡んでくるので何かと大変だった。
大声で笑いながら背中を叩いてくる里歌を何とか抑えながら、周りを見回す。
みんな、以前この村に来たときとは違った顔をしていた。
何もかもが終わり、何もかもが消えた。
皆の顔から緊張感はなくなり、本当に幸せそうな、本当に嬉しそうな顔で笑っていた。
それが何よりも、嬉しかった。
きっとそれは、龍神がもたらしたものだったけど。
それでもこの笑顔をもたらした要因の一つに自分がいるということが、竜は嬉しかった。
少しだけ動かした、視線の先。
琴音が少しだけ、沈んだ顔をしていたのが気になった。
そんな宴が終わり、たくさんの人々から感謝の言葉を聞き、歓迎を受け、いつの間にか日付が変わり、そして。
「やはり、行ってしまわれるのですね」
竜は、琴音の寂しそうな声を背中で聞いた。
何も言わずに、ただ頷く。
今の竜には、それしかできなかった。
「俺たちには俺たちの生活があるからさ」
出来るだけ笑顔で、そんなことを言う。
振り返ってみると琴音は本当に寂しそうな顔で、こちらを見上げている。
なんだか、悪いことをしているような気分だ。
「大丈夫よ」
そんな琴音に、里歌が言う。
「今この世界は龍神が支配してるんだから。きっと、また会えるわよ」
笑顔で、そう言う。
それでも琴音は頷くことも声を出すこともなく、ただ、じっと竜を見ていた。
「あーと、そうだよ、里歌の言うとおりだ」
頬を指で掻きながら、そんなことを口にする竜。
「結ばれる運命にあるんだろ、俺と琴音は」
軽く笑って、そう言う。
「だったら、また会えるよ。必ず」
最後にそう言うと、琴音もわずかに、笑顔を浮かべてくれた。
「まあ、予言にあった龍神って言うのが、本当に俺なのかという疑問はあるわけだけども」
今となっては、この世界にいる『龍神』はあの『龍神』だ。
しかし、その問いに対して琴音は、静かに首を横に振る。
「私にとっての龍神様は、あなたのことです。予言の通り、『龍殺しの剣』を手に、世界を救ってくれました」
竜の手を取る。
その手はとても温かくて、まるで、体全体で包まれているような、そんな感じもする。
「私の運命の人は、あなたです。龍神様」
目元に涙を浮かべて、見上げられる。
その視線と仕草の使い方は反則だ、と、竜は心の奥深くで思った。
「ああ、だから、また会える。必ず」
琴音の手を握り返して、竜はそう言った。
「会いにくるよ、きっと」
琴音も笑顔で、頷く。
急に体が引き寄せられたかと思うと、琴音の顔がいつの間にか竜の胸元にあって、強く、強く琴音の腕が、竜の背中に巻きついていた。
胸が当たる。
その魅惑的な感覚を忘れないよう心に刻み込み、竜は静かに、琴音から離れる。
琴音も少しだけ寂しそうに、後ろに下がった。
「竜」
里歌が名を呼ぶ。
竜は頷き、腰にかけてあるものに手を伸ばす。
しっかりと握りしめ、引き抜く。
銀色が、金属の擦れる音を放ちながら顔を出した。
『龍殺しの剣』。
たくさんのドラゴンを滅ぼし、そして、たくさんの人を守った剣。
この世界を、救った剣。
最後にその剣を、遥か高く掲げる。
たちまち剣先は緑色の光を、高い空へと解き放つ。
光は雲に当たり、そこからまた光が広がり、その中の光が一つ、竜たちの目の前に落ちる。
光はまるでガラスのような薄い板を作った。
その奥にあるのは、ただの緑色の光。
でも、その先にあるのは戻るべき自分達の世界だということが、竜たちにはわかった。
『龍殺しの剣』を鞘に納め、琴音に渡す。
琴音は無言のまま両手を伸ばし、それを預かった。
「元気で」
小さく言う。
「はい」
琴音も同じように、小さな声で返した。
そんな琴音に向かって、里歌が手を伸ばす。
琴音はためらいもなくその手を握り、里歌に向かって笑顔を向ける。
「里歌さんも、お元気で」
そして、そう言う。
「うん」
里歌も笑顔で、返す。
別れはそれだけ。
本当に短い、別れ。
竜と里歌は並んで、緑色の光の前に立つ。
そのまま足を一歩、二歩と動かし、光の中、その、薄っぺらな光の中に体を進める。
やがて光は二人を包み、全身を駆け巡る。
以前感じた浮遊感とは違う、温かなものに包まれる感覚を覚えながら、竜は振り返った。
泣きそうな顔でこちらを見ている琴音に、笑顔を向ける。
最後にはせめて、満面の笑みで。
共に戦った仲間であり、そして、自分を信じてくれた人でもある。
そんな琴音に向かって竜は、笑顔を向ける。
琴音も泣きそうな顔のまま、笑った。
その一瞬の笑顔を忘れない。
この世界で起きた出来事を、忘れない。
光が視界をも包み、体が浮かび上がるような感覚。
強い風の流れを感じる。
髪がなびいているのがわかる。
まるで、重力から解き放たれたような、そんな感じ。
スカイダイビングをすればこんな感じなんのだろうかと、そんな事を竜は思った。
やがてはっきりとしてくる、意識。
そして、重力の感覚。
体が真下に引っ張られるようなその感覚に、竜は静かに目を開ける。
ゆっくりと近づいてくる、硬いコンクリート。
足がふわりとそれに触れ、やがて、体を覆っていた風が全てなくなる。
はっきりとしてくる視界。
赤い夕焼け。
緑色のフェンス。
気が付けば、あの時と同じ、あの世界に行った時と同じ、学校の屋上に立っていた。
「……戻った」
横から声が聞こえて、竜はそちらを向く。
里歌が少しだけ不安げに辺りを見回していた。
やがて、目が合う。
何も言葉を交わさず、目線だけで、今まで起こったことが本当だったと確認する。
でも、それすらも本当は長い夢でも見ていたかのようで、まるで実感が湧かない、架空のものだったような気もする。
静かに息を吐く。
真っ赤な夕焼けを眺めながら、竜はゆっくりと口を開いた。
「今日、何日だ」
里歌も同じように夕日を眺める。
「さあ」
短く答える、里歌。
それでも、あの夕日はあの時と変わらない。
開け放たれた屋上のドア、太陽に被るように見えるフェンスの破れた部分、雲の形。
全てがあの時のまま、変わってない。
何日か、なんて聞くまでもなかった。
あの場所に、戻ってきたのだ。
里歌が静かに、笑みを浮かべる。
竜もそれにならって、静かに微笑んだ。
それが、全て。
何もかもが本当で、そして、何もかもが現実で。
それだけで、今の二人には十分だった。
「あたし、帰るね」
里歌がそう言って、歩き出す。
「竜は?」
すれ違いざまこちらを見て、そう聞いてくる。
「俺は……」
一瞬だけ言葉に詰まる。
目を閉じて、軽く息を吐く。
目を開けると、笑顔のまま里歌がこちらを向いていた。
里歌の後ろには、夕日に染まった山が見える。
今ならそこが何の山なのか、そして、そこで何があったのか、わかる。
「もう少しだけ、ここにいるよ」
その、向こうの山を眺めながら、竜はそう言った。
里歌はまるでその視界にあるものがなんなのかわかっているかのように、振り返りもしないまま笑って、頷いた。
「じゃ、またね」
そう言って、歩き出す。
「ああ」
竜もそんな里歌の背中に向かって、声をかけた。
振り返ることも、手を振ることもなく。
里歌が、視界から消える。
竜は山に向かって歩き、フェンスに手をかける。
すぐ近くにある、山の景色。
人の手が加えられていない自然なままの山の風景が、こんなにも近くにある。
足元にあるような固められたコンクリートではなく、遥か下に見える道路ではなく。
自然のまま。あの時のまま。
それはもしかしたら龍神がずっと守ってきたものなのかもしれない。
琴のため。
あるいはもしかしたら、自分のために。
そんな事を思って、高い空に視線を向ける。
雲の切れ端から、緑色の何かが見えたような気がした。
――気がしただけだ。そこには何もない。
ただ、それでも竜の近くには、きっと、龍神がいる。見守っている。
この山を、この町を、そして、この世界を。
きっとそれは、龍神も、この場所が好きだから。
目を閉じる。
遥か昔の記憶を巡る。
温かな思い出の日を。
心に残る出来事を。
それは、容易に思い出せた。
今なら何でも思い出せるような気がした。
千年という、長い時を。
龍神が生きた、その時を。
雨で外に出られず、子供たちは不満そうだった。
それでも琴が二人を膝に乗せて子守歌を歌うと、安心したように眠ってしまう。
天の雫が地面に降り注ぐ音を聞きながら、龍神は琴の膝の上で眠る我が子を見ていた。
「雨の日もいいものだな」
そう口にすると、琴がこちらを向く。
「雨の日は外にも出れず畑仕事も出来ず、やな事ずくめかと思っていたのだがな。こうしてゆっくりくつろげるのなら、雨の日も悪くない」
静かに団扇で二人の子に風を送りながら、龍神は言う。
「私は、雨の日が好きです」
そんな龍神に対して、琴が笑顔でそう言った。
「だって、龍神様に出会ったのが雨の日でしたから」
(そうだったな)
そう言ってやりたかったが、その時龍神が口にした言葉は「そうなのか」だった。
そうですよ、と琴が返し、外の様子を窺う。
もうそんなに強いわけではない。
きっと少ししたらやむだろう、雨。
雲の切れ間から、光が覗いていた。
「雨の日も、晴れた日も、星が舞い降りる夜も、私は大好きです」
一緒に外を眺めていたら、琴がそう言った。
「龍神様と過ごす毎日が、私にとってはかけがえのないもの」
にっこりと笑顔を向けて、琴が言葉を続ける。
「私は、この世界が好きです」
その笑顔は、とても美しいものだと素直に思えた。
優しさが、想いが、全てが詰まったその笑顔。今ならその笑顔の意味がわかる。
その時はただ、琴の笑顔を美しいと思っただけ。
でも今なら、その時琴が言った言葉、そして、その言葉の意味――それらの全てがわかる。
龍神は笑顔を向けて、また、外に視界を向ける。
いつの間にか日の光が、地面を照らしている。
雨ももうすぐやむだろう。
やんだ後には、温かな太陽が地面を照らす。
そうなるまで、ずっと、眺めていたいと思った。
この、温かな時間を――琴と、一緒に。
エピローグ
次の日の朝はすんなりと目が覚めて、学校に行くには余裕がありすぎるほどだった。
両親に驚かれたがそれは無視するとして、ゆっくりと朝食を平らげ、ゆっくりと顔を洗い、普段は読まない新聞なんかを広げながら、竜は時間を潰していた。
つけておいたテレビから流れるのは、占い。
念のためにと思ってチェックしてみると、どうも、今日はよくないことが起こるらしい。
どうせ占いなんて当たらないだろうと思いテレビを消して時計を見ると、学校に行くのにちょうどいい時間だった。
新聞を畳んで、立ち上がる。
外に出たら日の光が、真っ直ぐ竜を照らしてきた。
眩しさに目を細める。
一瞬立ち眩みを感じたが、なんてことはない。
日の光に慣れてきた目を何度か瞬きさせ、竜は歩き出した。
何も変わらない風景、コンクリートの道、電信柱。
先を行くサラリーマンらしきスーツ姿や、学生服。
景色が緑に染まっているわけでもないし、草原が広がっているわけでもない。
左の腰辺りに手をやっても、何かがぶらさがっているわけでもない。
そんな怪しげな行動をしている自分がおかしいと感じ、竜は静かに、息を吐いた。
「竜」
突然後ろから話しかけられ、竜は振り返る。
そこには学生服姿の里歌が、鞄を持って立っていた。
「里歌?」
「おはよ」
何も言わずに横にならぶ里歌。
なんで? という顔をしている竜に対して、
「あたしの家、こっちの方だって知らなかった?」
少しだけ首を傾けて、そう言った。
「そういや、里歌も古い地元の人間だもんな」
竜は歩きながら、そう口にする。
それに里歌は少しだけ驚いたような顔をしたが、すぐさま表情を戻して、
「うん」
嬉しそうに、そう頷いた。
しばらくは並んだまま、何も言葉を話すことなく歩く。
時折ちらちらと里歌の横顔を眺めたり、何かを口にしようかと思って息を吸ったりしたが、何も言葉は出て来ないし、里歌もこちらを見ない。
「どうしたの」
それでも気づいてはいたらしく、そんな事を聞いてきて、竜はなにを話すか迷いながらも、軽く息を吐いて、聞いた。
「神様って、いると思うか?」
里歌がこちらを向く。
何を言ってるんだ、というような視線でもなく、真剣に考えているような表情でもない。
ただ、無表情のままの顔をこちらに向けただけ。
「どうして?」
そしてそんな無表情のまま、逆に里歌は返してきた。
「どうしてと言われても」
思いつきで口にしたのだから、仕方ない。
気まずさをごまかすように頬を掻いたりしている竜を里歌は、ただ無表情で眺める。
が、何か思うことがあったのか突然表情を崩して笑い出し、
「そうだなあ」
なんて事を口にしながら、空を見上げる。
「いても、いいんじゃないかな」
そして、簡潔にそう答えた。
「竜は?」
そう言って、こちらを向く。
竜はあらかじめ答えを決めていたわけでもなく、明確な考えがあって質問を投げかけたわけでもない。
でも、答えは決まっていた。
「俺は……」
自然と口が動く。
「人とか、世界とか、そういうものをどこかから守っている奴がいて、それを神だって言うんなら、神という存在はいてもいいと思う。でも……もし、もし神という名で人を貶めたり、不幸にしたり、蔑んだり……そんなことをする神がいるというのなら、神なんていう存在自体が、必要のないものだと思う」
青い空を眺めながら、竜はそう口にした。
その空は、とても、青い。
昨日の夕焼けの色を忘れてしまうくらい、包まれた緑色の光を忘れてしまうくらいの、青い色。そして白い雲に、温かな太陽。
全てがそこにあるような気がした。
神も、伝説も、伝承も、全て。
「全ての神が、龍神みたいだったらいいのにね」
ずっと空を眺めている竜に向かって、里歌が口にする。
「お前だって龍神だろうが」
空を眺めたまま、竜は里歌に向かってそう言った。
「あんたもね」
里歌の笑い声が、身近に聞こえた。
そこにあるのは、小さな日常。
誰かが支配するでもなく、誰かが守るでもなく、ただ、静かに流れていく日常のひとコマ。
温かな空気、温かな空。
その先にあるのは、神か、あるいは別のものか。
今の二人にはわからない。
わからくても、この、遥か高い空の上には。
きっと、温かな緑色の光が満ちている。
そんな不思議なことを感じられた。
やがて見えてきた、校舎の門。
時計を見ると、ちょうどいい時間。
竜と里歌はどうするでもなく、二人並んで靴を取り変え、階段を登り、そして、二人で教室に入る。
窓際の席でミツルとコウスケが訝しげな目で見ていたが気にせず、竜は里歌に向かって一言二言言い、席につく。
里歌も手を上げてそれに答え、自分の席についた。
すぐさま、二人が寄ってくる。
「ナカやん、なんなんだ、どういうフラグが立った」
問い詰めるように聞いてくるミツル。
竜はさあね、と小さく答えて、二人の質問攻めを回避する。
「昨日の居残りでなんか起こりましたな! くー、どんなオイシイことがあったのやら!」
コウスケは大袈裟にそんなことを言ってくる。
「まあいいじゃないか」
そんな二人に向かって、両手の平を向けて、竜は言った。
「巨乳の巫女さんは攻略できなかったんだからさ」
二人がその言葉を聞いて固まる。
その目線の奥からは「何があったの」という波動が振りまかれていたが、竜は答えず、窓の外を眺めた。
「ほら、時間だぞ席につけー」
聞こえてきた担任の声に、クラス中が反応する。
「休み時間に詳細を求めるであります!」
ミツルとコウスケはそんな事を言って、席に戻った。
なんとも平穏な日常。
剣を持つこともなく、ドラゴンが出るわけでもなく。
これから過ごす日々は、本当に穏やかな、何もない日々。
まあ試験だの学校祭だのいろいろとあるが、それでも。
何か劇的な事が起こるわけでもなく。
あの世界で過ごした何日かは確かに、いろいろと考えることもあったけど。
それでもこれから始まるのは、今まで通りの、いたって平凡な日常。
窓の外から見える、あの山の景色は今日も変わらず。
クラスの感じもクラスメイトも、何も変わらず。
そんな日々の中を、竜は、里歌は、ただ過ごしてゆく。
何も変わらない日常。
何も変わらない毎日。
そんな日々を、過ごしてゆく。
「よし、じゃあ転校生を紹介するぞ」
聞きなれない担任の言葉に竜は反応し、前を向こうとした。
「あーっ!」
が、突然どこからか叫び声が上がり、竜は黒板よりも先に、そちらに目を向ける。
里歌が立ち上がり、前を指さしている。
何をやっているんだあいつはと思い、竜は前を見てみると、
「あ、あーっ!」
思わず竜も立ち上がってしまった。
突然のクラスメイトの奇怪な行動にクラスメイトの半分が反応する。
残りの半分――うちほとんどが男子は、そんな奇怪な行動を気にすることもなく、ただ、黒板に書かれる一文字一文字に注目を集めていた。
奇妙な行動を起こす人間が二人もいるくせ、黒板の文字は止まらない。
まるで筆を使って書いているかのような達者な字で、転校生は黒板に四つの字を書いた。
『神山 琴音』
転校生が振り返る。
真っ白で、すらりと長い足。
細長い腕と、綺麗な指先。
まるで絹のような、長い髪。
そして、何よりも――制服を大きく膨らませた、その胸元。
男子のほとんどが胸元を見つめている中で、転校生は奇怪な行動をする二人を意に介さず、ただ、にこにこと笑顔を振りまいて、
「神山琴音(かみやまことね)と申します。皆さん、よろしくお願いします」
そう言って、深々と頭を下げた。
たちまち起こる歓声。
男子がノートやらなんやらを宙に舞わせて、各自勝手に名を名乗ったりしている。
琴音は口元に手をやってくすくすと笑い、また、その仕草が一部男子の心を射止めたのか、ますます高い歓声が湧き上がる。
そんな、騒ぎの中。
琴音が、立ち上がって前を指さしたままの竜の方に向く。
目が合うと、琴音は嬉しそうに、にっこりと笑顔を浮かべた。
「………………」
竜は何も言えない。
ただ、あんぐりと口を開けたまま、笑顔を浮かべる琴音を見ていた。
変わらないはずだった日常。
そんな日常が、これからも続いてゆく。
温かな光の中で、続いてゆく。
THE END
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