龍神物語 其の三

 龍神物語 其の三  




(龍神よ)

 聞きなれた声が聞こえる。

 その声の主が姿を現し、龍神の正面に姿を現す。

(そなたが……人間に恋をしているだと?)

 あきれたように、言う。

「……そうだ」

 迷うことはなかった。

 龍神はただ、それだけを言った。

(……龍神よ、そなたはどうしたいのだ)

 その声が、そう言った。

 その姿はただ、真っ直ぐに龍神を見ている。

 試されている。

 そう感じた。

「……何も」

 少し間を置いて、龍神はそう言った。



「余はただ、琴と共にいたいだけだ」



 一瞬の沈黙。そして、先ほどと比べ多少低い声が響く。

(それが望みか?)

 望み。

 人になること。

 神でなくなること。

 それが、望み。

 そうすれば、琴と共にいることができる。

 だが、それは自分だけの望みではないのか?

 琴は果たして、それを望んでいるのだろうか。

(どうなのだ)

 声が、そのように急かしてくる。

 考えれば考えるほど深みにはまり、すぐさま答えは出そうになかった。

「少しだけ、時間がほしい」

 龍神は、考えた末、そう言った。

(よかろう)

 目の前の者は、ただそれだけを言い、頷いた。

(ただし、答えは早急に出すのだ)

 向こうが提示してきた条件に、龍神は頷く。

 ただ、確かめたかった。

 そのためには、少し時間が必要だと思った。

 ほんの少しだけ。

 そうすればきっと、自分の望んだ答えが出る。そう思った。

 だから、龍神は、もう一度。

 人の姿となり、琴を待った。




 ある日の、夕刻。

 空は真っ黒い雲で覆い尽くされていた。

 風はない。ただ、静かだった。

 地を蹴る音が、はっきりと聞こえるほど。

 少し駆け足で、こちらに向かってくる。

 木の隙間から顔を出して、いつも通り、琴は笑顔で龍神の前に現れた。

「龍神様」

 琴が龍神に声をかける。

 木に寄りかかるように座っていた龍神が顔を上げると、そこにはにっこりと笑顔を浮かべた琴がいた。

 そんな眩しい笑顔を向けられていることが、正直、嬉しかった。

「どうしましたか?」

 軽く笑った龍神に向かって、琴が訊ねる。

「いや、何でもない」

 龍神はわずかに視線を逸らしながら、言った。

 琴が龍神の隣に腰かける。

 ふわりと吹いた風からは、なにやらいい香りがした。



 しばらく沈黙が流れる。

 音はない。

 風も吹かず、虫も鳴かず、鳥も鳴かず。

 ただ、黙ってじっとこちらを見ている一つの視線だけがある。

 何を話そうか、何を話したらいいかを心の中で考えているのが、わかる。

 だからこそ、言わなくてはいけない。

 琴が口を開くよりも先に、言わなくてはいけない。

 そう思っていても、なかなか言葉が出てこない。

 なんと言えばいいのか、どういえばいいのか。

 焦りと恥ずかしさで、龍神は琴の方を向くことができなかった。

「龍神様?」

 琴の声が聞こえてくる。

「どうなさいましたか?」

 優しい瞳。

 見られているだけで包み込まれるような、そんな感じ。

「いや、なんでもない……」

 そのように、小さく答えた。

 それから、また沈黙が訪れ、ただ二人で、真っ黒な雲に覆われる空を眺める。

 雨が降りそうだった。

「琴」

 少しの間を置いて、龍神が声をあげる。

「はい、なんですか?」

 琴は丁寧に言葉を返す。

 龍神はわずかに目を細めて、琴のことを見つめる。

 琴も、ただ真っ直ぐに、龍神の顔を見つめ返してきた。

「余は……琴と共にいたいと思っている」

 その言葉に、琴は驚いたような表情を見せた。

 しかし、すぐに琴は表情を戻し、

「私もです」

 そのように、言った。

「それは、本当か?」

 今度は、龍神が聞き返す。

「本当です。私は……琴は、龍神様と共にいたいと心より思っております」

 その言葉を口にしたとき、琴の顔にまた、朱色が混ざる。

 龍神はそんな琴の頬に、掌を伸ばす。

 暖かかった。

 琴も、龍神の手のひらに自分の手のひらをかぶせる。

 二人の手が、初めて繋がった。

 少しだけ、二人、そうして見つめ合っていた。

 しかし、龍神には。

 言わなくてはいけないことがあった。

「いいか琴、よく聞いてくれ」

 龍神の表情が、わずかに険しくなる。その表情から何かを察したのか、琴も少し、不安そうな表情を見せた。

「余がこれ以上そなたと共にいることは……できない」





 千年の後 其の三


 


 まず目覚めた時に感じたのは、顔の違和感。

 何かが潰れたような、何かに潰されたような感じが、なぜか顔面上に走っていた。

 そして次に感じた違和感は、『目覚めた』こと。

 正直、目覚めた気がしなかった。

 なんというか、そう、むしろ『気がついた』という表現の方が正しいような。

 そこまで考えて、思い出してしまった。

 むくりと、勢いよく体を起こす。

 顔に痛みが走った。

 竜は少しだけ顔をしかめる。

 痛みはほんの少しの間だけで、すぐに治まったのだが。

(……イタイ)

 精神的なダメージが、非常に大きかった。

 布団に倒れこんで、天井を見上げる。

 そこに見覚えはない。

 明らかに自分の部屋とは違う、そのつくり。

 起きたら元の世界に戻っていた、とかそういうことはなく、竜はいまだにこのよくわからない世界に留まっているようだ。

 ころん、と、体を横に倒してみる。

 畳と、襖。

 それが目に入って、ああ、まだこの場所にいるんだなあ、ということを再確認しようと思った矢先。

 女性の寝顔が目に入った。



「う、うわっ!」

 思わず、部屋の隅まで後ずさる。

 軽く頭を壁にぶつけて、少しだけ大きな音が響く。

 その音で、琴音は目が覚めたようだ。

「っ……ん……」

 ゆっくりと目を開いて、琴音は静かに体を起こす。

 その仕草がどうも官能的で、思わず竜は見入ってしまった。

 琴音の目がパッチリと開き、竜の目線とクロスする。

 琴音は一気に目が覚めたようで、大きく目を開いて、立ち上がった。

「龍神様!」

 言って、ずしずしと近づいてくる琴音。

 その迫力に竜も思わず後ろへと下がろうとする。

 だがすぐ後ろは壁で、それ以上は下がることが出来なかった。

「お気づきになられましたか、龍神様!」

 目の前で膝を付き、竜の顔に指を走らせる琴音。

 そのわずかに触れるような指先に、竜はちょっとしたくすぐったさを感じる。

「よかった、お顔は何ともないようです」

 安堵した息を吐き、琴音はそう言った。

「痛くはありませんか?」

 首を傾け、覗き込むようにしてくる琴音が目の前にいる。

 竜は顔の温度が上昇するような気がした。

「い、いや、大丈夫、大丈夫だからその……琴音っ」

 少々慌てた感じで、竜が言う。

 琴音は少しだけ首を傾げながら、軽く身を寄せる。

「あの……む、む、む、む、胸が……」

 竜の目線の先。

 今にも衣服から飛び出してきそうな、大きな琴音の胸が膝に押し付けられている。

「あ……」

 琴音も気づかなかったのか、わずかに体を離し、少しだけ顔を赤くした。

 竜はやっと落ち着いた、と思い、軽く息を吐く。

 朝から、寿命が縮まりそうだ。

「……いい、ですよ」

 そう思った矢先、琴音がそんなことを口にした。

「はい?」

 意図がわからず竜は聞き返す。

 琴音は、着物に手をかけていた。

「龍神様が望むのであれば、私は構わないです」

 言って、するり、と音がした。

 肩から着物が落ち、それは、重力に従ってそのまま……

「ストーップ! ダメ、そんなのダメ、フラグ立つのが早すぎるっ!」

 竜が思わず大声を上げ、落ちかけた琴音の着物を掴んで、強引に肩まで引き上げた。

 真っ赤な顔で、自分でもよくわからないような事を口にして、言い聞かせる。

 琴音はその勢いに気圧され、きょとんとしていた。

「とにかくそういうことはまだ早すぎる! それに、俺は竜! 確かに龍神の血を継ぐ者かもしれないけど、勘違いだってことだってあるかもしれないんだから早まるなーっ!」

 最後はもう勢いで、口にする。

「そんなことありません!」

 気圧されていたとはいえ、さすがに琴音も最後の言葉には反論する。

「あなたは龍神様の血を継ぐ者で、この世界を救う事のできる唯一のお方です! それに間違いはありません!」

 今度は琴音の勢いに押される。

「いや、それはそうかもしれないけど……」

 勢いに押され、そのまま迫られる、竜。

 眼前には、琴音の顔があった。

「龍神様は」

 少しだけ小さな声で、琴音が言う。

 心なしか、頬が赤くなっているように見えた。

「私が、待っていたお方です……」

 囁くような、小さな声。

 そのような言い方が耳に入るたびに、心臓が大きく鼓動を上げる。

 目が閉じられる。

 それでもう終わり。

 ただ眼前に琴音の恥ずかしそうな顔があって、もうそれ以外考えられない。

 心臓の音と顔の熱さと、そして、どうしたらいいのかわからない心。

 そんなものはもう、すでにどうでもよくなってしまう。

 ただ、目を閉じて。

 琴音が少しずつ近づいてくるのを、ただ、間近に感じる。

 それしか、出来なかった。




 スー、という音と、カン、といういい音が響いた。

 感じたのは唇に触れる柔らかな感覚でなく、脳天に突き刺さるような痛み。

「里歌さん!」

 琴音の声が響いた。

 里歌が、勢いよく襖を開けたらしい。

 そして、その襖のレール上にあったのは、竜の頭だ。

 竜は頭を抑えて、その場にうずくまる。

「朝っぱらから何やってんのよ!」

 不機嫌な声で、里歌がこの世のどこにもないような朝の挨拶をした。

「龍神様、大丈夫ですか?」

 心配そうに近づいてくる琴音がそう聞いてくる。

「ふん」

 里歌は不機嫌そうに鼻を鳴らし、ずかずかと歩いてゆく。

 琴音はそんな里歌を追いかけ、肩を掴んだ。

「里歌さんは、龍神様に何の恨みがあるのですかっ!」

 里歌が振り返る。

 不機嫌そうな顔は、そのまま。

「うるさい!」

 里歌が口を開く。

 なぜか、その言葉は琴音と言うよりかは、竜へと向けられているよう。

 現に、里歌は竜をじっとにらみつけている。

 そのまましばらく竜をにらみつけ、

「じゃあね」

 くるりと振り返って、そう言った。

 そしてずかずかと音を立て、その場から去る、里歌。

 残された二人は、なんともいえない空気に包まれ、どうにも出来ず、ただその場に留まっていた。

「なんなんだ、一体……」

 竜はため息混じりに、そんなことを口にした。




 その後食事をご馳走になり、まだ不機嫌そうな里歌と並び、また、琴音と話をする。

 自分たちが違う世界から来たことを話すと、琴音は興味津々、と言った感じで聞き入った。

「そのような場所があるというのですか」

 驚いた表情でそう聞いてくる。

 竜は頷いて、歴史的なことを話した。

 文化や環境から考えて、まるで、昔の日本のようだということ。

 その話は琴音には少々難解だったらしく何度か首を傾げていたが、それなりにわかってくれたようで、最後には「大体はわかりました」と言った。

 その後、今度はまた琴音の話を聞く。 

 基本的には昨日の話の通りなのだが、それに細かい解説が加えられ、ある程度この世界のことがわかってくる。

 ドラゴンとの戦いはもう百年近く続いていること。

 戦いの切り札である『龍殺しの剣』を、何とか守りつづけてきたこと。

 今まで戦ったドラゴンたちと、その特徴。

 それらを聞いて、竜はなんとも言えないような感覚に包まれる。

(すんげえ期待されてる気がする)

 時折琴音がじっとこちらを見つめる。

 長年守られてきた『龍殺しの剣』。戦いから百年ほど経ってやっと現れた、龍神の血を継ぐ者。

「うーむ……」

 腕を組んで、考え込む。

 少しの間、沈黙が流れた。

「とにかく、その黄龍って奴を倒せばいいのね」

 沈黙を破ったのは、里歌の言葉。

 里歌の方を向いてみると、なぜか、里歌の視線はこちらに向いていた。

「なんだい、その目線は」

 一応聞いてみる。

 琴音も竜の方を向いた。

 期待と不安と、いろいろなものが入り混じったその視線。

 なんとなく、次の言葉は予想することが出来た。

「彼らは『龍』なんでしょ? なら、『龍殺しの剣』の出番。だとして、それを使えるのは?」

「……俺だけです」

 素直に白状する竜。

 そう。これだけに間違いはないのだ。

 今この世界で、この剣を扱えるのは竜だけなのだ。

「それに、あたしたちを呼び寄せたのは黄龍って奴よ。きっと」

 里歌がずいっと身を乗り出して言う。

「黄龍に会えば、元の世界へ戻る方法もわかるよ」

 自信満々にそう言う。

 しかし、里歌の言うことも最もだ。

 竜も心のどこかで、自分たちをこの世界に呼び出したのは黄龍だと思っていた。

 しかし、もし黄龍と会うとしたら、それはすなわち、ドラゴンたちと戦うことを意味する。

 それが、どうなのか。

 正直、まだ、そこまでするための決意を固めるための材料が、少ない。

 そんなことを考えていると、突然、外から叫び声が聞こえた。

「敵襲だ!」

 琴音の表情が一瞬で鋭くなる。

 勢いよく立ち上がり、急いで襖を開ける。

「ここにいてください」

 去り際、首をこちらに向けて、琴音はそう言った。

 そのまま走り出す。

「竜!」

 里歌も立ち上がった。

 部屋の隅に置いてある、『龍殺しの剣』を指さす。

 少し遅れて、竜も立ち上がる。

 里歌が部屋から走って飛び出した。

 竜も『龍殺しの剣』を手に取り、急いで部屋を出る。

 もし、相手がドラゴンだとしたら。

 戦うのは、自分になるかもしれない。

 そう考えると少しだけ恐怖心が芽生えたが、それでも今は、走っていった琴音の背中を、竜は必死で追いかける。





 昨日戦った場所付近までやってくると、異様な光景が目に映った。

 相手は竜ではない。

 人だ。

 だが、様子がおかしい。

 ふらふらとこちらに向かって歩いて来るおそらく敵側の人間たちは皆、白目を向いている。

 ただ、一心不乱に武器を振り回す。

 まるで、正気を失っているようだ。

「なぜ来たのです!」

 琴音が後ろを向いてそう叫んだ。

「なんだ、あいつら?」

 琴音の隣に並び、そう訊ねる。

「操られているのでしょう。彼らは、普通の人間です」

 真っ白な瞳でこちらを向いた一人の男が、方向を変えてこちらに向かってくる。

「なら、斬っちゃいけないよな」

 『龍殺しの剣』を引き抜いて、そう言う。

「はい、出来るだけ、そのようにお願いします」

 背中の籠から矢を取り出しながら、琴音が答えた。

 竜は頷き、手のひらの中で柄を回転させる。

 真っ直ぐ向かってくる、ニンゲン。

 その動きを上手く見据えて、向こうが剣を振るよりも先に、竜はそのニンゲンの腹に剣をぶつける。

 くぐもった声があがった。

 見事な峰打ち。がっくりと膝を付き、そのまま気を失ったのか、地面にうつ伏せに倒れる。

 その感覚に、手応えを憶える。

 しっくり来る柄に、体の動きをしっかりと捉え、イメージ通りに動く剣先。

 この『龍殺しの剣』が、まさに自分のためにあるようなものに思えた。

 目線を少しだけ左に動かす。

 そこでは、里歌が、かなり大柄と対峙していた。

「里歌!」

 声を出す。

 里歌はただ、にやりとした笑いを浮かべ、男を見つめている。

 やがて、男が手にしている長槍を振り上げ、勢いよく振り下ろすのが見えた。

 危ないと思い里歌の方に駆けるが、里歌は笑った顔のまま、わずかに口を動かす。

 何を言ったのかはわからない。

 ただ、里歌は一瞬で左へと飛び、そのまま、槍先は地面を叩いた。

 とんだ勢いそのままに、里歌は体を回す。

 くるりと回転し左足を上げ、そのまま、左のかかとで男の腕を蹴る。

 その衝撃で、男の手から長槍が落ちた。

 着地した里歌は、素早い動作でその長槍を拾い上げる。

 拾い上げた長槍をそのまま振り上げ、槍先の反対側、ただの木の棒の部分で、思い切り男のわき腹を叩く。

 男の口から苦しげな声が漏れ、動きが止まった。

 その瞬間、里歌は槍を勢いよく振り回し、男の顎を思い切り打ち抜く。

 男はまるでクリーンヒットを綺麗に決められたボクサーのように、体を反転させながら地面に倒れた。

「ふふん」

 こちらを向いて、得意そうに里歌は笑う。

「……すごいな」 

 そう言うと、里歌は嬉しそうにウインクし、正面を向く。

 向かってくる人影は、まだある。

「ちょちょいと片付けちゃうわよ、竜!」

 里歌がくるくると長槍を回しながら、そう言った。

「おう」

 竜が頷く。 

 竜と里歌は身を低くして、こちらを向いている者たちに向かって疾走した。




 勝利条件は、攻め入ってきた者たちを村から追い出すこと。

 それがわかっている以上、琴音たちはとにかく、横一列に人を並べ、押し返すように戦う。

 先走って突っ込む人々を上手く弓で援護し、琴音たちはなんとか攻勢を維持することができていた。

「龍神様!」

 琴音の射った矢が、竜を後ろから斬ろうとしていた男の武器に当たる。

 矢がぶつかった衝撃で、武器は宙を舞う。

「サンキュー、琴音!」

 竜は回りながら、その男の腹に一撃、刀を入れた。

「どうだ、状況は?」

 倒れ込む男から離れ、戦況を聞く。

「大丈夫。戦況は優勢です」

 軽く笑って、そう答える琴音。

「よし」

 竜も頷き、剣を構える。

「このまま一気に行くぞ!」

「はい!」

 走り出す竜と、弓を構える琴音。少し後ろでは、里歌が槍を振るっている。

 竜の剣技、琴音の弓、そして、里歌の槍捌きによって、一人、また一人と地面に倒れ込み、段々と相手の数が少なくなってゆく。

 里歌も、戦況を感じ取り、敵を倒すまでもなく、打ち合いにすることで、敵をじりじりと交代させるような戦術を変える。

 この辺りに味方はあまりいないのだが、同じように敵もいない。

 上手い具合に追い返せば、この辺りの敵を一掃できると思った。

 しかし、そんなことを思って油断していたのか、大きく振った槍が近くの木に当たり、大きく跳ね返ってしまう。

 里歌はその跳ね返った衝撃を抑えるのに力を使い、一瞬の隙が出来てしまった。

 その隙を、相手は逃さない。

 刀を真っ直ぐ、腹部に突き刺すように伸ばしてくる。

 里歌は何とか体勢を立て直し、間一髪で横に跳ねることに成功する。

 そのまま体を一回転させ、相手の頭に柄をぶつける。

 勢いよく柄をぶつけられた男はその衝撃で体を回転させながら、地面に勢いよく倒れこんだ。

「あっぶな……」

 倒れた男を眺めながら、里歌がそんなことを口にする。

 服が少しだけ、切れている。

 そこから内側を確認して、皮膚は切れていないことを知り、大きく息を吐く。

 本当に、間一髪だった。

「素晴らしい動きだ。さすがといったところか」

 声が聞こえ、里歌はとっさに武器を構えた。

 声のするほうに向けられた槍の、その先。

 橙の着物に身を包んだ、一人の男。

 一見して、その男がいったい何なのか、わからなかった。

 敵か、味方か。

 敵にしろ味方にしろ、この戦場といってもいい状況の中、武器を何一つとして持っていない。

 里歌は武器を相手に向けたまま、一歩、後退する。

「あんた何?」

 にらみつけたまま、そう訊ねる。

「我か?」

 男は足を一歩だけ前に出した。

 里歌が構える。

 しっかりと相手を見据え、いつでも槍が届くように。

 と思っていたのだが、男が急に動き出したかと思うと、気づけば自分のすぐ後ろ、体と体が触れ合うくらいの位置に立っていた。

「えっ?」

 驚きつつも、槍を横に薙ぎ払う。

 男はそれを軽々と抑えて、里歌の耳元で小さく口を開いた。

「黄龍」

 その言葉を聞いた瞬間、体に衝撃が走った。

 何が起こったのか、そんなことを理解する暇もなく、ただ、里歌の体は膝から崩れていった。

「おそらく、今の君の『敵』だよ」

 薄れゆく意識の中で聞こえた、その言葉。

 目の前に立っている男が、倒れかけた体を支えているその男が、自分たちの倒すべき相手だと理解した時、すでに、里歌の目は閉じかけていた。





 戦闘がしばらく続き、完全に劣勢に追い込まれた相手側は、突然背を向けて、走り出した。

 何人かが追いかける。竜たちもその流れに乗って、男たちを追いかけた。

 追いかけ、集落の入り口付近まで追いつめる。

 そこで皆が、足を止めた。

「やあ、龍神」

 そこに立っていたのは二人の男。

 二人のうちの片方、赤い着物に身を包んだ男が、竜に向かってそう言う。

「………………」

 もう片方、黒の着物に身を包んだ方はただ腕を組み、こちらに対して横向きに立っている。

 ちらりと、こちらを一瞬窺うように目線を向け、小さく鼻で笑って、また目線を元に戻す。

 竜は静かに、剣に手を伸ばした。

「お前らも龍か」

 そう言うと、二人の視線が動いた。

 ふん、と小さく鼻を鳴らし、赤い着物の男が一歩前に出る。

「オレは赤龍、黄龍に仕えし龍、この世の神だ」

 胸に手を当て、首を反らしてそう自己紹介する。

「……同じく黒龍」

 ギロリと目線だけをこちらに向け、黒の方も名乗る。

 周りの者が一斉に武器を構えた。

「白龍を……やったな」

 その周りの雰囲気をもろともせず、赤龍は竜に向かってそう口にする。

「っ……」

 その見られているだけで体が強張る視線に耐え、なんとか竜は剣を構える。

「白龍はオレたちの兄弟と言ってもいい存在だ。それをやった奴を……許すわけにはいかないんでな」

 突き刺さるような視線でにらみつけたまま、赤龍はそう言った。

「いくら龍神殿とて、我が友を倒した罪は償ってもらう。ここで滅べ、龍神」

 隣に立っている黒龍が、続けて口を開いた。

「龍神様!」

 琴音が声を上げる。

 竜はチラリと琴音の方を伺い、小さく頷いた。

「へ……全く」

 赤龍がさも退屈そうに口にし、手を掲げた。

 すると、どこに隠れていたのか、先ほど逃げだした操られている者たちが突然姿を現し、おのおのの相手へと飛びかかる。

 琴音たちがそれに応戦する。

 応戦し、その数に少しだけ後退しているうち、竜との距離が開いてしまった。

 竜には、誰も向かっていかない。

 ただ、竜と、そして赤龍と黒龍の周りに誰も入ってこないように、操られている者たちは武器を振るった。

「さーて、と、どうすっかなー」

 そう言って赤龍は拳をこきこきと鳴らし、黒龍もやっと、真っ直ぐこちらを向く。

 竜は『龍殺しの剣』を真っ直ぐ構えて、静かに二人の姿を見据えた。

「とりあえずは勝負だ、龍神」

 赤龍がそう言って、足を一歩だけ前に出した。

 その一歩しか、竜には見えなかった。

 その一歩が地についた時、赤龍は体を前に傾け、疾走していた。

「っ!」

 竜がとっさに剣を構える。

 赤龍が猛スピードでこちらに向かって走り、そして、竜のすぐ近くで、大きく跳ねる。

「くっ!」

 剣を横薙ぎに振るう。

 それは赤龍の足を捕らえることなく、赤龍は大きく空へと舞い上がり、そこで、真っ赤な光を放ち始めた。

 とっさに身を引く。

 先ほどまで自分の体があった付近を、何か大きなものが通過した。

 真っ赤な体。

 鋭利な爪。

 それは、一本の腕。

 白龍とは逆。

 龍から人になった白龍とは逆の動き。

 人から、ドラゴンに。

 その予兆だと、竜はとっさに理解した。

 少しだけ顔を上げる。

 その場所に、真っ赤な龍が存在していた。

 その後ろには、真っ黒な光が満ちている。

 光がはじけたとき、そこには真っ赤な色をしたドラゴンが存在していた。

「おい、こりゃあ……」

 一応は剣を向け、二匹を見つめる。

 剣の長さと、精一杯腕を伸ばしても、触れることすらままならない高み。

 そんな高さから、まるで二匹の竜は笑っているかのように、鼻から白い息を吹いた。

「どうしろってんだよ、こんちくしょう」

 高みから見つめるそのドラゴンに向かって、竜は悔しそうに呟いた。

「ひゃはははは、まずはそこの雑魚どもを蹴散らしてやるぜぇ!」

 そう言って、火を吹く。

 操られている者たちに応戦している仲間たちが、その火から逃げる。

 本来であれば向こう側のはずの人間たちが、次々と炎に巻き込まれて燃えてゆく。

「てめえらぁ!」

 竜が叫ぶ。

 叫ぼうが喚こうが、今の竜の声は、その二匹の竜には届かなかった。




 戦闘は一方的だった。

 遥か上空に漂う、二匹のドラゴン。

 大きく口を開き、その口からそれぞれが体の色と同じ火の玉を吐く。

 それが木を焼き、家を焼き、大地を黒く変色させてゆく。

 大地を這いずる人の身に、為す術もなく。

 ただ炎に焼かれないよう、地を走ることしか出来なかった。

 遥か高みから、人の手の届かない場所から一方的に制裁を下す。

 それが、神。神である故の所業。

「違う! そんなの!」

 高みから見下してくる二匹のドラゴンに向かい、叫ぶ。

「そんなの神じゃない!」

 こちらに目を向ける、赤龍。

 黒龍も、少しだけ視線を動かした。

「人の手の届かない場所から、人にはどうしようもない力を使って、人を苦しめるなんて、そんなの!」

 目を大きく見開く。

 天に向かい、空に向かい、眼前の二匹のドラゴンに向かって叫ぶ。

「そんなの、神じゃない!」

「はんっ!」

 赤龍が笑う。

 長い体をくねらせ、竜の方へ体を向けた。

「てめえだって、神だろうがぁ!」

 口を開く。

 大きく息を吸い、体を反らす。

 口の周りにある空気が渦を巻き、空気の色が変わっていく。

 真っ赤に変色したその空気は、火の玉となった。

「龍神!」

 そのまま、大きく体を前に突き出す。

 衝撃で、火の玉が口から離れ、向かってきた。

「龍神様!」

 琴音の声が聞こえたが、竜は決してひるまない。

 剣を前に構え、真っ直ぐ火の玉に向かって走っていった。

「調子に乗るなよっ、こいつ!」

 火の玉に向かって、思い切り剣を振るう。

 『龍殺しの剣』はその火の玉を、見事に抑えていた。

「ぐっ……ううっ……」

 自分の体の数倍ほどある球体を、薄っぺらな剣一つで抑える。

 腕は震え、だんだんと力を入れている手が痺れてくるのがわかる。

 それでも、竜は引かない。

 真っ直ぐに剣を立て、その火の玉に立ち向かう。

「はあぁっ!」

 大きく声を上げ、腕に全体重を乗せる。

 そのまま押し返すように、思い切り剣を押した。

「でやぁっ!」

 火の玉が、軌道を変える。

 向かってきた道のりをそのまま引き返し、火の玉を吐いた赤龍に向かっていった。

 やったか、と思った。

「おっと」

 しかし、赤龍は体を器用にくねらして、それを避ける。

 赤龍はにやりと、いやらしく口を吊り上げた。

「なるほど、厄介な武器だな、それは!」

 竜が手にしている、剣を見る。

 あれほどの衝撃を受けても、曲がりもせず、刃こぼれもせず、銀の刀身を光らせている、『龍殺しの剣』。

「だが、それまでだ。人間なんぞ、オレに届くことすら出来ないんだよ!」

 遥か高みで、大声で笑う赤龍。

「見ていろ、貴様の周りにある全てが焼き尽くされるのを。その目で、しっかりとな!」

 赤龍は方向を変える。

 その先には、まだ無事な建物と、そして、逃げ惑う人々。

「その後でてめぇだ! 身も、心も、全部壊してやっから安心しなぁ!」

 竜は構えを解き、赤龍を追いかける。

 しかし、空を舞うその怪物へは近づくことも出来ない。

 どうすることもできないというのか。

 人の身である以上。

 神には、届かないというのか。

「龍神様!」

 琴音が近づく。

「この村は駄目です。撤退を」

 鋭い目のまま、そう言った。

「正気か、逃げてる間にやられるぞ!」

「ですがっ!」

 苛立ちを隠さず反論する竜に向かって、大声で言う琴音。

「この状況で、どうしろと言うのです!」

 その問いは、卑怯だった。

 なんて答えればいいのか、わからない。

 なんて言えばいいのか、わからない。

 このまま黙って仕留められるのを待つというのなら。

 それならせめて……逃げれる者は、逃げた方がいい。

 でも、それは。

「ダメだ」

 竜は再度、剣を構えた。

「そんなの、ダメだ」

 琴音もその言葉に、反論できない。

 今まで幾度となく繰り返してきた、ドラゴンとの戦い。

 戦いを終わらせるためには、あれを討たなくてはいけない。

 逃げたらまた同じ状況。膠着状態が、永遠に続く。

 それを、琴音もわかっている。

「手を考えるんだよ!」

 竜はスピードを上げる。

 琴音も負けじと、大きく足を動かした。

 竜が走りながら、周囲に目を向ける。

(何か……何か無いかっ?)

 周囲に目を向け、攻撃手段になりそうなものを探す。

 こうしている間にも、二匹が放つ炎が大地を抉る。

(無いのかっ!)

 一瞬、その物が目に入った。

 足を止める。

 琴音もつられて、転びそうになりつつも足を止めた。

「どうしたんですっ?」

 少し強い口調で、琴音が聞く。

 竜はただその物がある一点に視線を向け、琴音に向かって聞いた。

「琴音、弓の腕には自信あるか?」

 冷静に、そう聞く。

 琴音はこんな時になんだと思いつつも、一応は頷いた。

 弓は幼い頃から手にしていたものだ。腕にはかなりの自信がある。それこそ、百発百中と言ってもいいくらいの自信だ。

「なら、お手を拝借」

 竜がそう言ってにやりと笑い、地面に落ちてあったものを拾い上げた。





 村の約半分は炎に焼かれ、いくつかの亡骸も見えてきた。

 しかし、そんなこと気にも止めない。

 自分たちは神だ。

 人間などは、自分たちの前にひれ伏すもの。従い、施すもの。

 そして、自分たちに逆らうものには、死を。

 それが『神』と呼ばれた、ドラゴンたちの歩んで来た道だ。

「大体は片付いたか」

 黒龍が、赤龍に向かって言葉を放つ。

 赤龍は黒龍の方へ体を向けた。

「あっけねー。つまんねーな、ったく」

 さもつまらなそうに、言う。

 こんなこと、彼らにとってはまるで玩具遊びだ。なにせ手の届かない場所から、一方的に攻撃できる。

 向こうの攻撃手段である弓矢は、自分たちの体に傷ひとつつけることはない。

 余裕どころではない。楽勝過ぎだ。

 逃げおおせたものもいるが、楽しみが増えたというものだ。

 どのように知恵をつけ、自分たちに逆らうか。

 その哀れな末路を、長々と見守ってやろう。

 赤龍はそう思った。

 視界の隅に、巫女装束が目に入るまでは。

「んっ?」

 琴音が、弓を構え、一瞬で射る。

 赤龍はとっさに避けようとしたが、その矢は方向が定まっていなく、赤龍の遥か上空をすり抜けるだけ。

「けっ、へたくそが」

 だが、それも琴音の作戦通り。

 矢は赤龍の上に抜け、赤龍の体に、その矢に結びついていたものが垂れ下がる。

「何だ?」

 それは、一本の太い縄。

 下を見ると、赤龍の上を通り抜けていき、そのまま地面に落ちた矢を、三人ほどの男が掴み、思い切り引っ張っている。

 赤龍の体が、縄によって地面に向かって引っ張られる。

「小賢しい真似を……」

 赤龍は体に力を入れ、引っ張られるまいとする。

 男三人など、神の力からすれば比にもならない。

 まして力のある背の辺りだ。

 思い切り天に跳ね上げ、そのまま地に落としてやろうかと思い、赤龍は上に向かって力を入れた。

 それが、彼の最期。

 最後の瞬間への、カウントダウンの始まりだった。

 縄は思ったよりも軽く、簡単に跳ね上がった。

 体を、縄が擦れていくのがわかる。

 おそらく、片方が手を離したのだろう。

 なんとも度胸の無い、と思い、その手を離した哀れな連中を眺めてやろうと、視線を向けた、その先。

 縄の先に、誰かがいた。

 左手で縄を掴み、右手には、剣。

 そして、にやりと笑った、その顔。

「りゅ……」

 縄は体を支点とし、端に掴まっている竜を、赤龍の体の高さまで跳ね上げていた。

 反対側では、思い切り縄を引く男たち。

「龍神……?」

 そしてもう、竜の姿はすぐ近くまで来ていた。

「消えろ、赤龍!」

 縄から手を放し、赤龍の体に剣を振り下ろした。『龍殺しの剣』は、赤龍の体に深々と突き刺さる。

「おっと、まだまだ!」

 刺さっている剣を、赤龍の背に乗りながら引き抜く。

 わずか一箇所の傷は、まるでそこに解剖器具でも入れたかのように、広がってゆく。

 そんな、体がどんどん開いてゆく赤龍の背を、走る。

 長い体を、背から顔の方へ向かって。

 身を屈め、勢いよく足を動かし、そして赤龍の脳天に足が届いたとき、思い切り、それを蹴った。

「何だと!」

 黒龍が赤龍から離れようとするが、もう遅い。

 二匹の距離が近すぎた。

 そして、黒龍は、赤龍よりも低い位置にいた。

 全ての要因が、彼らの最期への予兆。

(これくらいの距離なら……)

 赤龍の頭を蹴り、大きく天を飛ぶ。

(これなら、届く!)

 剣を上段に構える。

 離れようとする黒龍に吸い寄せられるように、竜の体が近づく。

「いけっ、『龍殺しの剣』っっ!」

 そのまま縦一文字、大きく剣を振り下ろす。

 剣は黒龍の脳天に突き刺さり、その驚愕に震えた顔を綺麗に分割する。

 その傷は、『龍を殺す傷』。

 まるで体全体がスライスされたかのように、黒龍の体はそこから真っ二つに分割される。

 そして、体中に傷口が広がり、内側から破裂する、赤龍。

 二匹の、最期。

 赤龍は内側から爆発し、灰に。

 そして黒龍は、半分ずつになった体が、少しずつ消えてゆく。

 最後に、二つの体が自らの色と同じ光を放ち、そして、その場に存在していたはずのものは、完全に消えてなくなった。

「やっ……」

 弓を構えたまま、天を見上げていた琴音は、その光景を見て、

「やったっ!」

 大きく声を張り上げた。

 周りからも、ものすごい歓声が響く。

 誰もが口々に、次々に、喜びの言葉と、勝利の雄叫びを上げていた。

「そうだ、龍人様はっ?」

 辺りを見回す。

 あまり高い位置にいなかったとはいえ、上空から落ちた。

 怪我がなければいいがと思い、二匹がいた場所の丁度真下辺りへ走る。

 たくさんの人々が勝利を祝い、喜び合い、抱きあっている横をすり抜け、雄叫びと歓声が響くその場所で、琴音はせわしなく辺りを見回す。

「………………」

 竜は畑の真ん中で、大の字になって転がっていた。





 二匹の竜を倒したが、こちらの被害も甚大も相当のものだった。

 村はほぼ壊滅状態で、絶え間なく怪我人が運ばれ、亡骸が積まれ、完全に燃え尽きた家の中から、何か黒いモノが運び出される。

 武器も、食量も、そのほとんどは失われ、黒く何か別なものへと変色していた。

 怪我人を村の中央に位置する広場に集め、とりあえずは落ち着いたその状況。

 そんな光景を眺め、顔も着物もススだらけになっている竜は座っていた。

 そこで少々、違和感を覚える。

 立ち上がって、周囲を見回してみる。

「龍神様」

 琴音が近づいてきた。

 琴音も先ほどまであちこちを走り回っていたため、真っ黒だ。

「……琴音」

 竜は、琴音の方には目線を向けず、ただ、真っ直ぐ前を向いて口を開いた。

 面々に目を通しながら、龍が口を開く。

「里歌がいない」

 その言葉に、琴音も、周りにいた面々も、辺りにいる顔を確認する。

「里歌さん?」

 姿がないことに気づき、琴音が声を上げる。

 周囲の死体も、すでに集めた。

 倒れている人影は、もう辺りにはいない。

「里歌、どこだ!」

 竜が周りにも聞こえるような、大きな声で叫ぶ。

「里歌ーっ!」

 その声に答えるものはなく、ただ、竜の声が何度も、周囲の山に木霊して、返ってくるだけだった。





 気がついたとき、なんだか冷たい空気が辺りに満ちている感じがした。

 目を開いて、周りを見回す。

 薄く煙が舞う、大きく広い部屋。

 部屋、というよりは、まるで、岩をくり抜いたような、そんな不思議な空間。

 里歌はそんな場所にいた。

 立ち上がると、腹部にわずかな痛みが走る。

 何があったか思い出し、手に持っていたはずの槍を探す。

 が、自分の足元にも、手のひらにも、槍は存在しなかった。

「気づいたようだな」

 部屋の奥から声が聞こえる。

 身構え、声のした方に視線を向けると、奥から橙の衣装に身を包んだ、一人の男が歩いてきた。

 先ほどの、男。

 一瞬で後ろに回り、そして、槍を抑え、こちらの気を失わせた張本人。

「黄龍!」

 敵意のこもった声で、里歌が叫ぶ。

 黄龍は小さく笑い、足を止めた。

「左様、我が名は黄龍。この世界を統べる全知全能の神。最強の龍。最強の存在だ」

 そんな自己紹介をされる。

 その男の目、声、体、そして、色。

 その全てがに対して体中が嫌悪感を示すような、そんな感じがした。

 素手でも、殴ることくらいは出来ると思い、足に力を入れようとする。

 しかし、向かっていくどころか、足は一歩も動くことはなかった。

「な、何したのさっ!」

 足を必死に動かそうと力を入れながら、叫ぶ。

 黄龍は体の動かなくなった里歌に近づく。

「最初はただの、偶然かと思ったが」

 一歩、また一歩と、静かに近づいてくる。

 里歌は必死に動こうとするが、今度は両足どころか、両腕さえも動かなくなった。

 体の全く動かない里歌の顎に、黄龍が指を添える。

「ほお……」

 首筋を指で撫でながら、感嘆とした声を出す、黄龍。

「っ……」

 里歌はその感覚に震えながら、強く目を閉じる。

 先ほどまでは怒り。

 今は、恐怖しか感じない。

 指を離し、里歌に背を向ける。

 里歌は感覚が離れていったことに、わずかに安堵した。

「やはり……どうやら、貴様にも龍神の血が流れているようだ」

 背を向けたまま、そんなことを言う。

「えっ……?」

 何を言っているのか、わからなかった。

 龍神の、血。

 竜が継いでいるという龍神の血を、自分も継いでいるというのか。

「そ、そんなこと!」

 少しだけ声を震わせて、口を開く。

「あ、あたしは、あの剣を持てなかった!」

 『龍殺しの剣』。

 龍の血を継ぐものが持てるというその武器を、里歌は持つことが出来なかった。

「龍神は人間として、二人子を成したという」

 黄龍は里歌の方を向き、手を背で組んだまま、言った。

「奴以外にも龍神の血が流れているのは、当然のことであろう?」

 黄龍の、言葉が、頭に響く。

 自分も竜と同じ、龍神の血を継ぐ者だというのか。

 そんなの信じられない。

 そんなこと信じられないのに、心のどこか、どこか深い場所で、なぜかそれを否定できない。

 あの剣。

 屋上で聞こえた声。

 そして、この世界。

 何でかはわからないが、否定できなかった。

「奴の方が色濃く龍神の血を継いだ、それだけだ」

 黄龍が歩き、里歌の横を抜ける。

「だが、そなたも龍神だ」

 後ろまで回り、まるで後ろから抱くように腰に手を当てられ、肩に顔を乗せられる。

 体が震える。

 体は動かないのに、震えた気がした。

 動くことも出来ない恐怖と、そして、この者に対する奇妙な感覚。

 里歌は見たくないものから逃れるように、再度強く目を閉じた。

「そなたには神の血が流れているのだ、我と共に、万物の神になる力がある」

 だんだん、頭の中がぼうっとしてきた。

 黄龍の言葉が何度も、頭の中に反響する。

「そうだ、この世界だけではない、そなたの世界も、我々は手にすることが出来る。全てを手に入れることが出来るのだ」

「全てを……?」

 ただ、言葉を反響させる。

 目を開ける。

 視界が曇っている。

 まるで雲の中にいるような、真っ白な感覚が走り抜けた。

「龍神の血を継ぐものよ、我々で世界を創りなおそう。この世界を、我々の手で」

「世界……を……」

 目がゆっくりと、閉じてゆく。

「そう。我々が神となるのだよ、自らの手で」

「あたしが……神……?」

 目が完全に、閉じられた。

 催眠術でもかけられているかのように、ゆっくりと、ゆっくりと、里歌の体が沈む。

 黄龍はそれを見て満足そうに、小さく笑った。

 そして再度開かれた里歌の目は、本来の里歌の目の色とは違う色をしていた。





 里歌の捜索は、日が暮れるまで続いた。

 竜は少しだけイライラしているのか、同じ場所を行ったり来たりと、ずっと歩き回っていた。

「だめです、見た人もいません」

 少し離れた場所から、琴音が小走りで向かってきて、そう言った。

 目撃例はない。

 どこで戦っていたのかも、わからない。

 結局、何もわからずじまいだった。

「そうか」

 足を止め、竜は大きく息を吐いた。

「あの馬鹿、一体どこに行ったんだか、心配かけさせやがって全く」

 親指の爪を噛みながら言う竜を、琴音は少しだけ、淋しそうな表情で見つめる。

「やはり、心配なんですね、里歌さんのことが」

 ちょっとだけそっぽを見ながら、琴音がそんなことを口にする。

「そりゃそうだ、あいつがいてくれないと困る」

 そんな琴音の様子を知ってか知らずか、竜は即答する。

 琴音が真っ直ぐ、竜の方を向いた。

「里歌さんに……いてほしいのですか?」

「当然だろ!」

 沈んだ表情で言う琴音に向かって、竜が大きく声を出した。

「あいつがいてくれないと……」

 しゅんとした表情で竜を見つめる琴音。

 それに気づいているのか気づいていないのか、竜は軽く頭を抱えて一瞬空を見上げ、琴音に向かって、大きく声を出した。

「学校祭で、俺が困るんだよ!」

「……はい?」

 必死な表情で言う竜に向かって疑問符を浮かべる、琴音。

「……ふう」

 竜が息を吐く。

 大きく息を吐いて、そして、その、決意した言葉を口にした。

「黄龍に会ってくる」

 琴音は口をつぐむ。

 その言葉を予期していかのように、琴音は静かに、視線を下に移しただで、何も言わない。

「いないわけはないと思う。もしいるとしたら、黄龍が絡んでると思うんだ」

 そう言って、大きく息を吸い込み、そして、吐く。

「ま、ただ迷子になってるだけかもしれないけどさ」

 少しだけおどけて、琴音の方に笑いかけてみた。

 琴音は下を向いたまま、こちらを見ようともしない。

 竜は黙って、鞘ごと剣を手に取る。

 『龍殺しの剣』。

 相手がドラゴンであるのなら一撃で『殺せる』、最強の剣。

 例えどんなに力があろうと、おそらくは黄龍も。

 ほんの少し、かすり傷でもいい、ほんの少しの傷を与えるだけだ。

 それだけで『滅びる』。

 ならば。

 この目の前の光景。

 こんな光景を、もう見たくない。

 そして、学校祭で苦労をしたくない。

 わずかに刀身を出し、銀の光に目を細める。

 刀に映っている男は、とても険しい顔をしていた。

 剣を収める。かしゃん、といういい音が響いた。

「私も行きます!」

 急に琴音がそう叫ぶ。

 竜が琴音の方へ顔を向けたとき、琴音は力強い瞳で、真っ直ぐに竜を見ていた。

「私が行っても、足手まといにしかならないかもしれません。ですが……私たちは、ずっと、終わらせようとしてきたんです」

 力強い瞳の奥。

 メラメラと、炎が光っているような、そんな感じがした。

「最後だけお任せするなんて、そんなことできません。私も……私も行きます」

 琴音が言うと周りにいる人が続々と集まってきた。

「おいらたちもついていきますよ!」

「こんなことする奴ら、許せねえ!」

 皆が口々に、そんなことを言ってきた。

「みんな……」

 これだけの被害の中でも、みんな、挫けない。

 そんな人々の力に、竜は飲み込まれたような気がした。

 周りの人々を見る。

 黒くすすけた顔を、戦いで傷ついた顔を。

 それでも、彼らの顔は、明るい表情をしていた。





 次の日の早朝。竜たちは少し早めに村を出た。

 草原を進み、森林を歩き、野を越え山を越え、そして、また、山を登る。

 結構歩いて、そして、真っ黒な雲が空を覆い始めたその場所で、目的の建物は見えてきた。

「一目でわかるな、黄龍のいる場所は」

 少し遠くに見えてきた、建物。

 険しい山々の頂きに一件だけ存在するその建物が、黄龍の住む場所に他ならない。

 建物へと真っ直ぐ伸びる道が見えてきた。

 大きな鳥居がある。

 少しだけ緊張しながら鳥居をくぐると、何か、空気が変わったような感じがした。

 ここからは上りだ。

 それほど急ではないとはいえ、長い坂がずっと、おそらくは黄龍がいるであろう建物まで続いている。

「……!」

 鳥居をくぐってすぐ、がさがさ、という音が聞こえた。

 周囲を見回す。

 すると、影からいくつもの人影が姿を現した。

「待ち伏せかよっ!」

 剣を抜く。

 赤龍たちの時と同じだ。 

 操られている、ニンゲンたち。

 それぞれが武器を持ち、近くにいる者たちへと襲いかかる。

「くそっ!」

 竜も剣を抜いて、それに応戦しようとする。

 しかし、突然目の前に仲間の男が現れ、抑えようとした相手の攻撃を男たちが刀で抑える。

「ここはお任せを!」

「龍神様は黄龍の元へ!」

 皆が一斉に声を上げる。

 そうして刀を弾き飛ばし、ニンゲンを蹴り飛ばし、道を開けてくれる。

 琴音が肩を掴む。

「行きましょう、龍神様!」

 真剣な眼差しで、そう言った。

「ああ!」

 もう一度坂の上を眺め、走り出す。

 建物はすぐそこ。

 黄龍はすぐそこ。

 竜と琴音は襲いかかって来る者たちを避けながら、山の頂き、その、建物の前へと辿り着いた。



「待っていた、龍神」



 そこに響いたのは、凛とした女性の声。

 坂を上った先にある、その建物の入り口付近。

 一人の女性が立っていた。

 青い着物。

 長い髪。

 そして、手にした長物。

 先にも後ろにも刃があるその武器は、薙刀と呼ばれるものだ。

「り……」

 息を整えて、その人影を見据える竜。

 立ち尽くしたまま、竜は静かに、その人物の名を口にした。

「里歌?」

 琴音もただ立ち尽くしたまま、その人影を見る。

 青い着物。

 長い髪。

 その姿は紛れもなく、自分たちの知っている、その人物だった。

「里歌!」

 竜が駆け出す。

「無事だったのかよ、心配したぞこのやろー!」

 嬉しそうに竜が近づく。

 里歌はそれにも反応せず、ただ、ちらりと竜を一瞥し、静かに、腕を上げる。

 手にしている薙刀が、竜の眼前に来た。

「わっと!」

 思わず体をそらし、薙刀を避ける。

 当たっていた距離ではないのだが、つい反射的に、避けてしまう。

 それくらい、予想だにもしない出来事。

 手を地面につけて、後ろ向きに一回りする竜。

 片足で着地して、そのままバランスを崩し、片膝を突く。

 そんな様子を見て、里歌は静かに腕を下ろした。

「里歌?」

 不思議そうな目で見つめる竜。

 里歌はにらみつけるような目線を、竜に向け、口を開いた。

「我こそ、黄龍に仕えし龍の一人」

 薙刀を振るい、くるりと体を回転させながら、



「青龍!」



 里歌は、そう名乗った。





 to be continued




→ go to the next story 龍神物語 其の四

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