龍神物語 其の二
龍神物語 其の二
あの日以来、琴は時間を見つけては山へと向かうことにしていた。
山に住む神を祭るという、一つの縦長の石と、そして、その周りに作られた、儀式用の丸い空間。
龍神と、初めて出会った場所。
「龍神さまっ!」
そこに行くと、いつも龍神が、人の姿で待っていてくれた。
「やあ、琴」
龍神が笑顔でそう答えると、
「はいっ」
琴は嬉しそうに、満面の笑みで答えた。
龍神が雨を降らせてから、すっかり天候は回復した。
時折降る雨と、程よい日の光。
百姓たちは皆突然の天の恵みに感謝しながら、実りのよくなった畑仕事に精を出していた。
琴の両親も、昔とは違って表情は明るい。笑顔だった。
村人たちは、龍神が雨を降らせたことは知らない。
知らずとも「神の恵みだ」ということを話していたし、百姓という身分上、常日頃から感謝の気持ちは持ちつづけている。
琴が笑顔を浮かべ、龍神の近くに座る。
それから、他愛のない話が始まる。
今日何があった、とか、今年はこれがおいしい、だとか、本当に他愛のない話題だ。
龍神からも話をした。
神の世界の話。
自分たちが住んでいる世界では争いが絶えず、いろいろと大変だ、とか、龍にもいろいろなタイプがいて、話が合わない奴がいて大変だ、とか。
普通の人が聞いたら首を傾げるような話も、琴はただ静かに、真剣に話を聞いていた。
龍神は、いつからか、そんな時間が好きになっていた。
「……暗くなってしまいました」
話に花が咲いたせいか、話し込んでいるうちにすっかり辺りが暗くなってしまった。
空はまだわずかに明るいが、木々の間はもう暗闇といってもいいほどになっている。
琴は、村へと通じるはずの道がある方向に顔を向けて息を吐いた。
「どうしましょう」
龍神が村の近くまで行くのは、いろいろとまずい。
そもそも琴とこうして出会っている時点で龍神にとっては少々まずいのだが、そのことは言わないようにしている。
「……この辺りなら、何かに襲われるということはない」
その言葉に、琴が顔を龍神のほうへ向ける。
「今日はこの辺りで寝るといい」
言ってからちょっとまずいかな、と思ったが、
「……そうですね。それではそうさせていただきます」
琴は素直に、そう言って頷いた。
辺りは、もう完全に闇に包まれている。
龍神が消えないように見ている炎だけが、ぱちぱちと音を立てて燃えている。
虫の声も、鳥も声も、何も聞こえない、静かな夜。
「……龍神様は」
そこに、琴の声がわずかに響く。
龍神の緑の着物を掛け布団の代わりにして横になっている琴の方を向く。
琴は着物からわずかに顔を出して、こちらを見ていた。
「どうして、私に優しくしてくださるのですか?」
思ってもない質問だった。
龍神も思いもよらぬ質問にとっさに答えることができず、呆然とした顔で琴の顔を見ていた。
まるで何かを求めるような瞳に、不思議と美しさを感じる。
その見上げた視線は、龍神の答えと、そして、何かもっと大きなものを求めているようにも思った。
「さあな……余にもわからん」
柄にもなく恥ずかしくなり、視線を琴から炎に映す。
その中に木の枝を一本、投げ入れながら、そう続けた。
そう。
そもそも、この者の願いを聞くために、わざわざ人間の姿になって出てくる必要などなかったのだ。
ただ、雨を降らせれば。
それでよかったのだ。
それなのに、なぜこの娘の前に現れたのか。
なぜこのように、親しげに会話をしているのか。
なぜ人間が知らなくていいことまでもひけらかしているのか。
自分で考えても、さっぱりわからなかった。
「……そうですか」
少しだけ寂しそうに微笑みながら、そのように琴は返す。
それからまた、静寂が流れる。
火が弾ける音と、わずかに風の流れる音。
それだけが、二人の間に静かに流れる。
「龍神様は、寝ないのですか?」
炎を見つめている龍神に、琴がまた言葉をかける。
「余の事は心配するな。おぬしはもう、寝たほうがよい」
琴にまた顔を向けて、龍神は言った。
「はい」
琴は素直にそれに応じる。
その安心しきった、幸せそうな笑顔に、龍神は一瞬だけ、見とれてしまった。
「……おやすみなさい、龍神様」
そして、目を閉じたまま、そう言った。
「ああ」
目は閉じている。
見つめていても、気づかれることはない。
だから、龍神は最後の一言は、琴の顔を見つめて、言った。
「おやすみ、琴」
気がつくと、光の中にいた。
光の中、自分とは違う形をした何かの影が見えた。
……いや、同じ形のはずだ。
だって、自分は元々そういう形なのだから。
今はただ、違う姿になっているだけ。
正面に見えるものは、自分の元々の姿で、そして、自分にとって、目上の存在。
(龍神よ)
その影は、非常に低い、耳の奥に響く声を放った。
(そなたは、なぜあの娘にこだわるのだ)
頭の中まで響いてくるその声が、非常に耳障りに感じた。
「……余にもわからん」
視線を合わさないように横を向きながら、そう言った。
(そなたは、このままでいることがどのようなことか、わかっておるのか)
変化のない口調が、いたって冷静に、言葉を響かせる。
そんな態度が癪に障ったのか、龍神の表情が険しくなる。
鬼気迫る表情で見つめられても、決してそれは表情を変えなかった。
(わかっているなら、手を引くがよい)
変わらない表情で、そう言う。
その一言がどれだけ思い言葉か、わかっているのだろうか。
その一言がどれだけ辛いことなのか、わかっているのだろうか。
少なくとも龍神は、その行為が非情な痛みを伴うものだということは理解していた。
(もし、そなたがこのまま人の姿になりつづける、というのならば)
わずかに、視線が変わる。
殺気。
そんな言葉でも表現しきれないような、突き刺すような目線。
体が動かなくなる。
感じたこともないような恐怖感。
人間であれば、その視線を浴びただけで動けなくなるだろう。
だが、龍神は。
その視線と同じ視線を返した。
「……ならば、なんとする」
震えもせず、迷いもせず、龍神はそう言って、真っ直ぐそれを見た。
そんな強気な態度にも臆することなく、その影は言った。
(そなたを封印する)
わかっていた。
龍神も、神と呼ばれる存在だ。
神が神でなくなるというのなら。
神であったときの力は、そして記憶は、全て消去されてしまう。
(よく考えるがよい)
それは、背を向けるように回りながら、言葉を続ける。
(人間になったところで、何もよいことなどないのだからな)
そう言って、その影は遠ざかっていった。
辺りの光が薄れてゆく。
龍神を包んでいた空間は霧散し、龍神の意識もだんだんと薄れていった。
気がつくと、闇の中にいた。
何も考えることができない、真っ黒な闇の中に。
何も見えない。自分が何者かもわからない。
手を動かしてみる。
感覚はあるような気がするが、体があるのかどうかわからない。
少なくとも、自分の目と呼ばれるはずの部分からは、自分の体のどこも見ることができなかった。
恐怖を感じているのだろうか、体が震える。
背筋に何か寒いものが通り、龍神は体を反らす。
だが、そうやったところで、背筋を通る冷たいものは、消えなかった。
目を閉じても、開けても。
そこに広がるのは、ただの真っ黒な闇。
それでも、その闇には、一つ、暖かなものがあった。
なんだか、気持ちがいい暖かさ。それに、いい匂いがする。
その温もりはなんなのか。そう思い、手を伸ばしてみる。
自分の手は見えないが、今まで自分に体があったときの感覚が正しいのならば、今自分の手は真っ直ぐ前に伸びているはずだ。
届くだろうか。どこにあるかもわからないのに伸ばしたその手。
その手が、何かに触れた。
これだ。
自分が求めていたものは、この温かさだ。
闇が光りだす。
光は龍神の前に集まり、そして、一つの形を作ってゆく。
その形を、見たことがある。
光が集まってできた形――その姿。
その名を口にしようとしたら、急激に体が重くなったような気がした。
「琴……」
目が開く。
視界がだんだんと開けてゆき、緑色が映った。
頭が何かに乗っている。柔らかい。
それは何かと思い、よく見てみる。
どこかで見たことのあるような色が、視界を染める。
転がるようにして、視点を変える。
太陽のある方向を……上を見てみる。
太陽は見えなかったが、そこには太陽のような眩しい、笑顔があった。
琴の顔だった。
「おはようございます、龍神様」
聞きなれた声が、上から降り注ぐ。
龍神は状況を理解できず、目線をさまざまなところに泳がせた。
その姿を見て、わずかに琴が頬を緩ませる。
「……琴?」
やっと口が動いた。
喉に引っかかって、ちゃんと言葉が聞こえたか不安になったが、琴の返事が聞こえたため龍神は安心する。
「余は一体……」
状況をいまだに理解できていない龍神。せわしなく視線を動かす龍神を、琴はただじっと見つめていた。
「私が目を覚ましたら、龍神様も眠っていたものですから」
そういえば、昨日は遅くなったから、ここに泊まれ、といったような。
「座ったまま眠ってしまっていたので、横になったほうがよろしいかと思いまして……その、石を枕にするわけにもいかなかったので、私の膝でよろしければと……」
言いながら、わずかに琴の顔に朱色が混ざる。
「龍神様の寝顔は、童のようで可愛らしかったですよ」
わずかに朱色の残る顔で、そう言って笑う。
龍神は、やっと状況を理解した。
……なんだ。
人間になることで、いいことはあるんじゃないか。
そんなことを思っていると、なんだか恥ずかしくなって、龍神はわずかに目線を逸らした。
「……すまない」
「……いえ」
お互いに照れ隠しなのか、その一言で黙ってしまう。
龍神もなんとなく起き上がることができず、横を向いた。
琴の膝の上は、暖かった。
この世界にこんなにも暖かなものがあるのかと思い、もう一度目を閉じてみる。
もう光も闇も見えなくなっていた。
だが、ずっとこうしているわけにもいかず、龍神は名残惜しさを感じながらも、体を起こす。
「お目覚めですか?」
後ろから、声が聞こえる。
「ああ」
はっきりした声で、龍神はその声に答える。
顔の温度は、まだ冷める気配がなかった。
隣の影が、動く。
琴が立ち上がったのだ。
龍神は反射的に、琴の方へ体を向けた。
琴も龍神の方へ体を向け、立ち上がっていた。
「それでは龍神様、戻ります」
龍神と目が合うと、そう言った。
なぜか龍神は、その言葉がわずかに寂しそうに聞こえた。
「そうか」
それに返答する龍神も、寂しそうな声を出す。
とはいえ無断で山泊まり。両親も、おそらく心配しているだろう。
龍神も立ち上がった。
「余は、いつでもこの場所にいる」
そして、琴のほうを見て、そう口にした。
「はい」
琴も、嬉しそうに言葉を返す。
そして、腰を折り、頭を下げ、琴は龍神に背を向け、歩き出した。
わずかに開かれた、この空間。
そこを琴がもう出るかという時に、琴は振り返った。
「それではまた、龍神様」
振り返ったままの姿勢で、笑顔を作り、そう口にする。
それだけを言うと満足したのか、琴はまた前を向いて、歩き出した。
「ああ」
龍神は、琴に聞こえるかわからないような声で、そう言った。
そして、琴の姿が小さくなり、やがて見えなくなるまで、ずっと、見つめていた。
そこで気づく。
……余は、琴に恋をしている。と。
鼻で笑うような声が聞こえた気がして、上を見る。
そこには何もなく、ただ、真っ青な空が広がっているだけだった。
千年の後 其の二
その後、少し離れた所にある一つの建物へと案内された。
嬉しそうに隣を歩く巫女の姿を、ちらちらと見る竜。
その視線に気づいたのか、巫女はこちらを向き、
「なんでしょうか、龍神様」
そのように聞いてくる。
「え、あ、いや、なんでもない」
竜は手をぶんぶんと振りながらそう答える。
巫女は「そうですか」と更なる笑顔で返し、ゆっくりと前を向く。
近くで見てみて、改めて気づく。
本音を言えば抱きつかれた時に気づいたのだが、あえてこの場で、はっきり言う。
この巫女さん、すごい胸が大きい。
(巨乳の巫女さん……)
どこかで聞いたようなそのキーワードを頭の中で反復させながら、もう一度、隣を歩く巫女の胸元を見る。
歩くたびにぼいんぼいんと揺れる、その大きな胸元。
ちょっとずれたら着物からはみ出そうなその巨乳を、竜は軽く身を乗り出して見つめる。
「ふん」
後ろから不機嫌そうな声が上がって、巫女の体が動く。
竜は慌てて元の姿勢に体を戻し、真っ直ぐ前を向いて大きく腕を振る。
巫女は振り返って後ろを歩く里歌を見るが、里歌が不機嫌そうに視線を反らしたため、何も話さないで前を向いた。
巫女がまた前を向き、竜の目線がまた胸元へと動く。
「足と手の動き、合ってるけど」
後ろから小声でそう言われて、竜は慌てて手と足の動きを修正した。
そして、一つの部屋へと案内される。
ただ畳が敷いてあるだけの、大きな部屋。
かなり広い部屋だが、畳以外には何もない。
その部屋のほぼ真ん中に、巫女は静かに座り込んだ。
正面に、二人も座る。
巫女は静かに息を吸って、両手を地面に当てた。
「突然のことで申し訳ありません。龍神様」
座って早々、頭を下げる。
「私は、琴音、と申します」
頭を上げて、そのように巫女は名乗った。
(琴……音?)
なぜか竜は、その名に聞き覚えがあった気がした。
「あなたがここにいらっしゃるのをずっとお待ちしておりました。こちらで出来うる限りの歓迎を致しますので、どうかお二方とも、おくつろぎください」
そう言ってまた、深々と頭を下げる。
竜と里歌は顔を見合わせる。
まったく、意味がわからない、といった顔。
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
とりあえずは、ということで、竜が口を開く。
巫女――琴音はゆっくりと顔を上げた。
「いや、正直俺たちはこの状況をよくわかってないんだ。ええと……琴音? まず、その、龍神ってのはなんなんだ?」
そのように少し早口で竜が聞くと、琴音はきょとんとした表情で竜を見つめた。
「何って……あなたのことですが、龍神様」
さも当然、といった感じで竜が答える。
「ちょっと待って、俺は……」
頬をぽりぽりと掻いて、少しだけ間を置いて、
「俺、龍神じゃないんだけど」
そのようにはっきりと答える。
「………………」
琴音が絶句する。
竜も、何でそんな表情をするの、といった感じの表情を浮かべて固まる。
里歌が二人の顔を交互に見比べて、小さくため息を吐いた。
「……なるほど、あなた様は、知らないのですね」
琴音が口を開いた。
何を知らないのか、と聞きたかったが、竜が聞くよりも先に、琴音が続けて口を開く。
「あなた様は、龍神という名で呼ばれています、この世界ともう一つの世界を守護する神の血を継ぐ者です」
しかし続けて言った言葉は、にわかには信じがたいことだった。
「はい?」
聞き返す。
琴音の表情には一片の曇りもない。
自分が口にしていることに間違いはないという表情を浮かべ、じっと竜を見つめていた。
「いや、ちょっと待って、何を根拠にそんな」
たじたじになって竜はそう言う。
しかし、その言葉を待っていたのか、琴音は自信に満ちた顔で竜の腰元へと手を伸ばす。
先ほどの戦いから、なんとなく腰に掲げたままの『龍殺しの剣』を、琴音は両手でゆっくりと手にした。
「軽いぞそれ。そんな、注意して持たなくても」
竜はそう言うが、琴音は両手を使ってまるで鉄の棒でも扱っているかのようにゆっくりと動かす。
「失礼してよろしいでしょうか」
そしてそう言って、里歌にその剣を捧げた。
突然話を振られて困惑する里歌。
その雰囲気からして、「持ってくれ」と言っているのだろう。
里歌はなんとなく嫌な感じを覚えながらも、琴音の真剣な瞳に負け、その剣を手に取った。
「な、何これっ!」
片手でそれを握ると、たちまり里歌の腕から剣は滑り落ち、音を立てて畳の上に落ちる。
「何やってんだよ」
竜はその剣を片手でひょいっと、いとも簡単に持ち上げた。
「全然軽いじゃないか。この剣」
そう言ってぶんぶんと振り回す。
その様を、里歌は驚きの表情で、琴音は真剣な表情で見つめる。
「この『龍殺しの剣』は、選ばれた者しか持つことが出来ないのです。龍の血を継ぎ、そして、神の名を告ぐ者でないと、手にすることすら困難だと言われています」
突然、そんなことを言われる。
剣を振り回したまま、竜の顔が琴音の方へ向いた。
「……つまり、どういうこと?」
再度聞き返す竜に、向かって、琴音は真剣な表情のまま座り、
「順序だてて説明したいと思います」
そう前置きを置いて、静かに話し始めた。
説明すると。
この『龍殺しの剣』はかつて存在した伝説の龍の血を吸って進化したという伝説の剣で、それは完全に龍を「殺す」ものとなり、しかもそれは龍の血を継ぐ者でないと、完全に扱うことが出来ないという。
そしてもう一つの話。
「龍神」と呼ばれた神の血を継ぐものが、やがて、この世界にやってくるという予言があったらしい。
その龍神は『龍殺しの剣』を使い、この世界を我がものにしようとするドラゴンたちを「殺し」、この世界に平和を呼び戻してくれる、ということだ。
この予言についてはいろいろな意見があったが、現実問題として、この『龍殺しの剣』を扱える人間は、今まで存在しなかったそうだ。
そして、そんな中で竜が現れ、自ら支配者を語るドラゴンたちの一人、白龍を「殺した」。
話を簡潔にまとめるとそんな感じだったのだが、それだけで十分、竜がその「龍神の血を継ぐもの」だという仮定に当てはまっている。
「かといってだ」
そんな解説をされ、竜は困惑の表情を浮かべる。
無理もないといえば、無理もない。
突然異世界に飛んでしまい、あなたはこの世界を救う人なのですわよ、と言われても、はいそうですかと素直に頷けるわけでもない。
確かに、龍の血が流れている人にしか持てない武器を軽々と持ち上げた。
まさかどこかからドラゴンの血が流れてきたわけでもあるまいし、その、龍神という奴の血が流れている人間がこの武器を使えるというのなら、この武器を持てるものは龍神の跡継ぎだ、という説は間違ってはいないと思う。
そうは思うが、納得できるわけでもない。
「俺がその龍神の生まれ変わりだという証はないだろう」
「そんなの関係ありません」
琴音はきっぱりと言い切る。
「あなたは、あの龍たちに対抗できる唯一の力を持っているのです。そして現に、あなたは白龍を倒した」
真っ直ぐな表情で、琴音が言う。
「別にいーんじゃないの?」
何を言われても頷かない竜を見て、それまで退屈そうにしていた里歌が口を開いた。
「は?」
言葉の意味がわからず、聞き返す竜。
里歌の方を見ると、なぜか里歌は不機嫌そうに、ギロリと竜を睨みつけた。
「実際、そのそこそこに重かった武器をあんたは軽々と持ったんだから。龍神だとかなんとかの血が流れているのだとしたら、あんたに素質がある、ってことでしょ?」
「いや、素質ってねえ、あなた……」
ぶすっとしたままでいる里歌に、竜も反論する。
「素質でどうにかなるものでないでしょう。大体、」
「そんなことより」
抗議は一切聞かず、里歌は琴音に向き直る。
「なんなの、あの龍」
琴音もわずかに、険しい顔になった。
話を聞けよ、とは思ったが、この話は、竜にとっても興味のある話だ。
現に、そのうち一匹を自らの手で「殺して」いる。
竜はひとまず、琴音の方を向く。
「……先ほどの話の、続きです」
琴音が重々しい口調で口を開く。
竜も里歌も真剣に、その一つ一つの言葉を拾う。
「残ってしまった伝説の龍、その体の一部が、邪な者によって利用されてしまったのです。それを自らの体に取り込んだある人間は、その体を龍の体へと変貌させました。その者が……黄龍と名乗っているその龍が、我々の最大の敵です」
黄龍。
その言葉にも、かすかにデジャブを感じる。
「黄龍は他にも何人かを自分のしもべとし、彼らにあがなうものたちを完全に排除しようとしております。私たちはそれに対抗し、長い間戦って参りました」
その長い間、というのがどのくらいのことなのか。
琴音の表情から、とても長いものだということだけは感じられる。
「私たちの目的は、その、黄龍、そして、その周りにいる龍の力を持った者たちを倒すことです。彼らは統括という言葉の元、自分たちに従わないものたちを根絶やしにしようとする考えの持ち主。彼らに……決して従うことは出来ません」
そう言って、琴音は静かに顎を引き、視線を下へ移す。
長い間の戦い――その間、一体何があったのか。
先ほどの戦闘を思い出す。
真っ赤に焼かれた村、倒れた少年、焼け焦げた匂い。
それを考えれば、心が揺らぐのは当然だ。
鞘に納め、今は腰に下げている『龍殺しの剣』を見つめる。
この剣を使えるのが、本当に自分一人だけだとしたら。
その、長い長い戦いを終わらせられるのも、自分一人だけなのだろうか。
琴音の方を向くと、琴音は顔を上げて、じっとこちらを見つめていた。
里歌も、複雑な表情でこちらを見ている。
こんな異世界に飛ばされて、そして、そんなことに巻き込まれて。
一体、どうすればいいのだろうか。
「龍神様……」
少し涙目で見つめながら、琴音がそう呼んだ。
自分は、『龍神の血を継ぐもの』。
本当に、そうなのだろうか。
本当に、終わらせられるのだろうか。
いろいろと考える。
しかし考えても考えても、ぐるぐると頭の中が回っているだけで、結論らしい結論は出てきてくれなかった。
「……考えさせて欲しい」
じっと見つめてくる琴音に向かって、竜は、ただそれだけを言った。
「はい」
琴音は少しトーンを落とした声で、静かにそう答える。
まるで、その答えをわかっていたかのように。
「この部屋をお使いください。布団は後ほどご用意いたします」
そう言って、また、深々と頭を下げた。
なんだか悪いことをしている気持ちになって、竜は小さく、ため息を吐いた。
その後、夕食をご馳走になり、先ほどのだだっ広い部屋に、竜の布団が用意された。
今にして思えば、とんでもないことをした気がする。
戦う。
例え自分が本当に龍神の生まれ変わりだとしても。
『龍殺しの剣』を扱えるとしても。
一体どうなんだろうと、今さらになって思った。
白龍の体を裂いた感覚を思い出す。
浅い傷とはいえ、体を引き裂いた、その感覚。
あまりにも生々しい、その感覚。
何度か寝返りをしてみても、その感覚を忘れられそうになかった。
「龍神様……?」
声がして、わずかに襖が開く。
琴音が小さく、ひょこりと顔を出した。
「琴音?」
頷き、正座をしてから、静かに襖を閉める。
「寝られませんか?」
「いや」
少しだけ強がりを言って、竜は琴音とは反対のほうを向く。
「なんつーか、いろいろあったから」
言葉に笑いを含み、言う。
琴音には、それが辛そうな声に聞こえた。
「あんなこと言われてもさ、本当に出来るかな、とか、そういうこと考えるとどうも、不安になって。ダメなんだよな俺、真剣に物事を考えたことないからさ」
自虐的に、そんなことを言う。
「いっつもノリと勢いで決めちゃってさ、わかんないんだよ。こういうとき、どうすればいいかなんて、わかんない」
大きく息を吐いて、そう言う。
「龍神様は」
琴音が口を開く。
影が近づくような感じがして、龍は琴音の方を向いた。
琴音が、すぐ近くにいる。
「私の想像通りのお方でいらっしゃいました」
暗くてもわかるくらいの、優しそうな表情で、そう言う。
「強くて、そして、弱くて……そして何よりも清い心を持っている、素晴らしいお方です」
お世辞でなく、本心でそう言う。
竜にとっても、それは悪い言葉に聞こえなかった。
「強くなんかないよ……強くなんか」
しかし、そこは否定する。
言って、もう一度琴とは反対側に顔を向けた。
そのとき、何かが頬に触れた。
びくりと体を反応させて視線を動かすと、眼前に、四つんばいになった琴音がいる。
「こ、こ、琴音っ?」
にっこりと微笑む、琴音。
「実は……先ほど申し上げなかったのですが、もう一つ、予言があるのです」
少しずつ近づきながら、琴音が口を開く。
「私は……その、龍神様の血を継ぐ者と、結ばれる運命にあるのです」
心臓が跳ねた。
今なんて言った?
龍神の血を継ぐ者を、結ばれる運命にある。
龍神の血を継ぐ者。
龍神の、血。
……俺?
頭の中にそんな疑問符が浮かぶ。
「龍神様」
息がかかるほどの近い場所に、琴音の顔がある。
そんな距離で、小さく囁くような声で、琴音は言った。
「私では……不服でしょうか?」
理解不能だった。
いや、理解はしていたが、その言葉が何を意味するかということを改めて考えてみると、脳細胞がオーバーヒートを起こすくらいのことだった。
「え、ええっ?」
琴音が布団をめくり、その隙間に自分の体を滑り込ませる。
大きな胸が、竜の胸に乗った。
「龍神様は、お強いお方です」
顔を真っ赤にして、琴音が目を、わずかに閉じる。
「私は、わかってます……」
完全に目が閉じられた。
近づいてくる、赤い顔。
ほんの少しだけ突き出した唇。
オーバーヒートしそうな考えの中で、竜も静かに目を閉じる。
心の中では冷静になりつつも、ああ、俺のファーストキスだあ、なんてことを考えていたら。
「……竜、起きてる?」
別の人物の声がして、竜は思わず目を閉じていた琴音を、胸元に押し付けた。
「んーっ!」
暴れる手足を抑えて暴れないようにし、布団を肩くらいまでかける。
完全に琴音が隠れたその時、襖が開いて、隣の部屋で寝ているはずの里歌が入ってきた。
「お、おお、起きてるぞ」
真っ赤になった顔で竜は里歌に笑顔を返す。
幸い真っ赤になった顔は、夜の暗さでわからなかったようだ。
里歌は静かに、竜の横に座り込んだ。
布団がもりあがっていることも、気づかれていないらしい。
「ごめんね遅くに。なんか、眠れなくて」
体育座りのまま、ちらりと窺うようにこちらを見る。
「む、無理もないよな、突然いろんなことが一気に起きちゃあな、うん」
少しだけ早口に言う。
「……うん」
適当に言ったことが、かえって話題提供になったらしい。
「不安だよ、あたし……これから一体どうなっちゃうんだろ」
大きく息を吐きながら、里歌は膝元に顔を埋めた。
学級委員長として教室では強気に振舞っている里歌が、こんな不安そうな仕草をする新鮮さを感じつつ。
(暴れるな、琴音っ……)
両手両足を駆使し、竜は暴れる琴音を押さえつける。
表情には必死さが出ているのだが、里歌には見えていない。
「戻れるかな、元の世界に……」
どこか遠くを見て、里歌はそんなことを言う。
「帰れるよね、あたしたち」
故郷を思い出してか、そう聞いてくる。
今度は完全にこちらを向き、そして、竜の顔を見た。
「竜?」
そして異変に気づいたのか、聞いてくる。
「どうしたの?」
そう聞かれたその時が、限界だった。
がばり、と、ものすごい勢いで布団がめくれあがる。
竜だけでなく、里歌も驚き、びくっ、と体を動かす。
「苦しいですっ、龍神様!」
竜の布団から思い切り顔を出した、琴音。
その姿はなぜか、思い切り胸元がはだけていた。
「琴音っ!」
勢いよく目元を抑えて、竜が叫ぶ。
「胸! 胸見えてる!」
目の前で両手ぶんぶんさせて、琴音にアピールする。
琴音は案外ゆっくりとした動作で胸元を隠し、少しだけ俯き加減で竜の方を向く。
「……いいんですよ、龍神様」
「よくなーいっっ!」
ちなみに里歌から見た光景。
寝ている竜と、その腰元に乗った、胸元がはだけた琴音。
そして、それを必死に隠そうとした竜。
「この……」
里歌の口から声が漏れる。
その声の奇妙なトーンに、竜が里歌の方を向く。
白竜が放っていたものと同じようなオーラが、なぜか里歌の周りから出ているように思った。
何でか、なんて、そんなこと、今の竜にはどうでもいい。
ただ感じたのは、命の危険。
「この、変態がーーーーーっっっっ!」
拳が迫ってきた。
それしか憶えていない。
「きゃーっ! 龍神様―っっ!」
琴音の叫び声が聞こえたような気もするが、竜の耳には入らない。
ただ、拳と枕に挟まれたその場所で。
(ミツル、コウスケ、巨乳の巫女さんを攻略するには大きな壁があったよ……)
そんな呑気なことを考えながら。
顔面に痛烈な衝撃を覚えつつ、竜は気を失った。
to be continued
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