第九章(17) いまでは私も、少し
大事なミラーカ。
大切な光。
しかしその願いは、叶えられない。
目が覚めて見えた世界で、その言葉は、口にできない。
何故なら――。
……代わりにパウは、口を結んで、杖を握り直す。
旅に出る際、護身用にと手に入れた、仕込み杖。壊れることもあったが、直されていまもここにある。
己の意思で引き抜いたのなら、きらりと刃が輝いた。
鮮烈な光。しかし夢や幻の光ではなく、鉄の冷たさの輝き。
何を、とミラーカが口を動かすのが見えたが、パウは答えず、また迷うこともなかった。
思い出していたのだ、彼女に贖いを誓った、あの夜のことを。
――「指贈り」は運命を相手に委ねるという証。約束事をする際に指を贈り、果たされた時に、返される。
指を預かっている間、指を贈った人間の運命は、指の預かり主に支配される。預かり主のものとなる。
だから。改めて。
ここは夢の世界ではないのだから。
――刃に小指を押し当てたのなら、いとも簡単に肉は切れた。骨にひっかかることもなく、パウの小指は、器にしたパウのもう片手の中に転がった。
痛みはなかった。まるで夢の中で切ったかのようだったものの、溢れ出る血の温かさは確かで、服を染め、青い水溜まりに滴ったのなら、混ざり合う。綺麗に混ざることはなく、濁る。
力ないミラーカの手を拾い上げれば、切り落とした小指を、パウは握らせた。
「……いらないわよ、『あなた』、なんて」
そういいつつも、華奢な手はふわりと小指を握ってくれた。
「そもそも……あなたは約束を守ってくれた。だから、小指はもう、私のものじゃないし、何を、約束しようっていうの……」
「でも俺には……これしかできない」
考え抜いた果ての行動だったのだ。
何故なら。
「俺には……お前が欲しい言葉を、口にできない――逆にその言葉は……お前を傷つける言葉になるから……」
虚しく響くだけなのなら、口にするべきではない。
でもその代わりに、できることを。
自分の全ては、彼女のものなのだと。
いままでも、これからも。
それだけは、誓うと。
彼女の欲しがる「愛」は、自分の中にないかもしれない。
それでも。それでも。
執着だけは、本物だから。
……ミラーカはしばらくの間、きょとんとした表情を浮かべていた。驚愕の表情ではなく、唖然としたような顔だった。
「……そう」
やがて、握り込んだ小指を、さらに握って。
「――ふふ、あはは……」
弱々しくも肩を震わせながら、笑い出す。
涙は変わらず零れているものの、その表情は、本当に幸せそうで。
「じゃあ、もう、いいわ……この小指は、私が、もらうわ……」
しばらく笑い声を響かせて、ミラーカは視線をパウへ戻した。
まっすぐにパウを見つめる瞳の奥に、小さな宝石のような光があった。
「呆れたわけじゃ、ないのよ……その言葉を聞けて、十分だと思ったから……」
それにね、と彼女は、続ける。
「……『指贈り』って、男女で行うことが多いのよ。その意味、わかる? もしかしてパウ、知ってた?」
――そこまで言葉を紡いで、彼女はまた、青い液体を吐き出す。
ひゅうひゅうと、喉が鳴り続けている。気付けば青色の海は、随分と黒色に侵食されていた。パウとミラーカのすぐそこまで迫っていて、そう思った時にはもう、黒色になった液体が、パウの服を、ミラーカの身体を染め始める。
腐敗臭のするそれは、間違いなくグレゴの血だった。
「青色は……蝶の色だったから、好きじゃなかったの」
ミラーカは、空いていた片手を、水溜まりからおもむろに持ち上げる。すっかり黒色に染まった液体が、ぼたぼたと滴った。それでも、小指を握るもう片手に重ねる。よりパウの小指を握る。
「でも……パウが気に入ってくれてるようだったから……いまでは私も、少し、気に入っていたの」
だって。
好きな人が「好き」と思うものは、同じように愛したいでしょう?
――そう笑った彼女の身体が、どろりと溶け始める。ゆっくりであるものの、端から崩れていくかのように。
「だめ、ね」
伴って、肌も黒く染まり始める。小指を握り込む両手も黒く染まり、溶け出す。
「死ぬときぐらい、人、らしく、死にたかったけど」
「ミラーカ!」
抱えている少女の身体が溶け崩れていく。それでもパウは抱え上げ続けたものの、
「パウ、愛していたわ」
――ずしゃりと、潰れたかのような漆黒が広がる。ミラーカの全ては液体となり、黒い海に混じってしまった。腐ったような臭いが漂う中、海は音を立てながら蒸発していく。
残ったのは、大きな黒い染みだけ。腐敗臭も、薄れ始める。
それは神の死に方でも、人の死に方でもなかった。
何度も見てきた、グレゴの死と同じだった。
――ミラーカ、と声が響く。
返事のないまま、もう一度、その名前が呼ばれる。
しばらくして、またその名前が響くものの、座り込んでいるのは、右手の小指を失った魔術師一人だけだった。
* * *
――全てはもう終わっているのだと、魔術文明都市デューに来たカーテレイン一行は、進む度に感じ取った。
『遠き日の霜』の者達は、まさに指導者を失い混乱しているようで、激しい攻防はいくらかあったものの、順調に勝利をおさめていく。巨大魔力翼船ディアスティム号に乗ってきたデューの生き残りは、そうして残党を捕らえていく。また共に魔力翼船に乗り込んでいた『風切りの春雷』騎士団も協力し、奪われた都市を奪い返していく。
その中で、何人かの者は、先にこの都市に一人向かったはずの仲間を探し、先へ先へと進んでいった。決戦が済んだかのような『大樹塔城』では、その彼が何かを成し遂げたのだと、感じ取る。
だからこの先に、彼の姿があると信じたものの。
最奥にあったのは、黒い巨大な染みだけ。「変異グレゴの死」を見た者は口にする、これはグレゴが死んだ痕跡だと。
そこに、青い蝶の姿はなかった。
紫色のマントを身につけ、片目の視力を失い、片足を悪くした魔術師の姿もなく、どこを探しても、彼の姿は見つからなかった。
名前を呼んでも、返事はない。
【第九章 蝶が見た夢 終】
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