第九章(16) 愛じゃなくて
* * *
最初、パウには何が起きているのか、理解できなかった。
ただ端から黒く染まりつつも広がる青い海の中、ミラーカが髪を広げて倒れ込んでいる。それだけしか瞳に映らず、けれども頭には入ってこなかった。呆然と彼女を見つめる。ついに自分の立つ場所まで広がってきた青い液体が、杖の先を濡らす。靴底を湿らせる。
ひたすらに、静かだった。まるで絵画の中のようだった。
そこで、こふ、と、ミラーカが青い液体を吐き出して、パウは瞬きをして駆け寄った。青い液体の海を、半ば転ぶように飛沫を散らして走り、ミラーカの前まできたのなら立ち止まる。
目が合う。自分の、片目しか見えない赤色の瞳と、ミラーカの揺らぐような青色の瞳が。
「何が――どうして――!」
理解した。理解したくなかった。頽れて、青い海の中、少女を抱え上げる。
「いまなら何でもできるってこと」
青い液体を口の端から流しながらも、ミラーカは笑っていた。
「死ぬはずのないグレゴでも、死ぬことができる、ということよ」
その事実を――自分が何をしたのかを口にしても、彼女は微笑み続けていた。
満足そうに。
そして。
少し意地悪そうに。
けれども。
どこか、寂しげで。
「どうして……どうしてこんなことを! こんなことする、必要は……」
震える声で、パウは言葉を紡ぐ。青い液体の流出はとまらない。出血とみていいそれは、ミラーカのあの背中から溢れ出ているようだった。触れたのなら、粘度が感じられる。背中を手で押さえようにも全て覆いきることは不可能で、指先の間からも漏れ出てしまう。
「あるの。あるのよ、パウ」
慌てふためくパウに対し、ミラーカは淡々と言葉を続けた。
「何でもできるけど……欲しいものは、手に入らないから。見たかった未来は、見えないから……」
それから溜息を一つ吐いたのなら、
「ねえ、パウ。聞いて」
その声に、パウは表情をミラーカに向けた。助けを求めるように手段を模索していた手も止まる。
静寂に沈んだ後に、少女の声は弱々しく響く。
「私は、神様じゃないのよ。元々は、人なの」
うっすらと、瞳を細めて。
「神様でも、青い蝶でも、芋虫でも、何でもない」
唇は、震えていた。
「一人の、人間だったの」
なのに、と彼女の瞳から液体が零れるのをパウは見た。
透明ではない。それも青い液体で、白い肌を染めていく。
けれども紛れもなく、それは涙なのだと、パウは気付いてしまう。
彼女らしくない、その行動。その感情。
「きっとあなたは、忘れてしまったんでしょうね――でも私は」
また青い血を吐いて、けれどもミラーカは微笑んだままだった。
「でも、私は……人として、見てもらいたかった。それから――」
くしゃりと、少女の表情が崩れる。まさにその見た目の年齢らしい少女の、可憐な花が握り潰されてしまったかのような、絶望に歪んだ顔だった。
無邪気で、ありがちで、きっと普通の人間の少女なら、誰もが一度は浮かべるような、苦さを伴った顔。
「私は……あなたのことを気に入っていた。気に入りすぎていた。だから……愛されたいと、願ってしまった」
普通の人間のように。
普通の人間が、恋をするように。
まさしく年頃の少女が、そうするように。
――耳を塞ぎたいと、内で悲鳴が上がるのをパウは感じていた。
このままでは、青い光が、ただの光になってしまうような気がして。
……そもそも自分が見ていた光とは、何だったのか――。
「……俺は、お前のことを大事に、思って」
ようやく出したパウの言葉は、ひどく弱々しかった。
本心だ。大事に思っていた。大事な光だった。
だから自分はきっと、彼女を愛して――。
「それは愛じゃなくて、信仰よ」
凛と、少女の声が響いた。上擦った声で、悲鳴に似ていた。
「だってあなたは、私を人間として、見なかったから」
ミラーカの青い瞳に、かつてあったような光が見られない。見えない。
青い髪も、青い液体に汚れて、艶やかさを失っている。
「思い出して、私は、一人の人間だった」
パウは思ったよりもずっと軽くて細かった彼女を見つめ続け、その言葉に殴られ続ける。
「一人の人間だったからこそ、あなたに復讐しようとしたの。私をこうしたものを、全て憎んだの。力が欲しかったの……救いを与えるつもりなんて、ないわ。そんな存在ではないから」
ただの、一人の人間だった。
少し正義感が強く、だからこそ兄を問いつめたことがきっかけで、おぞましい人体実験の材料にされてしまった、一人の少女だった。
パウは唇を震わせたが、ただ吐息だけが溢れた。自分がここに生きていることを、ここが現実であることに苛まれる。
こんなのは、おかしい。
どうしてこんなことになったのか、わからない。
ただ光があったから、ここまで進めたのに。
――これではまるで、それが幻だった、と、言われているようで。
「――いい気味ね」
そう笑ったミラーカの笑顔だけは、本物だった。
少女の声は、かすかな音色のように響き続けていた。
「最初は……本当に殺してやろうと思った。本当にあなたが憎くて憎くて仕方がなかった。どうして普通に死なせてくれないのかと、何回も思った。だから、初めてあなたの夢に出てやって、小指を切り落とした時、慌てふためくあなたは本当におもしろかった。ああこの程度で騒ぐんだなって。全てが終わった後、あなたはどんな風になるんだろうなって」
「あなたは才能があるのに臆病者で……そこは、あんまり褒められなかった。でもわかっていたわ、あなたが弱い人間だってこと。だから逃げ続けてるんだって。いつになったら、正面を向くのかと思っていた……」
「やっと正面を向いたのは……ゼフタルクでのことの後だったわね。それで少し、見直したし……忘れていたことを、私は思いだしたの。そういえばあなたは、臆病で疑うことの知らない子供っぽい人だったけど、その子供っぽさというか、純粋さから、人のためにと、考えられる人だったなって……だからこそ、グレゴから目をそらさなかったし……私からも、逃げなかった」
「ただ無茶しすぎだったのよ。私も……人のことは言えない。私がまだちゃんとした人間だった頃や、ベラーに拉致されたあなたを助けようとした時に……向こう見ずといってもいい行動をしたし、ね。でもあなたを助けようと思ったのは本当で……けど、がっかりしたの、あの後あなたが私に謝って。多分私はあの時……『ごめん』じゃなくて『ありがとう』がほしかった。これに気付いたのは、それからずっと後のことだったけど」
「その後からよ……あなたの、私を見る目が、気に入らなくなったのは。あなたは私に、何か別のものを見始めた。そしてあなたは……きっと、おかしくなった。だって、ゼナイダとの戦いで、みんな、私に怯えていた。なのに、あなただけは、違った。私は……きっと、それが少し、怖かった。あなたが、あなたでなくなったような気がして」
「……オリヴィアが、羨ましかった。彼女は、私と同じグレゴなのに『人』として見られていたから……私もそう見られたいんだって、彼女に出会って思い知った。そして……あなたに愛されたいんだって、気付かされた。でも、同時に、もう遅いってことにも気付いたの。だってあなたは……もう、説明しなくていいでしょう? それに私は……人間には、戻れない」
「――諦めようと、思ったわ。あなたと引き離されて、一人の間、ずっと。あなたは、本当にひどい人なんだって、そう思うことにして。でも……諦めきれなかった」
「私は……やっぱり、人間だったから。気持ちを、捨てられなかった」
「最後の賭けに出たのよ?」
深呼吸をして、ミラーカは目を瞑った。
「巨大なグレゴを喰らって、私自身から溢れ出た力が世界を塗り替えてしまうと気付いた時に、最後の賭けをしてみようと思ったのよ」
うっすらと瞼が開く。また青い液体が瞳から零れ落ち、床の水溜まりに滴った。
「私は、以前のあなたが……私のせいでおかしくなってしまう前のあなたが好きだったから……もし、私が世界をめちゃくちゃにしてしまうと言ったのなら、あなたは、止めてくれるのか、どうか。もし止めてくれたのなら……きっと、以前のあなたは、あなたの中に残っているってことで……それなら、まだ私にとっての希望は、残っているんじゃないかって」
けれどもパウは止めなかった。
世界がミラーカの夢に染まる。それは美しいことだと思ったから。
「あなたらしいあなたが好きだった」
つと、ミラーカは視線をよそに投げてしまった。そしてまた深呼吸をしたのだった。ひゅう、と喉を鳴らしながら。
「臆病で、そのくせ無茶ばかりして、でも正義感は強くて、まっすぐで、人のためのことを考えられる、あなたが好きで……愛されたかった」
――ミラーカの言葉の最中、パウは自分が息をしていたのか、わからなかった。
そして、これからどうしたらいいのかも、わからない。
大事な光だった。
彼女のためなら、何でもできたし、何でもしてきたつもりだった。
……だから、愛して欲しいと言われたのなら、そうしたかったが。
「――愛するって、何だ?」
わからない。
「愛って、何だ?」
わからない。
信仰と愛の違いがわからない。
――確かに、ミラーカを光と見た。ミラーカがいるからこそ進めた。
「お前が、いたから、進めたんだ。お前のためだと思えたから、できたんだ……」
――言われて、考えてしまったのだ。
――自分のこの感情の正体は、何だったのだろう、と。
「違うでしょう、パウ……あなたは私の導きで進めた。導きがあったからできた、そうでしょう……」
青い蝶は常に隣にいたものの。
ミラーカは常に、先を進んでいた。
先を歩いて導いてくれたから。
だから。
――実際は隣にいても「並んでいる」とは、思わなくなっていた。
もう何も言い返せない。言葉も、感情も見つからない。全てが崩れていく。ミラーカが満足そうにまた笑っているが、それもどう思ったらいいのかわからない。
何もかもが幻で。
何もかもが勘違い。
手を伸ばした光に実体はない。
あるいは――光だと思って近づいていったのなら、ただ暗闇に描かれた白い点だったか。
だからもう、何もわからなくて。
でも。一つ。
「でも……大事に、思ってた」
記憶は確かだからこそ、パウは言葉を漏らした。
一種の執着は間違いなくそこにあった。
ミラーカを大切に思っていた。
彼女が「信仰だ」と言ったのだから、それは愛にならないのだろうけれども。
「――それじゃあ、嘘でもいいわ。『愛してる』って言って」
ミラーカのその声は、先程の声よりもひどく弱々しくなっていた。
溢れ出る青い液体の勢いも、衰え始めていた。後もう少しで、全てがなくなってしまう予兆を見せつつ、緩慢に波紋を広げている。
――すぐさま、パウは乾いた唇を動かそうとした。
望まれたままに。
願われたままに。
命令されたままに。
けれども、動かなくなったのは――それは違うと、頭の中で、聞こえたためだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます