第九章(15) 目を覚ましなさい
青い花畑は、ただ静かに広がっていく。まるで水をひっくり返したかのように、部屋はミラーカの夢の世界に沈んでいく。止まることはない。枯れることのない水源から広がり、見ている世界全てを沈めていく。
甘い香りが、よりそこが、夢であるのか、現実であるのかわからなくさせる。ついに花畑は薄暗い研究室を埋め尽くす。あの巨大なグレゴがいた痕跡全てを覆い隠し、ほかのグレゴ達の血の跡も隠してしまう。夢は漏れて、今度は研究室の外に這い出ていく。
夢が、夢ではなくなっているのだと、やがてパウは感じ取る。
その花畑の青い花は、いままで夢の中で見てきたものよりも、青く輝いていたから。
「綺麗だ」
ミラーカに頬を触れられたまま、パウは呟いた。足下を見れば、長く伸び始めた蔓が足に絡まり始めていた。そこでまた花が咲く。
「どこまで広がるんだ?」
枯れないで欲しいと思った。
終わって欲しくないと願った。
「きっとどこまでもよ」
囁くような答えに、ああそうか、とパウは思う。
それなら、心配はいらない、と。
いつもは夢でしか見られなかった。しかし、いまはもう、夢に終わりがなくなったのも同じだ。
ミラーカはふわりと羽ばたいた。大きな蝶の羽が、波打つように輝く。人の手では作り出せない輝きがそこにあり、羽ばたきに光が散ったのなら、草原が波打ち、より植物が蠢いた。奇妙な草や低木が生え、そこにも青い花が咲く。その周りに、青い蝶の幻いくつもが羽ばたく。
「全部の蠅化グレゴを食べた……そうね、力の蛹とも言うべき、歪んだ存在十二体をね」
ミラーカは自らの手を見下ろす。白い手は弱々しく見えたが、光を纏っていた。
「だから、力が溢れて止められないのよ……いまならわかる、私の力は、世界のどこまでも広がっていくって」
「つまり……全部この綺麗な花畑になるのか」
それはいいことだと、思う。ここは居心地のいい場所なのだから。
どこからともなく、緩く風が吹いてくる。花弁と青い蝶の幻が宙に舞う。
それを赤い瞳で見送って。
ここは楽園なのだと、気付く。
ようやくたどり着いた、旅の終わり。
救いを得られる場所。
――花弁の一枚が、右手の小指を撫でていった。
「何を笑っているの」
と、淡々とした声が響く。
「元の世界が消えるということよ。私の力に押しつぶされてね……」
改めて見上げれば、ミラーカは顔をしかめていた。
けれどもパウに、それはもう見えていなかった。気付けなかった。
元の世界がこの花畑になるということは。
そこにあるもの全てが許される、救われる。そんな気がして。
多くの者が亡くなった。多くの場所がグレゴに荒らされた。
世界は混沌に乱れてしまった。おぞましいものだって、この旅の途中、何度も見てきたではないか。
それなら、と。
いっそ、染まってしまった方がいいのではないか、なんて。
――自分以外にも、救われたいと願ってきた人間を、沢山見てきたではないか。
「……」
ミラーカは黙っていた。口を結んで、パウを見下ろし続けていた。
音のない世界で、蝶の少女はただ青い光を纏って、宙に浮かび続ける。彼女を中心に、夢の世界は広がり続け、誰にも止めることはできない。
やがて、ミラーカは小首を傾げて笑った。青い髪が流れるように輝く。
「聞いて、パウ。私、いまなら何でもできるのよ。本当に何でも……いままで以上に、ね」
あなたのおかげね、と、蝶の少女は口の端をつり上げ、目を細める。
「あなたのおかげで……あなたへ、最高の復讐ができるわ」
ふわふわと、それこそ蝶のように宙を舞ったかと思えば、彼女はパウの背後に回り、そこでまた蝶の羽を羽ばたかせる。
羽が肌に触れたのなら、心地の良い冷たさがあって、また散る光をパウは受けて黙っていた。
ミラーカは続ける。パウの顔を覗き込むようにして。
「最初はいたぶって殺してやろうと思ったの。あなたは本当にひどい人だから。私が受けた苦痛を体験させて、それをずっと繰り返して……悪夢の中に閉じこめてやろうって」
「お前がそれを選ぶというのなら」
全てはミラーカの決めるまま。
そもそも今の自分は、ミラーカのもの。
――あの夜、誓ったではないか。
夢の中で、小指を切り落とされて。
「怖くないの? あなたは臆病者だったのに」
不意に、ミラーカがぐっと顔を近づけて尋ねてくる。
「何も――もう、何も」
ただただ、心は穏やかだった。
何も恐れることはないのだと、なるべくしてなるのだと、そんなことでいっぱいだった。
光の眩しさが、心地いい。
「……どんな罰でも、怖くないと言える?」
ミラーカは囁くように続けて尋ねてきた。瞳は唐突に、冷ややかさを帯びる。
空よりも澄んでいて、海よりも深い青色。
――その奥にあるものは、誰にも見えない。
「実は……とってもいい復讐の方法を思いついたの。何でもできるからこそよ。あなたがもっとも苦しむ方法よ」
「――何であれ、お前が与えてくれるものなら」
楽しみだとは、もちろんパウは思っていなかった。
ただようやく、与えられるべきものが与えられる。全てが正しくなる。
全てが、彼女の願いの通りになる。
そのことに、どうして恐怖しなくてはいけないのだろうか。
「そう……」
ふわりと、ミラーカが離れていく。上空に浮かび背を向けた彼女は、羽の力を少し抜いているようにも見えた。大きな羽。まるで背中を突き破るようにして生えたそれは、まさしく背中に大きな切れ目を作って生えていて、羽の合間からは中も見えていた――そこも、青い。まだ人の姿に近いとはいえ、人間らしくないそこ。
だからこそ、より人ではないのだと、思える。
人よりもずっと美しく。
――ずっと神聖。
「そう、なのね……」
ミラーカが振り返ったのなら、また髪が波打つように揺れた。蝶の羽からも、光がはらはらと零れ、雫のように落ちていく。光は蝶の幻に変わり、それぞれ草原を自由に飛んでいくものの、やがて空気に溶けるように消えてしまう。
「それなら……あなたは知るべきよ……私の想いを。私の怒りを。私の恨みを。私の苦痛を。私の絶望を」
ただ、ミラーカの羽から光が消えることはない。
その身に纏う青色も、褪せることはない。
きらりと輝いた瞳は、まさにパウを射抜くほどの鋭さを秘めていたものの、パウはそれをただ受け止める。その場から動くこともなく、杖を持った手に力を入れることもなく。
目を瞑ることもない。
光を浴びる。受け入れる。
「受け止めて――現実を」
声を聞き、名前を呼ぶことも、もうしない。そんなものは、もう必要ない。
やがてゆっくりと瞼をおろせば、自然とパウはうなだれた。
そうするべきだと、無意識に思ったから。
けれども。
「いいえ、違うわね――パウ、目を覚ましなさい」
妙な言葉だと、瞼を震えさせる。
どうしてか、頭を殴られたかのような感覚があった。実際には殴られていないし、それ以外の何もされていない。
けれどもそのミラーカの声は、どこか悲鳴じみて聞こえて、彼女らしくないと、反射的にパウは顔を上げた。
それこそ、冷や水を浴びせられ目を覚ましたかのように。
「私はあなたを救わない」
彼女はまだ、そこにいた。
「許すなんて言わない」
光は消えることもなく、あの青色も変わることはない。
蝶の羽だって、美しかったのだ。
「あなたにとっての――光にはならない」
ところがその彼女の顔は、いままでに見せたことのない顔だった。
まるで。
まるで一人の、普通の少女のような、純粋無垢な顔。
そんな顔で、ミラーカは。
――笑った唇の隙間から、青い液体を流れ出させる。
白い肌を伝って、床に滴ったそれは、床に広がった時にはもう、黒いだけの液体となっていた。
成長するかのように広がり続けていた草原が、不意に凪ぐ。時間が止まったように、動きを止める――色褪せる。
色褪せたのなら、黒く染まり、ぐずぐずと焦げるかのように、あるいは溶けるかのように崩れていき、果てに何も残らない。現れたのは元の床。巨大なグレゴが死んだ痕跡も現れ、草原はそれこそ幻のように消えてしまった。
残ったのは、元の研究室と、パウと、ミラーカ。
そのミラーカの羽すらも、先からどろりと溶け始め。
――ごぷ、と音がする。
ミラーカが笑ったまま、青い液体を吐き出した。吐き出されたそれは最初こそ青かったが、すぐに輝きを失い黒くなる。
口からだけではなく、目や鼻からも溢れ出てきたそれは、もしも青色でなかったのなら、血に見えたかもしれない。
宙で体勢を崩したのなら、ミラーカはゆっくりと墜落した。
その瞬間は音もなく、パウは夢を見ているのではないかと思ってしまった。
――先ほどの草原と違い、今度は青い液体が床に広がる。端からじわじわと黒く染まっていくそれの中央には、溶けかけた蝶の羽を持つ少女が倒れていた。
「いまなら不可能だったことも、可能になる」
青い液体の中で、少女はまだ液体を吐き出しながら言葉を紡ぐ。
「不死身の怪物でも、一人で死ぬことができるのよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます