第九章(14) どんな罰でも
* * *
――無数の怪物の声が、薄暗い中に聞こえる。
なんとなく、パウは初めて「グレゴ」と呼ばれるものを見せてもらった時のことを思い出していた。
あの時は、共食いの様子に吐き気を覚えてしまった。
けれどもいまはもう、吐き気はない。
だが、目の前にある光景は、あの時と同じような状況で。
――ぐちっ、ぐちっ、と身の毛がよだつ音が響いている。それにあわせて、芋虫の奇怪な悲鳴が上がる。
徐々に減っていくそれは、ついに最後の一つを奏でたのなら、もう何も聞こえなくなる。
――身体を引きずるようにあたりを散らし、そこにいたグレゴ全てを、あの巨大なグレゴは貪り尽くしてしまった。
それにしても、随分醜いなと、パウは薄暗い中を睨む。
プラシド達の手に渡った際、ユニヴェルソ号の中で一度見たが、いまはどうしてか、まるで萎れたように見える。大きく膨らんでいた腹は避け、どろどろと、異臭のする何かを滴らせている。巨躯に対し毛のように細く儚い脚は意味を成さず、そのグレゴは、まさに芋虫に戻ってしまったかのように這って、次に喰らう命を探し求めていた。
元は人間であるものの、かつて、神に至る秘密を孕んでいるのではないかと思われた存在。
だからこそ、この秘密を探ろうとした者がいて、またこの存在そのものが神だという者もいたようだが。
「……ひどい有様だな」
そこにいるのは、腹の皮をずるずると引きずりもがく、ただの虫に見えた。
醜いだけのそれ。
故に、救わなくてはいけないそれ。
神聖なものには見えない。尊ぶべきものにも見えない。
それでも。
青い光が、救ってくれる。
目の前にあるのは、ミラーカに捧げる、最後から二番目の命。
ぎぎぎ、と絞り出したかのような声を漏らして、最後のグレゴが蛇のように鎌首をもたげる。振り返ったのなら、複眼にパウと――その背後にいる青い蝶の姿が映った。
牙のある口から、不意にぼたぼたと涎が垂れ始める。まるでごちそうを目前にしたかのように。
本能的に、わかっているのかもしれない、とパウは見上げる。
どうやら弱った様子のグレゴだが……グレゴを喰えば、失われた力を取り戻せるのではないか、と。
そしてミラーカは、強大な力を持つ存在であるから、きっと。
――グレゴの周囲に、魔法の水晶が出現する。細いものの、切っ先は針のように鋭い。それが一気に放たれる。パウとミラーカへ向かって。
魔法を使うのか、なんて、思うこともなかった。
ただパウはかすかに目を細めたのなら、複数の魔法陣を周囲に展開する。魔法の水晶を打ち出し、迎撃する。追加でグレゴに向かって水晶を放てば、歪な悲鳴が上がって、もはや虫らしくもない怪物が身悶えした。あたりに飛び散ったのは、血よりも赤い何かで、しかしそれはじわじわと黒く染まったのなら、グレゴ特有の腐臭のする血となる。
そうしてパウは気付く。
ベラーがきっと、何かしたのだろうけれども。
――目の前にいるのは、いままで出会ったグレゴの中でも、もっとも弱い存在かもしれない。
かつては強大な力を秘めていたかもしれないが、いまはもう、見方によっては、頭だけの存在。
しかしパウは気を緩ませることはなかった。あたかも儀式的に、グレゴへ再び水晶を放つ。
――声のようでない、グレゴの「声」が響いたのはその時だった。
あぶくを漏らす口が、大きく開いたかと思えば、水晶がその身体に突き刺さる前に、その声が発せられる。波紋のように広がるそれは、世界を揺らす。反響によって実際に世界を揺らしているわけではなかった。あたかも存在を、概念を揺らしているかのような声で、襲い来る頭痛に、パウは耳を押さえてしまう。それでも顔を上げていたから、見えた。薄暗い研究室内になる、あらゆる器具、壊されたグレゴの檻が、まるで動物や植物のようにぐねぐねと動き出すのを。
何が起こっているのか、わからない。
ただ――変化させている。それだけは確かだ――。
と、不意に視界が青い光に包まれる。
――ミラーカ、と唇だけが動いた。
「……あいつの力。世界を『変える』力」
目の前で羽ばたく青い蝶の輝きが大きくなれば、グレゴの声は遠のいていく。
「ミラーカ」
今度こそ、パウは光の名前を口にした。
「……大丈夫、あいつに、私の世界は、変えられない――」
青い光が、花開く。グレゴの声を、広がりかけていた怪物の世界を、押し返す。
あたりはその色に包まれた。
その色の、美しさ。光に満ちた場所。
ただパウは微笑む。微笑んで、目の前の光に手を伸ばすようなことはしない。
照らしてくれているから。そこに確かにいるから。
――グレゴの悲鳴が聞こえる。光が治まってきたのなら、まるでミラーカから逃げようとするかのように、のたくり回りながら研究室の奥へ逃げていく。
その様子は、本当に死にものぐるいで。
虫や動物よりも、人間の持つ、必死さがそこに見えて。
しかしパウは、かつかつと先に進む。グレゴを追う。進みながら魔法陣を構えれば、細い水晶を放つ。
まず穿つは、怪物のだらしなく伸びた腹の皮。それを床に縫い止める。
けれどもグレゴは、歪な悲鳴を上げてもがき、その皮を破いて先へと逃げてしまった。残された皮は黒ずんだかと思えば、ぶすぶすと溶けて漆黒の液体になり、蒸発していく。
だからパウは再び魔法を構えるものの、唐突にグレゴが振り返ったかと思えば、あの声を発する。
もうパウは耳を塞ぐようなことはしなかった。その声を受けても、存在は揺るがない。
ミラーカがいるから。
自分の全てはミラーカのためにあるから。
「グレゴは……お前で最後なんだ」
構えた魔法も揺るがない。集中したのなら、膨大な魔力がそそぎ込まれた水晶が放たれる。通常の魔術師であれば、一度に扱うことが不可能である量。そもそも保有すらできない量のそれ。生み出された水晶は、青い輝きを紫に変えながら宙をかけ、グレゴの口に突き刺さった。
空気を震わせる悲鳴が上がる。紛れもなく、ただの声、ただの悲鳴。
しかしその声を上げると同時に、グレゴも魔法、あるいは魔法によく似た何かを放ってくる。小さいものの、鋭さを帯びた礫。その速度は速く、瞬きをしている間に一つがパウの脇腹をかすったが、擦り傷ができた、その程度で。
「俺のせいでこうなってしまったこと……それは、悪く思う」
かすかに流れ出た血は、拭うに値しない。
そこからもう、パウは先に進まなかった。それで十分だと、思ったから。
見据える。最後のグレゴを。そして振り返れば、青い蝶がそこにいる。
だから、眼鏡の奥、片方しか見えない赤い瞳で――グレゴに笑う。
「だから……ここで終わりにするんだ」
目の前にいる、弱り切って怯えている、図体だけが大きく醜いそれに、魔法陣いくつもを展開する。放つのは、紫色の光を帯びた水晶、いくつも。出し惜しむことなく、逃がさないように――否、取りこぼさないように、グレゴの身体を縫い止める。その巨躯を床に打ち付ける。持ち上がった首を壁に押さえつける。最後に頭に、一本を貫かせる。
短い悲鳴が上がった。本当に短い悲鳴で、まるで小動物のもののようだった。
しばらくの間、グレゴはひくひくと動いていた。黒い血があたりに広がり、海を作り始める。その血は最初こそ、もぞもぞと意思を持っているかのように動いていたが、グレゴの動きが緩慢になり、ついに止まったと同時に、血の動きも止まってしまった――じわじわと、パウとミラーカに迫ってきていた。けれども、届くことなく、ただの液体になってしまった。
最後のグレゴとの戦いは、今までのどの戦いよりも、あっけなかった。
先にベラーが戦い、弱らせていたこともあっただろう。それにしても、とパウは動かなくなったそれを改めて見つめる。
随分と臆病な個体だったと、思う。
恐怖に歪んだ悲鳴が、耳にこびりついている。
まるで命乞いをするかのようで、そのさまは……人間にも似ていて。
元は人間だから、そうなるのも、おかしくはないのかもしれない。
このグレゴは、多くの蠅型グレゴを吸収してきたが――結局は、何者でもなかったのかもしれない、なんて。
ただ、青い光が通り過ぎたのなら、その考えは消え去ってしまう。
全てを救ってくれる。その光がグレゴに近づく。
光に照らされても、グレゴは目を覚ますことはなかった。目の前までミラーカが来たのなら、その頭は不意に縮み出す。身体も溶けるかのように縮み、異臭が強く漂う。あたりを海にしていた黒い血すらも蒸発していく。
ミラーカが食べている。
グレゴを食べられるのは、グレゴだけ。
グレゴを殺せるのは、グレゴだけ。
――しかしその青い光は、いままで見てきたグレゴ、どれとも似つかなくて。
だからこそ、思う。
この光は、特別なのだと。
「……ミラーカ」
全て食い終わったのなら、残ったのは、巨大な黒い跡だけ。
そして――青く輝く蝶だけ。
手を差し伸べることもなく、パウは青い光を見上げていた。
――青い光は、渦巻き、大きくなる。蝶の影は光に呑み込まれ、見えなくなってしまう。
「……これで」
青い光が膨張するかのように大きくなり始める。その中で、新しい影が見え始める。
それは、人間によく似た姿で。
しかし背中には、あの青い蝶の羽を持っていて。
「これで、全てのグレゴを食べたことに、なるわね……」
羽化するかのように、光の中から少女の姿が現れる。ふわりと浮いた彼女は――夢の中でしか見られない、黒い素足に青い髪を持つ少女ミラーカだった。
しかしここは間違いなく現実で、いまの彼女の背には、まるで肌を裂いて突き出したかのような蝶の翼がある。よく見れば肌の表面にも、青色の文様が走っている。パウへ伸ばした手にも、青い光が、血管のように走っていた。
ああそれでも。
美しい、と。
微笑んで、パウは見上げる。両手が伸びてきたのなら、ひどく冷たい手が頬を触れてくれた。
「ベラーへの復讐の手伝い……そして全部のグレゴを喰わせてくれるという約束……守ってくれて、ありがとう」
――ミラーカを中心に、世界が揺らぎ始める。
揺らいだのなら、無機質な床は草原に変わる。青い花の咲いた草原の片鱗。あの、夢の中でしか見られない草原のかけら。
それが、ミラーカを中心に、じわじわと広がっていく。あたかも、ミラーカの夢が溢れて、現実を変えていくかのように。
夢と現実が、反転し始めている。
いまが現実なのか、夢なのか、わからなくなってくる。
しかし確かなのは。
「あとは、あなただけよ、パウ」
空のような、海のような青色の瞳に射止められ、パウは動けなくなる。
「私をめちゃくちゃにした人。たくさんの苦痛を与えて、おまけに道具にした人……あとは、あなただけ」
これが、彼女に捧げる、最後の命。
それでよかった。
そのために、ここまできた。
「……どんな罰でも受ける」
贖いは、救いとなるのだから。
この青色は、自分を許してくれるというのだから。
だから、ただ嬉しくて。
――口にしたのなら、ミラーカが笑ってくれた。
それも嬉しく思えて、パウは微笑み返した。
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