第九章(13) ■■■■■


 * * *


「――そう、か」

 かすれた声でベラーは笑う。その瞳に、かつて自分を師匠と仰いでくれた魔術師と、元は妹であった青い蝶を映して。

「生き返った、か……」

 ただ嬉しそうに。

「……その蝶のおかげ、と、言うよりも……君だからこそ、生き返ったというのが、正しいかもしれないね」

 そんなベラーに、パウはゆっくりと歩み寄る。表情にあるのは、驚愕と絶望に似た何かで、かつて滲ませた怒りはどこにも見られなかった。それでもパウは、ベラーを見下ろし、辺りをもう一度見回して、

「お前……いったい、いったい何をしたんだ!」

 ――ベラーはひどく弱っている様子だった。いまなら、その『穢れ無き黒』という異名の元となった黒水晶も作れないだろうと思えるほどに。

 だからパウにとっては、絶好の機会と言えた。

 自分を裏切った師への復讐の。そしてミラーカが望む復讐の。

 だが、身体が動かない。それどころではないと、頭の奥で悲鳴が聞こえていた。

 ミラーカも急かすことはなかった。パウの背後で、ただひらひらと宙に舞っていた。

「どうなってるんだ!」

「……あのグレゴに負けて、死にかけているところだよ、パウ」

 パウの怒声に、ベラーはまるで他人事のように答える。短く息を吐いたのなら、血がその唇の隙間から零れ出た。

「でもよかった……パウ、君が来てくれて。君が生き返ってくれて」

 研究室の奥から、低い音が響いてくる。はっとパウは顔を上げるものの、ベラーは表情一つ変えずに、笑ったままだった。

「……どうして、あのグレゴを?」

 再びベラーを見下ろし、パウは尋ねる。

 相変わらず、この男が考えていることはよくわからなかった。

 不老不死を目指したのではないのか。神に近づこうとしたのではないのか。

 あのグレゴから、神の秘密とも言えるべきものを探ろうとしたのではないのか。

 そうであるのに、何故。

「くだらなくなっただけだよ、だから、片づけてしまおうと、思ったんだよ」

 ――やはり、ベラーのことはよくわからなかった。

 気分屋なのか、何か深く考えているのか、それともその逆か。

 パウは何も言えずにいた。ミラーカも、自分を道具のように扱い、多くの苦痛を与えた復讐するべき相手の一人を前にしているにもかかわらず、何も言わない。

 その沈黙が、パウには不思議に思えた。ミラーカも何を考えているのだろうか――そう思ったのは、久し振りな気がする。

「パウ」

 不意にベラーが名前を呼ぶ。片足も血も失い、もう立つこともできない魔術師は、片腕だけを上げた。差し出すようにパウへ伸ばす。

「パウ」

 二回目の呼びかけで、ようやくパウは応じる。もうベラーに、何かできる様子はない。だから目の前まで進み、そこで屈む。いまにも途切れてしまいそうな吐息が聞こえる。

 目があったのなら、よりベラーは微笑んだ。

 幼い日の記憶が、その瞳の輝きの中に、ちらついたような気がした。

「私は」

 冷えた手が、パウの手を掴む。そこに力はもうない。掴むと言うよりも、触れているような状態だった。

「私は、ようやく、自分が欲しかったものを、理解できた気がするよ――」

 唐突に、その手に力が入った。どこにそんな力が残っていたのかと、疑問に思うほどの力が。

 重ねるようにして、パウの手を握ったベラーは、近くにあった瓦礫をパウに握らせた。歪な形をしたそれは、しかしナイフのような鋭さを秘めていた。それを、パウの手が切れてしまうのも気にせず握らせて、切っ先を向かわせたのは――自らの腹。

 肉を突き刺した感覚が、手からパウの全身に迸る。溢れ出た暖かな血が、パウの手を染める。

 反射的にパウは手を引こうとしたが、ベラーに両手で握り込まれてしまえば、手を動かすことはできない。鋭い瓦礫を手放すこともできず、ただそれ以上刺さらないように抵抗することしかできなかった。

「あんた……いったい、何を……!」

 パウの声は自然と震える。

 ベラーは。どうしてか、わからないものの。

 ――自分に殺させようとしている。死を望んでいる。

「あんな虫のせいで死ぬなんて、と、思って、いたんだ……」

 ベラーの手の力が緩むことはない。

「……君に、君に全部を終わらせて欲しい」

 冷えた手は、力んで震えていた。だがパウは抵抗し続ける――それが望んだことであったといっても。

 その瞬間、何かが違うと、思ってしまったから。

 これが復讐になるのか。これがミラーカの望むものになるのか。

 そして――やはりベラーが何を企んでいるのか、わからないから。

「もう、これしか残っていないんだ、パウ。これすらも失われたと、思っていたんだよ」

 ただ、かすれたベラーの声は、いままで聞いたことのない声で。

「――お願いだよ、パウ、どうか」

 ふと思い浮かぶ、出会いの日のこと。

 救われたといっても違いない、あの日のこと。

 息を呑む。目を瞑る。

 いま重なっている手は、あの日のものと、状況は全く違う。あの日、自分の手を握って一緒に歩いてくれた、その時と。

 けれど、間違いなく、その手は、あの日のものと同じで。

 ――瓦礫を握るパウの手に、力が入った。

 命が貫かれる音というものを、パウははっきりと聞いた。深々と、瓦礫はベラーの腹に突き刺さる。たちまちパウの手が深紅に染まり、まるでパウの手ごと、内臓に突き刺さったかのようだった。

 パウの意思だった。その瞬間、力を入れたのは、間違いなくパウの手だった。

 ……ぐったりと、ベラーは前に倒れるようにして、パウに寄りかかる。

 その時、ベラーの唇が動くのをパウは見た。声は聞こえない。もうその力も残っていなかったのだろうが、最期に何かを伝えようとしていた。

 ありがとう、だったかもしれない。

 ――愛している、の形にも見えた気がする。

 いずれにしても、もうわからない。ずるりと、ベラーの身体が倒れかける。それをパウは、そっと支えて、元のように壁際に寄りかからせる。

 息はもうしていない。動かない。そっとパウが手を離しても、もうベラーの手は追ってこない。

「……何を考えてるのか、最期まで、わからなかった」

 ふらふらと、パウは立ち上がり、上擦りかかった声を漏らす。

「――私にも、わからない」

 そこでようやく、ミラーカが声を発した。ふわふわと羽ばたけばパウの肩に留まる。

「頭がおかしいのは、確か。でも、それ以上は、私にも、わからない」

 その言葉に、パウは改めて、ベラーを見下ろす。

 もしかすると、この人は誰にも理解できないのではないか、と。

 だから苦しんでいるようには、決して見えなかった。理解してほしいようにも、見えなかった。だが。

「……もしかすると、助けてもらいたかったのかもしれない」

 最期の懇願は、救済を求めていた。

 そんな声だったから。

 もう一度、ベラーに手を伸ばしたくなったが、やめた。そうしたところで、もう意味はないし――事実を忘れたわけではない。

「俺を騙した人だった。これで……復讐は終わった」

 ずっと、利用され続けてきたのだ。

 いまの最期だって、利用されたといえるかもしれない。

 ――しかし最期は、間違いなくパウの意思による行動だった。

 ところがそれは、復讐のための行動とは言えないと、感じていた。

 釈然としないまま、パウはベラーを見つめ続けていた。この男のこともわからないが、自分のことも、わからなくなってきている気がする。

「――私がこうなる発端の人だった」

 と、ミラーカがパウの肩から離れ、ベラーの前で羽ばたく。

「変ね、すっきりしないわ……理解できないせいかしらね」

 それに、と、青い蝶は続ける。

「それに……こいつだけは、何か理解したみたいで、腹が立つ」

 その通り、ベラーはひどく穏やかな表情で死んでいた。いい夢でも見ているかのような顔で、一見、死んでいるとは思えない表情だった。

 ――青い蝶が、闇の奥へ進む。

 しばらくパウは立ち止まってしまっていたが、やがてその光を追いかけた。

 青い光の願いは、復讐は、まだ終わっていない。

 ただ、贖いの旅の終わりは、もうすぐそばにある。

 ――最後のグレゴがこの先にいる。

 ――そして最後の命はここにある。

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