第九章(12) これで二回目ね
* * *
ベラーがフォンギオと、そして巨大なグレゴと戦う、少し前。
――透明なケースの中、青い蝶はただじっとしていた。
何かを待つように、あるいは溜めているかのように。
……空気が震える。地下全体も震える。あの巨大なグレゴが暴れていることは、誰にでもわかった。その中で、青い蝶は目を覚ましたかのように、深くも鮮やかな青色を動かし。
――ぱきん、とケースにひびがはいった。亀裂は徐々に大きくなり、破片は外へこぼれていく。
ついに小さな隙間ができたのなら、青い蝶はそこから這い出る。亀裂の尖りに、羽が引っかかる。青色が布のように裂け、隙間を何とか抜け出そうとした細い足も、ぷちりとちぎれるものの、やがて青い蝶は紙切れのように机の上に落ち、そのまま転がるようにして赤い血の上に落ちた――そこで死んでいたトリーツェンの血溜まりだった。
青色はすっかりその赤色に侵されるように染まる。だが徐々にきらきらと輝きだし、
「――パウ」
青い蝶が、宙に舞い上がる。血を払い、改めてその青色を身に纏って。
――抑制の魔法薬の効果が、ようやく切れた。
「パウ」
ミラーカは部屋を出る。向かうべき場所はわかっていた。彼がどこにいるのか、わかっていた。
「パウ」
そして彼がどうなっているのかも、わかっていた。
「パウ」
けれども、名前を呼び続けて。
「――パウ」
瓦礫と血の海の中、動かなくなっている彼を見つける。冷えた身体に生気はなく、彼は青い蝶に答えない。かつてはあれほどに答えていたのに。それが使命だと言わんばかりに――応じていたのに。
このままにしておく方が、幸せなのかもしれない。
なんて。
それは自分にとってなのか。
彼にとってなのか。
ただ、それでも。
「パウ」
――憎いと思う気持ちを、忘れたわけではなかった。
冷たい彼の胸元に、ミラーカは降り立つ。青い羽の輝きを、より大きく広げて。
「起きなさい、パウ」
呼吸をするように羽を動かす、もはやそれは羽というよりも、まるで手のように、先端がパウの頬に触れる。
青色の輝きが宙に漂い出す。その光を受けて、広がっていた赤色の血も、青に染まりゆく。
「いつまで寝てるの。起きなさい」
輝きの中、一人の少女の姿が揺らぐ、死体に覆い被さるようにしている彼女は、額を死体に寄せる。長い青色の髪が、二人の表情を隠す。
「パウ、こんな風に死ぬことは、許さないわ―――」
私がもっとひどい目に遭わせてあげるんだから。
――ひゅっ、と。
冷えていた身体がびくんと跳ね上がり息を吸う。そのままがくがくと震え始め、やっと青い蝶はその身体から離れた。
動きだした身体は、震えるままに寝返りを打ち、手足をついて四つん這いになったかと思えば、嗚咽を漏らした。そして口から吐いたのは、血でも吐瀉物でもなく――青い液体。青く輝く、人から出るとは思えないもの。それをパウは、口から、そして目からも流し、青く染まり始めていた血溜まりを、より青色にしていく。傷口からも、まるで血の代わりのように青色が溢れていた。
しばらくして、パウの吐く液体に、血の色が戻り始めた。傷口をみれば、すっかり塞がっていた。
「――何? 何、が……」
ようやくパウは言葉を発し、また一度、げぽ、と血を吐く。嘔吐はそこで終わって、涎や涙を拭う。
「――俺は、負けて……死んだ、んじゃ……」
その時のことを、パウは憶えていた。だから胸に手を伸ばすが、そこに致命傷となった傷はもうなく、服が破れていただけ。ただ血の色と青色に汚れ、黒ずんではいる。
夢を見ているのかと思うものの、全身を巡る奇妙な感覚が、夢ではないと告げている。そして、目の前の青い蝶の輝きも――間違いなく本物だった。
「ミラー、カ……」
手を伸ばせば、青い蝶はそこにとまってくれる。光の温かさも確かで、思わずパウは溜息を吐く。
この光を追って、ここまで来たのだ。
この光に導かれ。この光を助けるために。
「……これで二回目ね」
不意に青い蝶は指から離れて言う。
「……二回目?」
「そう……死んで、生き返ったのは、二回目」
――パウは怪訝な顔をせざるを得なかった。
すると、ミラーカはふわふわとパウの周りを舞って、
「運が良かったわけでも、奇跡でも、ない」
「一体何の話だ……?」
「――研究所の、崩壊」
グレゴ研究所の崩壊。自分以外に生存者はいなかった。
自然とパウは目を丸くする。
ただ、運が良かったのだと、思っていたのだ。運良く自分は生き残れた。
しかし思い返してみれば、目が覚めた時、青い蝶がそこにいて。
「あの時……私にも、よくわからなかった」
ミラーカは瓦礫の山へ飛んだかと思えば、そこにあったパウの杖に止まった。
「でも、死なせたくない、そう思ったから」
「……あの時から、そんな力があったのか……?」
傍らに落ちていた眼鏡をかけ、ふらふらとミラーカを追って、パウは杖を拾い上げる。杖としてまだ十分に使えた。
「あの時は、それきり。完全にも、治せない」
あの時の事故の後遺症は、あまりにも大きかった。足に、片目、それから魔力。
それでもミラーカのおかげで、生き返ったのだ。
当時、実感はなかったものの。しかしいまこうして再び生き返って、実感する。
確かにおかしかったのだ。自分だけが、生き残るなんて。
そしてあの『遠き日の霜』が生存者一名を見逃してしまうなんて。
「……いまなら、足も、目も、治せる。全部、よくできる」
肩に止まったミラーカが囁く。しかしパウは頭を横に振って、
「そこまでしなくていい……これは……俺の罰の一つとして背負いたいから」
そこでパウは、一度口を噤んでしまった。ふわりとミラーカが肩から飛び立ち、彼の前で羽ばたく。
「……ごめん、ミラーカ」
やがて、俯いたパウは声を漏らす。あたかも、こうべを垂れるかのように。
「ベラーに……負けた。それだけじゃない、助けにきたのに……助けられた。俺は、お前にしてもらうんじゃなくて、俺の方が、お前に尽くさなくちゃいけないのに」
ようやくミラーカと再会できたのだ。
いまなら、手を伸ばせば青い光に触れられる。
しかし罪悪感と申し訳なさが、細い鎖のように身体を縛る。お前は何をしているのだと、槍が身体を貫いている。
「……あなたがここまで来てくれただけで、十分」
ミラーカの声も、淡々と聞こえて自分を苛む。
ずん、と、低い音が響き、空気が揺れる。ぱらぱらと瓦礫が崩れ、天井からもいくらか瓦礫が降ってきた。地下が揺れている。
「……壊れるのか? 『大樹塔城』はかなり頑丈に作られているって聞いたけど」
まさか、自分とベラーの決闘で? そんな風にパウは考えてしまうものの、ミラーカは彼の横を通り過ぎ、廊下の一つへ向かった。
「巨大なグレゴ」
――『光神蟲』と呼ばれたグレゴの存在を、パウも思い出す。ここには、そいつもいるのだ。
「ベラー、何か、企んでる」
青い光は先を急いで暗闇を進んでいく。パウも杖をつき追った。
「……今度こそ、殺さないと」
この先にベラーがいるというのなら。青い輝きの前に、パウは立つ。ずれた眼鏡をかけ直し、片目しか見えないその赤い瞳で、先を睨む。
「お前のために。俺も、借りがあるんだ」
と、その瞳はふわりと振り返って、
「それで最後に……グレゴを、お前に食わせるから」
それが許しを得るための、救いを得るための約束だった。
ミラーカは黙って羽ばたいていた。青い光は、どこまでも透き通っていて、その奥に深淵が見える。黙っていた蝶は、不意にパウの隣に並ぶ。
「それよりも、感謝して」
「……えっ?」
急にそんなことを言われてしまえば、パウは足を止めるしかなかった。ミラーカは、まるでじゃれるかのようにパウの顔の前で羽ばたく。その眼鏡を、頬を叩くかのような勢いだった。
「生き返らせたこと。何も言ってない」
「あ……ああ……」
確かに、ミラーカに助けてもらったのだ。パウは俯いて、
「ごめん」
「……ちがう」
きりりとした声は、蝶のふわふわした声とは思えなかった。
どこか苛立ったような、それ故に、まだ世界を知らない少女のようなもので。
「謝ってばかり」
青い蝶は、そのままひらひらと先に進んでしまう。それ以上は何も言わず、ただパウから距離をとっていく。
パウは何も言えず、その後を追うしかなかった。
――そして、その先の大扉をあけて、見つけた。
どろりと溶けたような部屋。何かが激しく暴れた後。
片足を失い、壁際にぐったりと座り込んだ宿敵の姿を。
自分を騙した者。だからこそ追い続けたもの。贖いのため、献上するべき命。
嘘でも、かつては優しく接してくれた人。
「――師匠」
思わず、そう呼んでしまうほどだった。
死にかけているのは明らかだった。それでも彼は、ふと笑ったものだから、パウはのどの奥のひりつきを感じずにはいられなかった。
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