第九章(11)  師匠

 とっさにベラーは再び耳を塞いだが、グレゴの声は一切弱まることなく、染み込んでくる。目眩がする、平衡感覚が失われる。フォンギオだった水溜まりを見れば、様々な色に変化しながらうねり、何か生えたかと思えば崩れて、また別の形を作っては溶けていく。まるで粘土のようにも見える。元あった姿を潰し、新しいものを作り上げようとしているかのような。

 ぐにゃりと、視界が歪んだ。

 その中でも、ベラーは魔法を放とうとするが、展開した魔法陣すらも飴のように溶けて滴った。無理矢理水晶を作り出し放とうにも、その水晶すらも溶けてしまう。

 しかし徐々に、グレゴの声が小さくなり始めた。それに気付いて、再び手を構える――その手は、溶けて指の形がわからなくなっていた。

 だが、こんな虫に、好き勝手させるつもりはなかったから。

 許せなかった。

 感情と燃え続ける意思が、まるで自分を思い出させるように、輪郭を整えていく。いびつではあるものの、手の指が戻ってくる。感覚も戻ってきて、内に流れる魔力を感じたのなら、よりベラーは輪郭を取り戻す。

 こんな醜い「神」の声に、屈するものか。

 己を取り戻したかのような魔法陣から、水晶一つが放たれる。まだ十分でなく、黒色には染まらなかった。ただの魔術師が扱うのと同じ色をした水晶は、溶けながらも巨大なグレゴに飛び、目玉に刺さった。

 ――奇妙な声が止み、苦痛の悲鳴に変わる。ただの騒音となった声に、部屋全体が震える。

 瞬きをしてベラーがあたりを見回せば、あらゆるものが溶けていた。フォンギオだったものは、更に広がっている。魔法器具の多くも溶け、グレゴを閉じこめていた魔力による檻すらも、いびつな造形物と化している。グレゴを拘束していた魔法道具も、いまだ宙に浮いてはいるものの、熱で溶けたかのように変貌していた。

 傷を負った目玉から黒い血を噴き出させるグレゴは、しばらく悲鳴を上げつつ頭を振っていた。檻が壊れたいま、巨躯は大きく揺れたのなら転がる。いまだに拘束している魔法道具が、引っ張られていく。と、腐臭のする黒い血の勢いが治まってきたかと思えば、目玉はほぼ再生しかかっていた。

 やはりただのグレゴなのだ。どんな力を得ようとも、それは人間による研究と実験の果てに生まれた、人工のものでしかない。

 その血が証明している。グレゴ特有の、あたかも、生きているものの死んでいることを告げるような、腐った臭いのする血が。

 それが神になろうなんて。

 ――取り出した新しいグレゴ抑制魔法薬は、姿を変えてしまっていた。元は深紅の果物のような丸い魔法薬だったものの、大きく歪んでしまっている。だがまだ魔法薬として使えそうだった。中身が変異しているかは、わからないものの。

「人の手で生まれたお前が、人の手で死ぬというのなら……お前はやはり、ただの怪物だったということだ……」

 あるいは。

 グレゴを生むきっかけとなった魔法薬を作り上げた魔術師――それを創造主と考えて。

 創造主により生まれた怪物は、同じく創造主の研究をもとに生まれた魔法薬で死んだのなら――やはり怪物はそれだけの存在でしかないし、当たり前のことが、当たり前に起きた、ということになる。

 ……魔法薬を浮かせる。魔法陣を展開して、打ち出しにかかる。

 ――回復しきっていないグレゴに、その深紅はいとも簡単に突き刺さった。

 星のように放たれたそれは、巨大なグレゴの、脇腹と呼ぶべき場所にめり込んだ。グレゴの漆黒の巨躯に対し、あまりにも小さな深紅は、中身全てが流れ込んでしまえばもう見えなくなってしまう。それをベラーは見届ける。見届けて効果を待つが――ぐい、とグレゴが相貌をこちらに向けてきたかと思えば、宙に巨大な水晶いくつもが出現する。見てわかる、先程よりも優れた魔法に出来上がっていることを。どうやらこのグレゴは、魔法を使うほどに、そのコツを掴んできているらしかった。

 しかし所詮、魔法にすぎない。ベラーは集中し、黒水晶の壁を作り上げた。飛んできたグレゴの水晶は、やはり普通の魔法と同じく、その壁に触れる前に崩壊し溶けていく。

 ところが、またグレゴが吠えたのなら。

 ――黒い壁はどろりと溶けて消えゆく。こればかりは手の打ちようがない。できることと言えば、耐えることだけ。奇妙な咆哮に、頭の中が溶けていくような感覚もある。この怪物を殺さなくてはという意思すらも溶けそうになる。

 溶けそうな意思だからこそ、よりベラーはその意思を逃すまいと、握りしめるようにグレゴを睨んで。

 すると頭の中が、少しすっきりしてきて。

 ――あの声。己を失うことは、まさに、精神的にも肉体的にも己を失うことになるのだと、気付く。

 いつまで耐えられるだろうか。いつまで自分でいられるだろうか。

 思い浮かべるのは、弟子の姿だった。

 強力なよすがとして、それはベラーの形を支える。ふらついていた足は、しっかり床を踏みしめる。

 視界は大きく歪んでいた。本当に見えているものが歪んでいるのか。はたまた自分の目が歪んでしまっているのか。

 ただ、構えた手の感覚は、先程と違ってしっかりとあった。

 魔法薬は効いていないのか、それとも。今のグレゴに、変化は見られない。あれだけが頼りだったが、それが効かないのだとしても、倒さなくてはならなかった。

 そこで、グレゴはより大きく奇声を上げた、天を仰ぎ、牙のある口を広げる。それと同時に、ついに拘束の魔法道具も溶け落ち、部屋の天井や床すらも、汗をかきはじめたかのようにどろりと滴りはじめ、ベラーも膝をつき、倒れてしまい、

「……」

 言葉無く、自分の足を見る。

 右足の膝から下が溶けていた。右足だったものが、液状になって広がっている。肌色に血の色、それから靴だったものと服だったものも混ざっている。煮えているかのようにぐつぐつと蠢いて、色を変えたかと思えば、蔓草のように伸びたり、何か獣の顔を作り上げたりしている。

 右足に痛みはなかった。痛みどころか、足がなくなったというのに、その感覚もない。

 足の一本くらい。足の一本ぐらいだが。

 ――その瞬間、視界が大きく歪む。意思が揺らいだのなら、己を強く保てなくなったのなら、その瞬間に敗北が決まる。

 だが、グレゴの声は、唐突にごぼごぼという声に変わって。

 はっと、ベラーは己を取り戻す。自分をなくしかけたものの、間に合った。右足以外、身体に異常は見られない。

 ごぼごぼと、あぶくを吐くような声。溺れているかのような声。見上げれば、グレゴが血を吐いていた。否、グレゴ特有の血ではない。深紅色の何か。血とはまた違う。似ているものがあるとすれば――先程打ち込んだ魔法薬。

 内に光を宿し、大きく膨れていたグレゴの腹が、まるで胎児が暴れているかのようにぶよぶよと震え出す。激しく明滅し、いまにも弾けそうだと思ったところで、実際に、ばちゅん、と。

 ――グレゴの苦痛の声が響く。大きな腹に、弾けるように穴が開き、そこから深紅色の液体が噴き出した。腹はたちまちしぼんでいき、噴き出した深紅の液体は、飛び出して最初は生き物のように蠢いていたが、黒くなり始めたのなら動かなくなる。

 あの腹の中には、膨大な未知のエネルギーがあるはずだった。

 それが、血のようなものを噴き出させ、しぼんでいるとなると。

 ――声を上げて、ベラーは笑い出す。

 やった。やったのだ。あの魔法薬が。

 このままいったのなら――力を失わせるだけでなく、殺すこともできるかもしれない。

 と、宙で光が輝く。水晶。グレゴがあぶくを吐きながらもこちらを見据えている。まだ魔法を使う気力はあるらしい。

 しかしきっと、それだけだと思い、ベラーが手を構えた時だった。

 ――迫り来る深紅色が、ベラーの手に絡みつく。黒くなり、力を失いつつあるが、確かにベラーの魔法の行使を妨害する。

 その隙に、水晶一本が、ベラーの身体を弾くように貫通し、壁際に縫い止めた。

 突き刺さった直後、くそ、という彼の悪態に声はなく、口だけが動いていた。壁際に叩きつけられるように縫い止められたのなら、ベラーの身体はぶら下がり、水晶が消えてようやくぼろ切れのように床に落ちる。

 こんな奴に殺されるのか。

 まだ、生きていた。喉がか細い音を立てている。胸から広がる自らの血が、生々しいほどに温かい。

 床に手のひらをつく。まだやれる、と。けれども身体は重く、はいずるように上半身を起こし、壁に背を預けるところまでで、精一杯だった。

 正面を見据えれば、グレゴの姿がある。もう叫びはしない、すっかりやせ細り倒れた怪物は、体長がやたら長い芋虫に似ていた。あぶくまみれの口で、牙をがちがちと鳴らしている。

 食われて終わるのか、それとも魔法で終わるのか。

 どちらにしても、あの怪物に殺されるなんて。

 いまのベラーに、表情を歪める力も残っていなかった。ただ見据える。見据えて奴が来るのを待つが――不意にグレゴは、まさに芋虫のように這いながら、研究室の奥へ向かっていく。だらしなく伸びた腹の皮を引きずって、奥を目指していく。

 奥には、別の大研究室がある――芋虫型グレゴを多数保管している。

 なるほど、と思う。グレゴは共食いによって進化してきた。もしかすると、失った力を補うために、あるいは傷を癒すために、そいつらを食いに行ったか。死にかけの人間よりも、そちらの方に興味があるらしく、グレゴの姿はすっかり闇の中へ消えてしまった。

 静かになった部屋で、ベラーはしばらくの間、呆然としていた。

 命拾いはしたようだが、もう動けなかった。そもそも命拾いをしたとはいえ、数分寿命が延びただけに、等しかった。

 ――ゆっくりと、死に向かっているのがわかる。ほとんどの感覚がなく、ただ、眠たかった。

 グレゴに敗北し、死ぬ。それは嫌だった。けれども、もう眠い。瞼が落ちてくる。

 瞼の裏にあるのは、暗闇だけ。何も映らない。最後に何の幻も見られない。

 結局、自分は何が欲しかったのだろうか。そう思っても、闇の中に何も浮かんでこない。もしグレゴを殺せていたとしても、きっと、何かが手に入るわけでもなかったのに。

 後悔があるとすれば、何も手に入れられなかったこと、それだけだろうから、闇の中に何も見えない。何もない。欲しいものが結局わからないから。

 こんなにも満たされないのは。

 ――きっとどこかで、間違えていたからなのだろうと、ぼんやり思う。

 でもそれはいつから?

 いつから、見えないものを求め始めた?

 そう考えてしまったのなら――最初から、というのが答えで。

 ならば。

 そもそも生まれきたことが、間違いだったのではないか、と。

 ――思い返せば、生きることは、辛いことだったのかもしれない。

 そうであるなら、求めるべきものは、きっと。

 そこまで考えて――やめにする。

 それ以上考えると、不愉快になる。現状が、気に入らないのだから。

 ――こんな終わりが欲しかったわけでは、ない。

 ただあらがうこともできず、沈んでいく。

 ……そのはずだった。

 かつかつと、足音が聞こえる。気のせいではない。

 足音にしては、何か妙で――杖をつく音が混じっているのだと気付く。

 そしてそれは、目の前に来て、止まる。

 ――雲が風に吹かれ、太陽が現れるかのように、ゆっくりと、ベラーは瞼を開けた。もう開かないと思っていたものの、あまりにも自然に、そうあるべくして、開いた。

「――師匠」

 弟子がそこに立っていた。

 幻ではない。幻にしてはあまりにも血に汚れた姿で、しかしパウは確かにそこに立っていた。

 その背後に、青い蝶を連れて。

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