第九章(10) 神は死んだというのに


 * * *


 巨大なグレゴを収容している大研究室にベラーが入った途端、鮮烈な輝きが迫ってきた。しかしベラーは瞬きすることもなく、素早く黒い水晶を出現させる。高純度で凝固され作られた水晶は、周囲の魔力を吸い上げる深淵となる。魔法を崩壊させ、無にする。

「――お前は確かに、才能のある者だった。だが、何を考えているのか、いつになってもわからない者でもあった」

 巨大なグレゴを収容する魔法の檻。その前、魔法陣を展開したフォンギオの姿があった。フォンギオの周囲には他にもいくつもの魔法陣が出現している。輝く幾何学模様の向こうに、老人の、冷ややかな眼差しが見えた。その瞳に、ベラーは自分と似たものを感じたが、大きく違うことも感じ取っていた。

 理解していないということは、そういうことだ。けれど、理解されたいわけではない。

 理解する、ということは、一体何になるというのだろうか。

 神になる、完全な存在になる――それと同じだ、それになって、それを理解して……一体何になるというのだろうか。

「理解したいのですか?」

 少し、倦怠感を覚えていた。まだ魔法を扱えるが、十分に扱えるとは言い難い。血を失いすぎたのかもしれない、どうでもよかったために、応急処置も何もしないまま、ここまで来てしまった。ところが、フォンギオの向こうにある巨大なグレゴを見て、ようやくベラーは後悔した――かつて、神である、とそれを幻視した者もいたが、もはや虫にも見えない醜いそれ。やはり醜いものの、存在は強大だった。膨れた腹は、何を内包しているのか、光を宿している。何かが胎動している。それが生まれたら、何が起こるのだろうか。これが本当に神であるのなら、そこから新しい世界でも産まれるのだろうか。かつて神は世界を作ったというのだから。

 もし本当に世界が産まれたら、神となった証明だ。

 認めるわけにはいかない。

 巨大なグレゴの首に当たる部分を見れば、三発、魔法薬を打ち込んだ形跡がある。空になった魔法薬の瓶が突き刺さっている。また檻の中のグレゴの周囲には、拘束の魔法道具がいくつも浮いていた。巨大な立方体が浮いている。それを中心に環が浮いていて、環からは鎖が伸び、グレゴを縛り上げている。

 それでもなお、グレゴはがちがちと口を鳴らし、また低いうなり声を上げていた。体を揺さぶれば大きな腹も揺れて、拘束の立方体も揺れる。なんとか抑制している、といったところだろう。

 こいつが暴れ出したら、どうなるのだろうかと、ベラーは考える。

 ……許されないことだ。誰かに光をもたらすかもしれない、あるいは、何もないかもしれない。何はともあれ、こいつに好き勝手動かれるのは、気に入らない。

 神が救いを与えてくれる、なんて言う人々がいる。

 そうであるのなら。救いを与えてくれるから、神であると考えて。

 ――神は死んだというのに。

「お前を理解する必要はないと思っている……興味があるわけではなくてな」

 フォンギオは更に魔法陣を展開する。ベラーに向けて。

 おそらく、トリーツェンが死ぬ間際、彼に連絡したのだろうとベラーは気付く。あの女のことだ、きっと自分が狂った、なんて告げたに違いない。

 狂ってはいない。そもそも最初からこうだった。

 ――では自分は、どうなっているのかと問えば、ベラー自身、わからなかった。

「しかし、何故いまになってなのだ、ベラーよ。気まぐれか?」

 問いと共に、電撃にも似た衝撃波が迫り来る。ベラーが黒水晶を放てば、全てはそこに吸い込まれ、黒い輝きだけが生き残る。そうして水晶はフォンギオに迫るが、不意に、三つの光が現れたかと思えば、それを点にし、空間が三角形に切り開かれた。巨大な三角形の「窓」の向こうには闇だけがあり、ベラーの魔法はその向こうに消えてしまう。

 「窓」を作り、別の空間に繋げる魔法。あれほど巨大な「窓」を作り上げることができるのは、フォンギオ程の魔術師でないとできないだろう。「窓」の要は点となる魔法だ、黒水晶の影響を受けない程の距離をとられ「窓」を作られては、黒水晶は何もできず別の空間に吐き出されるだけ――点と、それによって生じる窓枠が魔法なのだ、中央には何もない。

 それを見届けると同時に、ベラーは背後に気配を感じ黒水晶で壁を作る。けれども、背後の少し離れたところにあったのは、新しい「窓」であり噴き出したのは炎だった――黒水晶があっても、一切怯むことのないそれは、自然の火。魔力でできていないのなら『穢れ無き黒』の力は発揮できない。

 判断が遅れてしまったのは、血を失い、思考が鈍っていたこともあった。ベラーがとっさに動く前に、黒い壁は炎に呑み込まれ、その裏に隠れていたベラーすらも、吞み込まれる。

「――くだらなくなった、それだけですよ」

 しかしベラーの姿は、数秒後、炎のあぎとから離れたところに現れた。服の裾が燃えている、流した血も燃えている。だがベラーは黒水晶をフォンギオへ放つ。フォンギオはベラーを見ていない様子だったが、その姿は瞬いて消えた。瞬間移動。けれども、ベラーには彼が次にどこに現れるか予想ができている。だからそこにまた水晶を放つものの、フォンギオの魔法の方が早い。老いてはいるものの『天の銀星』であった実力は確かだ。

 徹底して黒水晶を避けているのだと、ベラーは目元をひくつかせる。いまは怪我により、自分も満足に動けないし、魔法も扱えない。万全の状態であれば、たとえフォンギオ相手でも問題ないと思っていたが、それは黒水晶の特性があっての話であり、あの漆黒で切り傷の一つでも負わせれば、隙ができると考えたものの、怪我をしているいま、更に難しくなっている。

 だが、一撃でも、相手に傷を負わせれば――。

 そう考えたところで、不意に右肩に鋭い痛みを覚える。見れば背後から飛んできたのだろう、細い針が突き刺さっていた――じわりとした奇妙な感覚が、広がってくる。

 毒針だと気付いて、ベラーはそこに魔力を集中させる。急いで治癒魔法を、毒の分解を――破けた服の下、毒々しく染まった自分の肌が見えた。

 致死性のある強力な毒だと見抜けたのは、その針はグレゴの研究や実験に使うものと同じためだった。不死身のグレゴを殺し研究する道具。貴重な毒を使ったもの。魔法道具ではないから、黒水晶があってもどうにもできない。

 治癒を間に合わせるが、続いて視界の端で「窓」が開かれた。いくつもの小さな「窓」。同じ毒針が飛び出してくる。

「あなたもプラシドも、小細工が得意なようですね」

 フォンギオやプラシド程の魔術師だからこそ、こうした小細工をしてくるのだと、わかっていた。

 きっと彼らは考えたことがあるのだろう――もし『穢れ無き黒』と戦うことになったら、どうするべきなのか、と。

 その結果、魔法だけに頼らない戦法を選ぶことになる――小細工をしなくてはいけない。

 ――小細工も何もなかった、まさに力だけで自分を負かしにきた弟子が思い出される。まっすぐな、その姿勢。圧倒的な才能。

 溜息が出る。それでもなお、足を動かし、毒針を避けて。

 だが腕に刺さったのなら、素早く治癒を試みて。その隙にまた「窓」から毒針の先端がきらめいて。

 ――奇妙な大音声が鼓膜を震わせる、全てが揺れる。

 否、揺れる、というよりも、歪む。そんなような感覚。

 巨大なグレゴが、まるで立ち上がろうとするかのように暴れていた。その脚全てが干からびた根のようになっているにもかかわらず。グレゴはもがくように巨躯を震わせ、身をよじり、牙のある口を開けばまた悲鳴を上げつつ、魔法陣の檻に噛みつく。

 部屋全体が揺れていた。ところがそれはグレゴの声によるものではなく、グレゴの激しい動きだけによるもの。

 ――グレゴの絶叫は、響いているとはいえなかった。だが何かがおかしかった。まるで耳鳴りのようなそれ。腹の光が明滅している。

 と、そのグレゴの首に、また新しく魔法薬が打ち込まれる。薬はたちまちグレゴに流れ込む。怪物は泡を吹いて巨体を震わせる。

 その前で手を掲げているのはフォンギオだった。フォンギオはそうしながらも、振り返ることなく、またベラーに向かって「窓」を開く。毒針が放たれる。ベラーが壁を作ったとしても、炎が放たれてしまえば、形のない炎は壁を呑み込みベラーに迫る。頭上で「窓」が開いたかと思えば、落ちてくるのは雷。多様な攻撃に、ベラーに反撃の隙はほとんどなかった。ただじわじわと追いつめられていく。解毒はしているものの、毒は少しずつ回り始め、炎や雷といった攻撃も、全て避けられるわけではない。

「ベラーよ、お前が何であれ、神ではないのだ」

 ようやくフォンギオがちらりと振り返った。そう言われたものだから、思わずベラーは笑ってしまった。また毒針が背に刺さったが、それよりも、戯言に笑わずにはいられなかった。

「私は、自分のことを神だと思ったことはありませんよ……それとも、あなたは自分のことを、神だと思っているのですか――」

 ――宙で歪な輝きが瞬く。不意に現れたそれは、フォンギオにとっても予想外だったのだろう。落石のように落ちてきたそれを、フォンギオはぎりぎりで避けるものの、頭をかすめてしまった。彼の周囲の魔法陣が揺らぐ。彼は頭から血を流し、目を見開いて、グレゴを見上げる。

 グレゴを見上げたのは、ベラーも同じだった。

 いまのはベラーの放った魔法ではなかった。

 しかし魔術師がよく行う攻撃魔法に、非常によく似たもの。

 ――拘束されたグレゴの周囲に、不格好な水晶いくつもが浮かんでいた。それが、フォンギオへ降り注ぐ。グレゴが睨むフォンギオへと。

 すぐさまフォンギオの姿がそこから消え、何もない場所に水晶が降り注ぐ。だが新たに宙に生まれたのなら、姿を現したフォンギオに向かって、再び放たれる。

「ふむ……我々のような魔法を使うようになったか」

 フォンギオは盾を作り出し、水晶を防ぐ。グレゴの水晶はベラーにも狙いを定め、降ってくる。だが黒水晶を作り出せば、グレゴの水晶も、ほかの魔術師のものと同じように崩壊していく。

 どうやら、もう魔法薬がほとんど効いていないらしかった。そしていつの間にか魔法の扱い方を覚えたようだが、まだ器用ではない。その上、魔法薬が効かなくとも、グレゴにはまだいくつもの拘束の魔法道具が取り付けられている――。

 しかし忘れていた。

 このグレゴという怪物に、未知の力があることを。

 ――グレゴの絶叫。あの、奇妙な声。響いている、というよりも、周囲を歪ませるような声。耳鳴りにも似て、平衡感覚を失ってしまうような声。

 グレゴの光を孕んだ腹が揺れている。あたかも呼応しているようで、声はまるで幾重にも重なり始める。不協和音となる。

 不意に、吐き気がこみ上げて、ベラーは顔を歪める。それだけならまだよかった。唐突に身体が重くなる。まるでのしかかられているかのように。ふらふらと、何とか立ち続けようとして、このグレゴの声が何か作用しているのだと、両手で耳を塞ぐ。

 その手が妙に、ぬるりとして。

 ――血の赤色だけがあればよかった。とっさに両手を見て、目を疑う。

 赤い液体に、肌色の液体が混ざっていた。

 指の感覚が、薄い。まだ形は保っているが――指先から、ぽたりと肌色が落ちる。ぽたぽたと数滴落ちたところで、眩しい赤色が混ざり始める。

 ――溶けている?

 そうとしか思えないような光景だった。輪郭が失われていく。目の前も歪む――。

 悲鳴が聞こえて、微睡みから醒めたように、ベラーは我に返る。

 フォンギオの悲鳴だった。グレゴの水晶が、地面に降り注いでいる。何回か放っただけで、鋭さを学習した水晶。その輝きが地面に縫いつけているのはフォンギオで、しかしフォンギオは決して苦痛に顔を歪めず、魔法陣を展開すると、反撃の魔法をグレゴに打ち込む。

 ところがグレゴが再び叫んだのなら。

 フォンギオの水晶が割れる。老齢の魔術師の姿が揺らぐ、輪郭を失う、溶ける、広がる――。

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