第九章(09) 夢を見ている時が


 * * *


「君はきっと、私に、何かをくれるのだと思っていた。君を森で見つけたあの日から、そんな予感がしていた」

 かつて弟子として育てた青年は、もう動かなかった。うっすらと開いたままの赤い瞳に、光はない。

「才能があったからね……でも、お前の思想は、うんざりしたよ。退屈の中でも退屈なものだった……あれは裏切りだった。でも、もう一度、見せてくれた」

 弟子に寄り添えば、ベラーは彼の眼鏡をとって、瞼を下ろさせた。そのまま手を彼の胸へ滑らせ、赤色にじっとりと濡れたそこに、強く触れる。

 まだ温かい。けれど、鼓動は感じられない。

 血塗れの手で、彼の手を握る。手もまだ温かかったが、握っても、握り返してはくれない。

「そういえば、話してなかったね。私はね、高みを目指せば、神に近づけば、きっと、何かが変わると思ったんだ。だから『遠き日の霜』に入ったんだよ」

 ベラーが握るほどに、パウの手は赤く染まっていった。パウ自身の血は、彼の瞼の下にある瞳の赤色よりもまだ輝いていた。しかし身体の下でじわじわと広がりゆく血溜まりは、大きく広がるほどに、黒さを帯びて深まっていく。

「古い世界を捨てて、新しい世界を手に入れたのなら……間違いなく、何かが変わるだろう? 完全な存在というのは、文字通り『完全』だろう? だから、きっと、それは素晴らしいことなのだよ。非魔術師なんて価値のない奴らの為に生きるのも、うんざりしていたし。私が魔術師として生まれたことが、選ばれた証拠であるのなら……私はこの世界に抗いたかったし」

 肌色を濡らす赤色だけは鮮烈な色彩を放っていた。パウの手はすっかり赤く染まり、その手を、血がつくのもいとわず、ベラーは自らの頬に寄せた。

 かつてパウにつけられた傷痕が、赤く染まった。

「そうだなぁ……価値がなかったんだ。全てに、価値がなかったんだと思う」

 血の温かさに微笑む。パウの手も、まだ温かい。

「けれど……君は本当におもしろいものを見せてくれた。君は光を見せてくれた」

 目を瞑れば、ベラーはパウの魔法のあの輝きを思い出す。

 細かな技術なんて一つもない、単純な力。

 それ故に、圧倒的な光だった。

 まるで、祝福を与えてくれるように照らしてくれるような輝き。闇の中で道しるべとなってくれる。

 その輝きを追って、求めて。

 ついに触れた。もっとも、価値のあるもの。

 完全な存在にならなければ、手に入れられないのではないかと思っていたもの――。

「本当に楽しかったよ。素晴らしいものを見せてくれてありがとう。殺させてくれてありがとう、パウ……これできっと、私はいいものを手に入れられたのだろう……」

 けれども。

 ――手に纏った赤色が、冷めていく。残るのは冷たさとぬるりとした感覚、それだけ。

 それだけしか、ない。

「そうだと」

 違和があった。鉄にも似た血のにおいは、ただ生々しいばかりだった。

「そうだと思うだろう? パウ」

 だがこれが求めた答えなのだと、願っていたことなのだと、一度笑みを消してしまったベラーは、再びパウに微笑む。

 感じていたのだ。研究所を捨てたあの日、何故この手で彼を殺さなかったのか、と。気のせいではなかった。

 かすかな希望を、一瞬だったが見たのだ。彼に出会ったあの日、彼なら、退屈な世界を壊して自分に何か与えてくれるのではないだろうか、と。幻視だったかと思ったこともあったが、間違いではなかった。

 だからこそ、いまここにいて。

 パウの死体に寄り添って。

「変だな」

 そうして手に入れた現実は、どうしてか、いままでと変わらない。

 夢が冷めたかのように、またいつもの世界が目の前に広がっている。

 何も変わらない。見ているものも、自分も。

「お前を殺せば……満たされると思っていたんだ。お前をこの手で殺さなかったことを、後悔したんだから。だから……」

 パウの手が、ずるりと落ちた。ベラーの頬にひっかき傷のように血の跡をつける。

 パウは起きない。返事をしない。血に染まった胸は、塗れてなのか、それとももう時間が経ち始めたのか、黒く染まり出している。

「おもしろいものだって、見せてもらったのに」

 確かに見たのだ。自分が「おもしろい」と思うものを。きっと高みに上らなければ、神に近づかなければ、完全な存在にならなくては、感じられないだろうと思った感覚の片鱗が、そこにあったのだ。

 パウはそれを見せてくれた。与えてくれた。

 だから、満たされるのだと。

「何がおかしいのだと思う? パウ」

 そう思ったのに。

 ――死人は喋らない。誰もベラーの問いに答えない。

 ふらふらと立ち上がった末に、ベラーは軽く、パウを蹴った。やはりパウは目を覚まさない。間違いなく死んでいる。

 静寂が突き刺さる。

「私は」

 耳鳴りが空虚に響いている。

「私は……お前に……何をして、欲しかったのだろうね……」

 して欲しいことを、してもらったはずだった。

 ようやく到達したと思った。得られたと思った。

 ところが、これが何か、わからない。

「パウ、私は君に、期待したんだ」

 少なくとも、望んだものとは違うそれ。

「何度も光を見せてくれた君に」

 きっとそれを得られたのなら。

「だから、殺したのなら、もっと素晴らしい光が、見られると……」

 全てが大きく変わってくれる、そんな気がしていたのに。

 何も変わらない。夢が終わってしまったかのように。

 ――ベラーが長い溜息を吐いたのは、それから、どのくらいの時間が過ぎた頃だっただろうか。

 そう、か。と。

 かすれた声は響かない。

「――人は、夢を見ている時が、一番楽しいものなのだね?」

 歩きだそうとすれば、ふらついた。おぼつかない足音が響き、近くの瓦礫にぶつかったのなら、乾いた音を立てて虚しく転がる。

 ベラーは何も言わなかった。ただパウの死体を残し、踵を返す。

 全て元に戻った。

 手当てを施さないままの傷は痛かった。まとわりつく血が気持ち悪かった。髪も乱れたままで、みすぼらしく見えるかもしれなかった。

 だが気にしなかった。

 全てが元に戻った、それだけのことだから。

 全てはパウという子供に出会う前に戻った。何にも意味を見いだせず、何にも価値があるとは思えない日々。ただそれだけだと、ベラーは歩みを止めなかった。

 あの日々。光を求めて足掻いていた日々。

 ――まだ魔法を学ぶ立場にあった頃。同い年の少年を殺した。「殺した」といっても、その感覚は薄い。ただひどく絡んでくる者だったので、面倒になってしまった。退屈な日々を変える何かが見つけられたならと、身体を裂いてみたり、魔法で変化させてやった。

 普通の人間がそんなことをしないのは、知っている。

 そもそも普通の人間にとって、目に見える世界というものは、何か、価値があるものらしい。

 そうは見えなかった。

 だから事件が発覚し『魂削り』が相応しいと言われても――それでどうなろうが、最悪命を落とそうが、どうでもよかった。

 ところがフォンギオに能力を認められ、グレゴについて知り。

 完全な存在になれたのなら、神に近づけたのなら、何か変わるだろうかと、考えて。

 以前に戻ったというのなら、またあの不死身の怪物について調べたり、不老不死について研究したりするだけで。

 果たしてこの先に、何があるのだろうかと、ぼんやり考えながら。

「……うるさい奴だな」

 不意に地震に見舞われたように地下全体が揺れた。珍しいことではない、これまでにいくらかあった。あの巨大なグレゴが暴れているのだ――おそらく、魔法薬による抑制が切れたのだろう。魔法薬を使うほどに、抑制の時間が短くなっているように思えるが、気のせいではない。あれはそうやって魔法薬を学び、耐性を得ているのだと考えられる。

 もっとも、魔法薬を作るベラーも、さらに強力な魔法薬を作っていままで抑制してきたが。

 パウを失ったいま、あの醜く巨大な虫に望みをかけるしかなかった。

 あれが、何かを自分に与えてくれるだろうと、考えて。

 ――響いていた足音が止まる。揺れが耳鳴りのように長い尾を引いて響いている。

 あんな虫が?

 元は人間で、怪物になっても、まだ人の作った魔法薬で抑制されてしまう、ちっぽけな虫が?

 パウにできなかったことを、あんな虫にできるのか?

 そもそもできるのか?

 虫のくせに?

 そんなものは。

 冒涜以外の何ものでもないじゃないか――。

 パウにできなかったことを、あの怪物にさせる、なんて。

 ……足音が再び響く。苛立ちを帯びたようなその反響は、巨大なグレゴを拘束している実験室には向かわず、別の一部屋へ向かった。

 ベラーが現在、研究室として使っている部屋だった。扉を開ければ、机の上に置かれたケースの中で、青い蝶が大人しく床にとまっている。

 元は妹であるこの蝶に、もう興味の一つもなかった。一瞥して、視線を動かせば、その先にトリーツェンがいた。

「何故ここに?」

 尋ねながら、ベラーは奥の棚へと向かう。対してトリーツェンは少し驚いた様子で目を開き、すぐに冷笑を浮かべた。

「侵入者に、この青い蝶を奪われないために。一応、様子を見に来ましたの……あなたがここに現れたというのなら、例の侵入者の件は終わったのですね。それにしても……随分と、珍しいですわね?」

 血塗れのベラーを、頭から爪先まで見下ろして、トリーツェンは改めて笑う。それから目を細め、首を傾げたのだった。

「相手はどうやら……あなたの弟子だったみたいですね? それなりの実力があったのでしょう……それにしても、本当に惨めな姿になりましたね……そんなに、がっかりした様子で」

 何を言われようとも、ベラーは振り返らなかった。棚に厳重に保管されていた魔法薬を一つ一つ、取り出す。トリーツェンの言葉は、どうでもよかった。ただトリーツェンは、ベラーが避けたくて無視しているのだと勘違いしたようで、

「あなたは昔、友人に残酷なことをしたと聞いたことがありますわ。だからわたくし、あなたは人ではないのだと思っていましたの……けれど、意外ですね。そんな顔をするなんて……まさかそれほどに弟子を愛していたのですか? 志を共にせず、下等な者についた愚かな弟子を――」

 黒い輝きが宙を駆ける。鋭いものが肉に突き刺さり、血飛沫が花開く。

 ――トリーツェンの腹に、漆黒の大きな穴が開いていた。

 正しくは、穴ではなかった。ベラーの黒水晶。それが突き刺さっていた。

 トリーツェンは血が飛んだ眼鏡の向こうで、目を丸くしていた。血を吐きながら己の腹を見て、それから視線をベラーに戻す。ふらつきながらも手を構えるが、現れた魔法陣は安定しない。黒い水晶により、魔力を乱されている。

「……そういえばあなたは、あまり戦うことがない魔術師と聞きました」

 構えたトリーツェンの腕。その肩に、光が走った。

「『人体を改造すること』が得意であるが……だからこそ、駒に任せるのだとか。そういえば、あなたの双子の片割れ、確かに強かったですよ。私の弟子を追いつめ、腕を切り落とそうとして……」

 ずるりと、トリーツェンの腕が肩から落ちる。

 それでもなお彼女が立っていたのは、並の魔術師ではなかったからだろう。残る片手で魔法を構えて、しかし魔法陣は変わらず揺らいだままで。

「愚かな弟子といいましたが」

 ベラーはもう、トリーツェンを見ていなかった。机の上に並べた魔法薬の一つを掴む――水晶玉のような瓶に詰められたそれは赤色で、魔法薬というよりも、深紅の果実にも見えた。

「これらグレゴを抑制するための魔法薬は、彼の研究と功績があったからできたものなのですよ。そしてこの魔法薬も、彼の研究があったからできたものでして」

 自慢げに、ベラーはその魔法薬をトリーツェンに差し出す。深紅の表面に映るのは、涼しげな表情をしたベラーと、呼吸を乱し、苦痛に顔を歪めたトリーツェンだった。

 地下全体が揺れた。はらはらと、埃が落ちてくる。

 グレゴが暴れている――おそらくフォンギオが、追加で魔法薬を打ち込んでいると思われるが、なかなか効いていないらしい。

「……新しい抑制魔法薬です」

 少し傾ければ、その赤色は艶やかな光を纏った。

「抑制といっても……もはや毒になるほどのものです。グレゴに使ったのなら、あの巨大なグレゴでも後遺症が残るほどのものと考えています……もしかすると、不死身であるあれを、殺せるかもしれない」

「――何を、考えて……?」

 そこまで言って、トリーツェンは再び血を吐いた。

 新しく放たれた黒い水晶が、また腹に刺さっていた。ついに彼女はふらふらとくずおれ、倒れたのなら、起き上がらない。

「くだらなく思えたのです」

 広がる血を踏んで、ベラーは扉へ向かった。

「いえ、許せない、というか……気に入らないというか……」

 部屋を出る際、青い光が視界の隅で瞬いた。

 ミラーカ。部屋にきた時と変わらず、大人しくしている。

 最後にこのグレゴに魔法薬を打ち込んだのはいつだったか、とベラーは思いだそうとしたが、やめた。

「……お前はパウが死んだことを察しているのか?」

 もうどうでもいい。この蝶から得られるものは何もない。

 欲しいものはきっとパウにあった。永遠に失われた。

「お前は私の予想した通り、パウをここに連れてきたようだが……どうやら私は、失敗したらしい」

 それ以上、ベラーは何も言わなかった。ただ部屋を出て、巨大なグレゴの元へ向かう。

 残されたミラーカも何も言わなかった。羽を動かすこともなく、ただその青色は輝き続けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る