第九章(06) パウの方が、ずっと
* * *
デューの中央に位置し、またかつて魔術師達の中心でもあったその城は『大樹塔城』と呼ばれた。人々のための魔術師であることを使命として掲げ、多くの魔術師がそこで指令を受け、地位と名誉を与えられた輝かしい場所だったが、いまはそのホールに人影はなく、廊下にも誰の姿もない。城の頂上に位置する、かつての魔術師の長『天の金陽』の執務室は、体制の崩壊を表すかのように荒れ果てている。その部屋だけではない、かつてあった激しい戦いに、城の至る所は崩壊していた。
『大樹塔城』は抜け殻になり、時間の浸食を受けて廃墟と化し始めていた――その地上部分は。
――地下では、多くの魔法設備の機動音に混ざって、低い唸り声が響いていた。
獣のように思えるものの、壊れた楽器が鳴らす歪な音にも聞こえるそれは、何の言葉にもならないが、どうしてか、もはや人の声にも聞こえた。知性こそ感じられないが、人間のように、獣以上の感情を込めたような、声。
地下の巨大な一室。魔法陣で作られた檻の中に、これまた巨大な怪物がいた。
巨人のようにも見えるそれは、複眼や長い触覚があることから、虫のようにも見えたが、おおよそ虫には思えない――大きく膨れた腹は、あたかもそこに何かが潜んでいるかのように、時折蠢動する。
それは、かつてはただの人間だった。不老不死の研究により芋虫に変貌し、さらに蠅の姿となり、同じ蠅の姿の怪物を喰らい、また芋虫の怪物やほかの人間を喰らったことにより醜く変貌したグレゴだった。
プラシドが神であるとし『光神蟲』とも呼んだ、それ。
けれども『遠き日の霜』にとっては、変異したグレゴの一体にすぎなかった。
いまは魔法薬で眠っているような状態だった。それでも魔法陣で自由を奪い続けなくてはならない。何が起きるか、誰にもわからなかったために。
「――あの腹には、膨大なエネルギーがあるようだ」
おぞましいグレゴの前に立ち、いくつもの魔法陣を出現させていたのは、『遠き日の霜』をまとめ上げている魔術師フォンギオだった。
「さらに詳しく見ると……魔力とは違うものでな。なかなか面白いのだが、あまり触れるべきではないだろう……こちらが呑まれる可能性がある」
「その力というのは、あの青い蝶と同じものなのでしょうか?」
尋ねたのはトリーツェンだった。魔法陣の光が、彼女の眼鏡に反射する。
「同じであるのなら……まとめあげて更に力を蓄えさせるべきですわね……何せこの力は、可能性そのものですから」
グレゴを見上げたその表情は、鋭く光る。
「この力が、生き残りの魔術師やわたくし達と対立する者、『出来損ない』達を滅ぼす力になり……わたくし達をさらなる高みへ導いてくれるとよいのですが。フォンギオ様、例の青い蝶を、喰わせましょうか?」
フォンギオはしばらくの間、返事をしなかった。考えるようにグレゴを見上げ続けていた。
「青い蝶の方は、弱らせてあれば、問題はありませんでしょう?」
催促するようにトリーツェンが口を開く。それに対して、ようやくフォンギオが口を開いた。
「どちらも弱らせた状態だが……しかし、どうなるのか、わからないのだ」
「――けれども、あなた様の分析によれば、力はこのグレゴの方が上、なのでしょう?」
このグレゴと、青い蝶のグレゴ。分析によりわかっていた。
互いに孕んだエネルギーの正体は不明であるが、量としては、こちらのグレゴの方が上であることに。
「それでしたら、こちらのグレゴが、あの青い蝶に喰われるということは、あまりないでしょう」
「どちらにしても、生き残った方を我々は扱うことになる。その力の利用方法を考え、その存在から完全なる存在への進化とあり方を模索することになるだろう……」
だが、とフォンギオが続けようとしたところで。
「――しかし力が混ざり合うことにより、我々の手に余る存在になっては困る、ということですね」
暗がりから、人影が現れる。灰色の長い髪は、光を受けて銀色に似て輝く。ベラーが足音もなく、二人へと歩み寄った。
「何が起こるのか、わからないのですから……」
「とはいえ、元は人間ですよ」
突っかかるようにして、トリーツェンが首を傾げる。
「所詮人間から生まれたもの……未知のエネルギーを膨大に蓄えているからといっても」
改めて彼女はグレゴを見上げ、目を細めた――まるでひどく嫌悪しているかのように。
「この醜さは、きっと人間である証拠ですわ……なんておぞましい姿なのでしょう」
そして笑うのだ。
「けれども、この地に落ちたようなものだからこそ、わたくし達はここから、より高潔になれるものを見出すことができるのですね。対極だからこそ、と言うべきでしょうか……」
ふと、トリーツェンの細い瞳がベラーへと向けられた。ベラーは変わらずいつもの笑みを浮かべていたが、対してトリーツェンは、挑発するかのように口の端をつりあげた。
「あら……あなたまさか、怯えているのですか? こんな、元は人間であるただの醜い怪物に。顔に傷を負ったからですか? 珍しいことですものね……。それとも……プラシドのように、神聖なものだと思って?」
「まさか。そう見えましたか? それにこの傷については、気に入っているのですよ」
ベラーはゆるゆると頭を振って、頬の傷を指で撫でた。笑みは崩さなかった。
「これについては……私は、つまらないものだと思っていますよ」
そして怪物を見上げる。誰かが思い描いたよりも、夢で見るよりも醜いそれは、確かに醜いもの、それ以外の何者でもなかった。
「……本当に、つまらないものだと思っていますよ。本当に醜くて、どうしようもなくて、呆れてしまうくらいに」
つと、ベラーの表情から笑みが消えた。残されたのは、まるで何も見ていないかのような、あるいは何も見えてないかのような瞳だけ。紺色の瞳は影に染まり黒となり、光を返さない。
「――いいものを見せてくれるといいのだけど」
呟きは小さく、瞬く間に消えてしまう。
「それでベラーよ。青い蝶の様子はどうだね」
フォンギオに尋ねられ、ベラーは我に返ったように笑みを取り戻した。手をひらりと振って、その平を見せて、
「特に問題はありません。定期的に魔法薬を打っています――」
そう答えた時だった、三人の片耳にある白い耳飾りが輝いたのは。
連絡。この『大樹塔城』の浅い地下にいる者達からの警告と、指示を仰ぐ声。
「……魔術師一人が侵入、ですか」
あら、とトリーツェンが不思議そうな顔をする。
「おかしいですわね、魔術師一人なんて……カーテレイン達ではなさそうですね、そもそも巨大魔力翼船が近づいてきたのなら、すぐにわかるでしょうし……とすると……」
そうトリーツェンが言葉を漏らす中、フォンギオが気付く。
「……なるほど。ベラーよ、お前はこれを待っていたために、青い蝶を下手に扱ってほしくなかった、ということか」
――ベラーは微笑んで歩き出していた。
「何のことでしょう?」
一度はそう、振り返って。
連絡が続く。侵入者である魔術師について。確認されるのは一人。黒髪の青年。紫色のマントを身につけている――。
「……ベラー、もう一度聞く。青い蝶の抑制は、問題がないのだろうな?」
フォンギオがその背に問いかける。ベラーは立ち止まらずに、
「問題はありませんよ。けれど……薬の効果が薄れてきたのなら、もしかすると、多少は力が使えるかもしれませんね。そうなれば、何かしらの手段で助けを求めるかもしれない」
もっとも、と彼は部屋の扉を開けながら続けた。
「あの青い蝶の行動なんて……予想はできるのですが。何せあれは、元は私の妹ですから」
最後にようやく、ベラーは振り返る。そこにあるのはいつもの笑みではなく、本当にどこか楽しそうな微笑みだった。
「ああ、全て終われば青い蝶は用済みです。私はフォンギオ様があれをどうしようと、トリーツェンがどう言おうと、もう口出しをするつもりはありません……いま、そちらに興味はないので。私は弟子に会ってきます……」
――部屋を出て、その魔術師がいるという場所へ向かう。進む中でも、同志達の突破されたという声、援護を求める声が耳飾りを通して聞こえるが、ついにベラーは指先で耳飾りに触れたかと思えば、ばちりと魔法の光を爆発させた。それからはもう、連絡は一つもこなかった。壊れた魔法道具は、使い物にならない。
道中、鏡張りの廊下を通る。眩しい中、鏡に映った自身の姿に、ベラーは足を止めた。
そっと撫でたのは、自分の頬。深い傷が残ったその場所。
パウの魔法によりつけら、痕になった、その傷。
――何せこの力は、可能性そのものですから。
グレゴを前に、トリーツェンが言った言葉が思い出される。
「あんな虫よりも」
再びベラーは歩き出した。侵入者がいるとされる場所に向かって。
「パウの方が、ずっと可能性を秘めているというのに」
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