第九章(05) また変わったのか
* * *
「あなた達が彼の手伝いをするだろうということは、予測できていました」
――パウが消え去り、しばらくして。
一度、持ち場を離れていた監視の魔術師が、彼を軟禁していた部屋に戻ってきた。その時にはもうパウの姿はなく、代わりに気を失ったメオリとアーゼの姿だけが残されていた。
すぐにカーテレインに報告され、彼女は部屋に向かった。気絶したままの二人を起こす。時刻は夜中近くだった。そして滔々と口を開いたのだった。
「ですが、問題ないと思っていたのです――どうせ彼が逃げ出しても、捕まえられると思っていましたから」
全ては予想できていた。この二人が、黙っているわけがないと。そしてこの二人がパウという魔術師を逃がすのに、ネトナやエヴゼイも協力するだろうということを。
だがここはディアスティム号の一室。全ては魔法で管理され、その魔法の管理をくぐり抜けたところで、船は宙に浮いている。
逃がすわけがないはずだったのだ。慢心ではない。それは事実のはずだった。
「何が起きたのですか?」
ところが、パウの姿はもうなく。
代わりに。
――カーテレインはもう一度、部屋の中を見回した。足の折れた椅子については、恐らくパウが逃げだそうと暴れたのだと、察しがつく。
見た様子は、そこだけにしか異変のない部屋だった――見た様子は。
――何か、薄い気配が肌を撫でている。
「答えなさい、『千華の光』メオリ」
少しの寒気を、カーテレインは覚えていた。
「……ミラーカ。例の青い蝶がやったんです。彼女が……パウを連れて行きました」
メオリは、まだ気がしっかりしていないのか、もしくは何か別の理由があるのか、あたかも喉を潰されたかのように、しばらく声を漏らし苦悶した後に、やっと答えを発した。まだ立つこともままならないらしい彼女は、床に座り込んでいた。それでも、使い魔の鷹が肩にとまれば、ゆっくり立ち上がる。鷹は主を心配するように、ぴいと鳴いていた。
「カーテレイン様にも、わかるでしょう? まだこの部屋には……あれが残ってる……」
あれ。
――寒気は気のせいではないのだと、カーテレインは思わされた。
最高位の魔術師であるからこそ感じられる、何かの残滓。
この部屋で、何か恐ろしいことが起きたという、痕跡。
――魔力に似た何かが、薄く、本当に薄く、残っている。魔法を発現した後、数秒の間宙に漂う魔力に、似た何か。
しかしそれは魔力ではない。明らかに、違う。
未知のもの。未知の気配。
かすかにカーテレインは目を細めた。あまり、考えたくなかった。本能が否定していた。
だからこそ、より、考えたくなってしまう――きっと考えてはいけないことなのに。
「それで……『遠き日の霜』の手中にある青い蝶に連れて行かれた、ということは、彼はデューに向かった、と言いたいのですか?」
苛立っているわけではなかった。それは確かだと、自分自身で感じる。
では何を感じているのかと考えるが――それは止めにする。
「……一人で? 勝ち目もないのに?」
誤魔化すように、笑みを浮かべてしまった。
「それほどに幼稚だったとは……すぐに罰を与えるべきでしたね」
きっと、その通りだったのだ。
――こんなにおぞましい気配を感じさせる何かと、関係があるなんて。
「……『風切りの春雷』騎士団長様」
カーテレインはつと振り返る。騒ぎを聞きつけてやってきていた、ネトナの姿がそこにあった。腕を組み、部屋の中を見つめている。
「出発の時刻を早めましょう……より、悠長にしている場合ではなくなりました。デューに急がなくてはなりません」
カーテレインに言われて、ネトナは返事をしなかった。ただパウのいなくなった部屋を睨んでいた。まるで苦虫を潰したかのように。あるいは、彼女自身も予想していなかったことに出くわしたように。
「――パウを助けてくれるんですかっ?」
代わりに、声を上げたのはアーゼだった。まだ顔が少し青い彼だったが、ぱっと顔を明るくさせる。
「何を言っているのです。ことが乱される前に、行くだけですよ……」
溜息を吐いて、カーテレインは両手を広げた。
「そもそも彼は、私達デューの魔術師にとって要注意人物です」
「――疑わないのだな、彼は本当にデューに向かったのか、と」
と、ようやくネトナが口を開く。
カーテレインは一瞬、答えに戸惑った。確かに、普段の自分なら、元『千華の光』の魔術師といえども、逃がすなんて己で信じなかっただろう。メオリとアーゼが「青い蝶の仕業だ」「デューに向かった」というのも、何も問題なければ、信じなかった。
けれども、一歩部屋に入れば、ぞくりとした感覚に包まれる。空気が悪い、といった感覚にも近いかもしれないが、もっと大きく違う。明らかに、何かがおかしかった形跡が感じられる――。
「青い蝶というのは――本当に、何なのですか?」
果てに、カーテレインは眉を顰めて、集まっていた者達へ振り返った。
「この部屋に残っているこの感覚は……何なのですか?」
その感覚は、本当に薄く、もう少ししたなら完全に消えてしまうと察せられたが。
「ひどく……嫌な感覚があります」
誰も答えなかった。
しかしその表情から、誰もが知っているのだと感じた。
ネトナの隻眼と目があえば、不意に思い出す。
『例の青い蝶は、そいつがいないと扱えたものではないと思うぞ』
なるほど、と思う。
――彼らはただの怪物を生み出しただけだと、思っていた。力こそあるものの、存在としてはただの怪物を。
違う。
もっと別の何かなのではないか。
やはり、急ぐべきだと、改めて思う。
「とにかく。彼がデューに現れたとなると『遠き日の霜』がどのような行動に出るかわかりません。私達がやるべきことは、この戦いを終わらせること。奴らのおぞましい野望を止めることです」
話によれば『遠き日の霜』は、青い蝶と同じほどの力を持つだろうグレゴを所有しているのだから。
そして、思う。
「……彼は怯えなかったのでしょうか」
「一人で向かうことに対してか? それとも……青い蝶についてか?」
ネトナがどこか諦めたように頭を軽く振った。
「あれは……おそらく、あらゆるものが見えなくなっている」
「――だから俺達が行かないと」
ふと、アーゼがメオリを見た。視線を受けて、メオリも見つめ返し、頷いた。
そして笑ったのだった。
「……そう心配はいらない。アーゼも知ってるだろう……あいつ、ずっと一人で走ってきたんだ。ほんと、無謀で、腹立つくらい」
「……にしても置いてくなんて、ひどいよな。ちょっとは……色々変わったと思ったのに」
そういうところは、変わらない。
「――それともまた変わったのか」
アーゼの小さな呟きは空気に溶けて消えた。
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