第九章(04) 一人で歩いていける人だった
* * *
もしかするとそこは、自分の存在すらもわからなくなるほど、暗い場所だったのかもしれない。
右も左もわからず、どちらが天でどちらが地かもわからない。時間ももちろんわからず、温かさも冷たさも感じず、だからこそ己という輪郭すらも曖昧になって、果てに全てがわからなくなって消える。そんな場所だったのかもしれない。
けれどもパウには、青い光が見えていたから。
光に照らされると、自分の姿形の輪郭が暗闇にはっきり浮かび上がる。伸びた影が、自分が確かにここにいることを証明してくれる。そして照らす光が道となってくれるから、いったい何が左右で何が天地なのか判断がついた。
その光は、まだずっと遠くにあったけれども。
杖をついて一歩進むが、何の音もしない。代わりに青い光が刹那広がって、消えていく。
見えない道を歩いている。パウに恐れはなかった。
温かくもあり、冷たくも感じられる風が吹いてきている。紫色のマントを揺らす。
青い光が、そこにある。
それだけでよかった。それだけで全ての不安が消えて、心地のいい夢の中にいる気分になれた。
パウ、と光から声が聞こえれば、耳にくすぐったさを感じた。
黄色の耳飾りがなくなろうと、その声が聞こえれば、あとはどうでもいい。
「いま行く……手間をかけさせて、悪かった」
本当に、自分はいったい、何をしていたのだろうか。
自分の罪を贖うために、彼女に償うために、ある命だというのに。
他の誰のものでもない。
「俺は、やるべきことをやるよ」
お前のために。
そう誓った。
――光はまだ遠かった。手を伸ばしても、届くことはない。
大分歩いた気がしたものの、距離は縮んでいないように思えた。
むしろ遠ざかって見えたが、パウにはわからなかった。
光は小さくなっていた。それでも、鮮烈な光を放ち続けていた。パウの片目にはそう見えていた。
「そうね」
やがて声が聞こえる。
「私が――そういう風に決めたのだから。そういう風にしたんだったわね」
暗闇に響く声に、光も震えていた。
「いまだって……そうね」
――そう、不意に言い始めた彼女が、妙で。
しかしパウは歩みを止められなかった。止めることはなかったが、眉を顰めた。
「……何かあったのか?」
返事はなかった。ただ彼方で、光は輝き続けている。
足を早める。
「俺は……何か間違いをしたか?」
それならば、教えてほしかった。
気に入らないことをしてしまったのなら、直し、正したかった。
もう十分、多くの過ちを重ねてきたかもしれないが、いまはミラーカがいるから。
「何でもないわ」
少しして、返事があった。
光はまだ遠い。ミラーカの声がなければ、同じ場所を歩き続けているような気分になったかもしれない、とパウは思う。
安心する。導きがある。
「あなたは……以前のあなたに比べて、少し、変わったわよね」
唐突に、言われた。背後から聞こえたように思えたが、光はまだ先にあった。だからパウは歩き続ける。
「そうか?」
「……ええ」
歩みに、足下に光が舞っては儚く消える。足跡は残らない。戻る道もない。
そもそも戻る必要がないため、パウは振り返らなかった。
光だけを見て、進む。
「あなたはもっと……一人で歩いていける人だった」
一瞬だけ、歩みが止まった。
声はすぐ近くで聞こえていた。
「だからこそ、間違った道を進むこともあったけど、それでも、自分で道を決めて歩いていける人だった……そう思えて」
まるでベールに包まれていくかのように、声は遠のいていく。
「そんなあなたを……思ったよりも、私は気に入っていたのかも」
彼方で光が揺らめいた。
「無謀でも、過ちを何とか正そうとするあなたを……気に入っていた」
揺らめきはその一瞬だけで、光は再び、鋭くも優しい輝きを取り戻す。
「……思い返せば、私も昔は、あなたと同じで、結構無謀だったわね……どうしてあの時、兄さんの部屋で見つけたあの資料を、兄さんの前に叩きつけたのかしら。もっと方法が……あったかもしれないのに」
あれで止められると思っていたのかしらね――そんな風に彼女は笑っているが、パウにはよくわからなかった。
「正義感ばっかり強くて……魔法も、何かあった時に対抗することも、できるわけがなくて、実際にできなかったのに」
でも、と声が小さくなった。
「最近は……本当にいろんなことができるようになったわ。それだけじゃなくて、いろんなことも、わかるようになったわ」
響いた言葉に対して声は小さく弱々しいままで、決して、明るいものではなかった。
「けれど、見えないものがあるのよね。一つだけ」
ふふ、と乾いた笑い声がする。
「私の力が、まだ足りないからかしら」
「――それなら、俺が」
パウが強く踏み出した一歩、その足下で、迸るようにまた光が散った。眼鏡の向こう、髪にも隠された視力のない片目の赤色に、青色が反射する。
暗闇がうねるように揺れ始めたのは、その時だった。
激しい揺れは地震と言うよりも、波打ち揺らぐ、まさに夢の崩壊を感じさせた。パウは立っていられず、膝をついてしまうものの、杖を片手に、できる限り速く走った。
「……ここまでみたいね」
ミラーカの声も濁って聞き取りにくい。先にある光が明滅している。
「何かされたのか!」
とっさにパウはそう考えた――先ほどミラーカは言っていた、魔法薬の影響が薄れて、と。
ミラーカの行動に気付いた「向こう側の何者か」が再び魔法薬を使用してミラーカの抑制にはいったか。
それとも――と、パウの顔は青ざめる。
もうすでに、あの巨大なグレゴの元へ?
「違うわ。まだ、大丈夫」
声は変わらず濁って聞き取りにくかったが、確かに彼女の声だった。
「……いまの私じゃ、ここが限界というだけ。いろんなことができるようになったけど、まだ、できないことがあるだけ」
足下が崩れていくのを、パウは感じていた。
それから、何か、大きな力も。
見えない膜のようなもの幾重にもなってある。通り抜けはできるものの、絡みついて、拭えない。
「奴らがデューにかけた守りの魔法、甘く見ていたわね――それに、あの大きなグレゴの気配もあって――」
夢が終わる。
直感で、パウはわかった。夢が終わる。
ミラーカは夢の中、夢の世界にしか出てこられない。
終わったら、どうなる?
「ミラーカ!」
彼女が消えてしまいそうで、より足を早めた。
けれども、光との距離は変わらず開いていて。
最初よりもずっと遠くにあることに、ようやく気付いて。
「夢が終わる――『向こう側』に追い出されるわよ――海に落ちないようにはするわ――でも、デューのどこに出るか、わからない――」
足下が抜ける。光が溢れる。
空の青色が見えた。ミラーカの青色ではない。
それから荒れた町並みも、彼方に。
――重力が襲い来る。暗闇が縮むように、あるいは拭われるように消えていく。冷たい風が髪を、マントをはためかせ、空気は決してパウを受け止めようとはしない。
パウは空に放り出された。
消えていく暗闇から、夢から、声が聞こえた。
パウ、飛んで。
小さな青い光が、夢の世界からこちらの世界へ飛び出してくる。パウの背に当たれば大きく広がり――蝶の羽を作り上げた。
しかし、こちらの世界、現実の世界で、夢の世界から出てきたものは長く持たなかった。
たちまち、蝶の羽は先からどろりと溶けて、その雫は黒くなって腐臭を放つ。
グレゴの血に似ていた。
それでも蝶の羽は限界まで羽ばたき、パウが地面に降り立ったのと合わせて、完全に消えてしまった。
朝の日差しが眩しかった。パウが振り返れば、黒い液体が地面を染めていた。朝の光に照らされたそれは、蒸発するように消えて、黒い染みだけが残った。
あたりを見回せば、人気のない街。ところどころ崩壊している。
魔術文明都市、デュー。
見上げれば、城のような建物が見える。
あれこそがデューの中心。デューの城。『千華の光』の魔術師が集う場所。
パウは無言で歩き出す。
杖が地面をつく音が聞こえる。足音が響く。
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