第九章(03) 約束を果たして
* * *
自らにかかった魔法封じの呪いを、何とか打破できないか。
何度も集中し、流れた汗が頬を伝い床に落ちるほどに努めてみたが、一向に呪いが緩む気配はなかった。デューの魔術師の中でも、最高位の魔術師の一人であるカーテレイン。彼女の魔法は、治癒能力だけに長けているものではなかったらしい。
魔法が使えなくては、魔術師はただの人間と同じになる。ではただの人間は、どうするのかと考えて、パウは椅子を手に取った――軟禁されているだけである、身体の自由はまだあった。
だから手にした椅子で、鍵のかかった扉を殴りつけてみたものの、扉が壊れることはなかった。
果てに、疲弊にパウは、床に座り込んだ。
どんな罰でも受けると決めた。
自分はそれほどのことをしたのだから。
――けれども、間違いなく自分のせいで数多の苦痛を受けることになったミラーカとの約束以上に大切なものはなく。
……いま、自分はミラーカのものである。
あの夜、全てに決着をつけるまで死ねないと言った。
あの夜、全てのグレゴを彼女に喰わせ、彼女に力をつけさせ、彼女の兄への復讐を手伝うと決めた。
あの夜、全てが終わったのなら、自分への裁きを受けると誓った。
その時から、自分の命は自分のものではなく。
全てはミラーカのものになったのだ。
だから、主であるミラーカが捕まったのなら、自分は助けに行かないといけないのに。
こんなところで終わりを待って。
――全ての終わりに、ミラーカと再会できるか、まだわからないというのに。
『遠き日の霜』が、そしてカーテレイン達デューの魔術師が、ミラーカに何をするかわからない。
ずき、と、不意に痛みを覚えて、パウは自らの手を見た。赤くすれて、血も出ていた。今まで気付かなかったものの、椅子で扉を殴り続けていた際に、勢いに手のひらが擦り切れていたらしい。
傍らに転がる椅子を見れば、自分が握っていた部分には血がついていた上に、足の一本が折れていた。気付かないうちに、それほどに扉を殴り続けていた。
だが、扉は開かない。魔法が施されているのかもしれない。傷一つない。
「……ミラーカに」
不意に波が押し寄せる。
「ミラーカに会わせてくれ……」
彼女だけが頼りだった。彼女だけが光だった。
もしこのまま失われたのなら、自分はどうなる? 自分は何になる?
罰からはもう逃げないつもりではいる。けれど、もし『魂削り』で己を失うことになったとしたら。
ミラーカへの気持ちが消え失せてしまったのなら。
それだけは避けなくてはいけない。
だが、誰にも弱々しい声は届かない。
――そのはずだった。
「――みっともないわね」
世界の全てが波打った。
「いいえ……あなたは最初から、そんな人だったかもしれないわね。それに……みっともないといえば、いまの私もそうね……」
声は確かに聞こえた。ただしはっきりとは聞こえない。靄がかかっているかのごとく、彼方から反響してくるように聞こえてくる。
それでも世界は薄く青色に染まっていた。ものの輪郭が青色を帯びている。空の青よりも透き通っていて、海の青よりも深淵を湛えた色。
ミラーカ、と唇を動かし、パウが振り返れば。
「……あまり時間が経ってないように思えるけど、あなた、少しやつれた? それとも身だしなみが整っていないだけかしら?」
ふふ、と笑う影が立っていた。それははっきりとミラーカの姿をしていない。不定形な青色の影で、時折ぼんやりと人の形をとったかと思えば崩れ、また時折蝶の羽や虫の手足も見える。
ただどんな形であれ、輝いていた。背後に深い青色の闇を携えて。
「ミラーカ……ミラーカ、なのか?」
とっさにパウが手を伸ばすものの、その手は光をすり抜けてしまった。光はまるで風に飛ばされるように散り、パウはさっと顔を青ざめさせる。
だが光の粒子は再び集まって、パウの前に立った。
「……いつもあなたの意識に、夢に入り込んでいたから、距離があってもできるんじゃないかと思ったのよね」
輝く影に、三日月が浮かんだ。ミラーカが微笑んでいる。
「なんとなく……なんとなく、わかるのよ。繰り返し意識を繋げて来たから、距離があっても、夢で繋がれるって……でもやっぱり……距離がありすぎるみたいね。あなたの夢を通してそっちに逃げ出せるかと思ったけど、そんなことは……できないみたい。薬のせいもあるかもだけど」
「――お前は、大丈夫なのか?」
薬、と聞いてパウは気付く――恐らく今のミラーカは、『遠き日の霜』に囚われ、魔法薬による抑制を受けているのだと。
「いまはね……あの妙な魔法薬の効果、ずっと続くわけじゃないのよ。薄れたのなら、こうしてなんとか意識も繋げられるみたいだし……」
不定形の影は宙に座るような動きを見せた。余裕を持った態度に見えたが、その形は、時折ぶれて粒子と化す。それでもどうにか形を保とうと、必死になっているようにも見えた。背後に見える青い闇も、時々揺らめく。
直感で、パウは察した。
「……いますぐそっちに行く」
ミラーカに時間がないことを。いま、こうして『夢に入り込んでいる』らしいが、それもギリギリの状態で行っているのだと。
そしていまミラーカはこうして自分の前に現れてくれたが――向こうには、プラシドが「神」と呼んだグレゴもいるのだ。
「奴らは……お前をどうにかするつもりだろう?」
「喰わせるつもりみたいね。あの巨大な奴に。でも……逆に私が奴を喰うんじゃないかと、尻ごみしているみたいよ」
と、青い影がぐにゃりと歪んだ。
「でもパウ……あなたはどうやって、そこから出るつもりなの?」
嘲笑が囁きのように響き渡る。まるで何匹もの蝶に纏わりつかれたような感覚がパウにはあった。
その中で、傷ついた手に、不定形の光が伸びてくる。
「……何が起きているのか、全て知っているわ。本当に不思議ね、わかるのよ……何もかも、とまではいかないけれど。あなたのことだから、かしら?」
光はあたかもパウを包むかのように伸びて、揺らめいて、そしてまた微笑むのだった。
もう地位を示す耳飾りのない耳に、光が触れる。冷たく、熱い。
「立派な魔術師になるんだって、最初こそ意気込んでたのに、結局あなたは臆病で、そして……妄信的で。だから……そうなったのも、『魂削り』の罰を与えられるのも、当然のことよね」
そうミラーカに言われてしまったのなら。
パウはもう、ここから逃げ出すわけにはいかなくなってしまった。肩の力が抜ける。指先からも力が抜けていく。手の平の傷口に光が触れると、確かに痛みがあった。
「……でも、気に入らないわね」
手に触れていた光が、離れていく。
「あなたがどうなろうと……多分いまの私なら、どうにか戻せるわ。けど、だからといって、好き勝手させるわけにはいかない――」
光が渦巻き、背後の闇へと吸い込まれていく。
深淵。どこに続いているのかもわからない。夜空にも似ていて、青いきらめきがわずかに見えるものの、まさに底なしの井戸に潜む無限の闇に見えた。
「ミラーカ」
光が消えた闇に、手を伸ばす。
「待ってくれ、ミラーカ」
「待ってって言うのなら、ついてきて」
闇が大きく広がった。パウを呑み込もうとするほどに広がり、包む。
それは魔法でも他の何でもない。未知の感覚が肌を、魂を撫でていくのをパウは感じていた。
ミラーカの秘めた力だ。
「パウ、約束を果たして。そうするって、言ったでしょう?」
響いてくる声に、笑い声はなかった。
「全てのグレゴを喰わせるという約束を。ベラーへの復讐の手伝いも。そして……最後にはあなたへの復讐もさせてくれるって、約束を」
――闇の奥で、強い青色が輝いている。
蝶にも見える、その輝き。
「あなたは罰を受けると同時に――自分のしたことにけりをつけるって、言っていたじゃない」
「……ああ」
闇の中へ歩き出す。足元で青色が輝き、たちまち散って、消え失せる。
そこに道はなかった。暗闇だけが広がっていた。
だが彼方に青い光が輝いていた。
ミラーカが呼んでいる。
果たすべきことを果たせと、啓示が瞬いている。導いてくれる。
沈んでいくような感覚の中、歩みを進める。
――大きく扉が開け放たれたのはその時だった。
「――パウ」
声が聞こえてパウが振り返れば、暗闇の先、先程まで軟禁されていた部屋があって、あれほど強固に閉まっていた扉が開いていた。そこにいるのはアーゼとメオリだった。
「……ミラーカが呼んでいる、行かないと」
パウは踵を返さなかった。
アーゼとメオリは、まるで見えないものに気圧されているかのように顔を蒼白にし、呼吸を乱していた。そこに見えない壁があるかのように、それ以上、部屋に入ってこない。
「待て、お前、一人、で……こっちに、逃げ道、を……」
そんな中でも、アーゼは息も絶え絶えに言葉を紡ぐ。
――パウにはわからなかった。
部屋を満たす青い気配が、アーゼとメオリに絡みついて、その喉に、精神に、魂に対して、触れてはいけない異物として蝕んでいたことに。
その存在は、世界にとって毒だった。故に世界に属する命に対しても毒だった。
闇の道の入り口は、閉じ始めていた。闇は小さくなり、互いの姿が見えなくなっていく。
アーゼとメオリは、やはりその場から動けず、闇の中に飛び込むこともできなかった。そしてパウも動かず、二人を見据える。
ついに道が閉ざされようとしたところで、ようやくメオリが動いた。
闇の中に投げ込んだのは、紫色のマントと、杖。
「……エヴゼイが……直し、て……」
そこまで言って、メオリは膝から崩れ落ちてしまった。
受け取ったマントと杖を、パウは無言で身に着ける。
そして、何も言わずに先へ歩き出す。闇の先へ。青い光が輝く方へ。
「俺達も、後から行く……」
限界の状態でも、アーゼはまだ立っていた。
「死ぬなよ……」
そう声をかけても、パウは振り返らない。
「パウ」
名前を呼んでも、彼は歩みを止めることもなく、一言も返さなかった。
ただ闇の底に向かうようにして、進んでいく。
――闇が閉ざされた。部屋に満ちていた理解できない気配が消え失せる。この世に存在してはならないものが、ようやく消えた。
メオリは当に気を失って倒れていた。続いてアーゼも、座り込もうとしたところで、気を失って倒れてしまった。
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