第八章(09) 私が殺す予定でね

 眩しい光の中、パウは素早く瞬間移動する。そうして手にしたのは、ベラーが先程まで手にしていた包丁だった。

 いま、ゼクンと戦う上で、できる魔法がない――ゼナイダには、どんな魔法もかなわなかった。あの時勝てたのは、ミラーカがいたおかげだった。

 魔法が使えないなら、武器を手にすればいい。本来こういった時のために、護身用として仕込み杖を持っていたが、それもないいま、この包丁に頼るしかない。

 ところが武器を手にしたからといって、勝機を掴んだわけでもない。

 ――今の状態で、ゼクンに勝てる理由が一つもないのだ。

 包丁を握りしめて、パウは走り出す。

 青い輝きを纏った声のする方へ。

 逃げるしかなかった。武器はもはや、ないよりはまし、それだけのものだ。

 光が弱まってくる。目の前に敵がいないことに気付いたゼクンは、それでもすぐさまパウの後ろ姿を捉えた。

「逃げられると……思ってるのか!」

 薄く笑って駆け出し、追いかける。すぐさまその背に追いつく。そしてナイフを振るうものの、パウは素早く振り返って包丁を構えた。

 油断していたのだろう、まさかパウが武器を手にしていると思っていなかったゼクンは、滑るようにナイフを弾かれてしまった。しかし。

「おい――俺をなんだと思ってる!」

 『仕入屋』だぞ。対魔術師として改造され、身体能力も上昇した――。

 ぎぃん、と音がして、切れ味の悪い包丁は弾かれてしまった。

 そうして無防備にさらけ出されたパウの正面。しまったと、赤い瞳が見開かれる。

 映ったのは、幼くも残虐に笑った狩人の顔。

「なめやがって――」

 ――包丁を弾いたナイフは、そのままパウの身体を深く走った。

 パウは悲鳴の一つも上げられず、ただひゅっと喉を鳴らし、直後に血を吐いた。深く切られた胸は、あっという間に赤く染まり、こぼれ落ちた血は床をも染める。その上にくずおれた身体は慄いて、もはや息をするだけで精一杯という様子だった。

「……おっと、深くやりすぎたか。まだ死んでもらっちゃ困るのに」

 ゼクンは少し苦く笑いながらも、パウの身体を蹴って仰向けにする――かすかな声を漏らして必死に呼吸する様は、なんとか生にしがみついてるといってよかった。目を大きく見開き、ゼクンを見上げている。

 恐ろしい勢いで、溢れ出る血があたりを染めていった。濃い血の臭いが漂う。

「……普通の人間は、やっぱり脆いなぁ」

 ゼクンはパウの頭に手を伸ばせば鷲掴みにして持ち上げる。もう片手にしたナイフを、ゆっくりパウの肩に沈ませていく。

「ばらばらにしてやるよ、まずは手を落として、足を落として、最後に頭な……頼むから最後まで生きててくれよ?」

 パウが血を吐きながら言葉を漏らす。鈍い悲鳴だった。鮮血の少しがゼクンの顔にかかったが、ゼクンは気にしなかった。

 ただ、仇が苦しんでいる様に、ひどく愉悦を覚えていた。

 と、パウの垂れた片手に光を見る。

「しょうもねぇなぁ……あはは、醜い、本当に」

 どうやら魔法を使おうとしているのだと、ゼクンにはわかった。しかし魔法を崩壊させる自分が近くにいるだけでなく、そもそも術者が致命傷を負った状態。ぐにゃぐにゃと歪んだ光は、いつまで経っても形をなさない。

「本当に、本当に……」

 ゆっくり、ゆっくり刃を肩に沈めていく。魔法を放とうとするその手を、切り落としにかかる。

「――しっかし、どうしてこんな奴にゼナイダは負けちゃったんだか……」

 そう呟いた時に。

 ――ナイフを握る肩に、大きな水晶が突き刺さった。

「―――え?」

 思わずゼクンはナイフを落とし、パウからも手を離してしまう。

 ……どうして肩に水晶が刺さっているのか、わからなかった。

 自分の身体は、魔法がきかない身体であるのに。

 幻か。しかし痛みを確かに感じていた。

 まさか目の前の魔術師によるものかと、改めて見下ろすものの、仇である魔術師は死にかけて震えたままで、そんなことができた様子は一つもない。

 ――そもそも、どうしてこの水晶はまだ肩に刺さったままでいる?

 ――どうして消えない?

 じわじわと、黒衣が血で染みる。銀色の血で濡れた黒色はかすかに輝いた。

「――話を聞かない子供は嫌いだよ。彼は言っていただろう、自分は殺していない、と」

 声がして、ようやくゼクンは気付く。

 肩に刺さっている水晶は――光を一つも反射しない、黒色であることに。

 ――新たに放たれた細い黒水晶いくつかが、身体を貫いた。勢いに押されるように、ゼクンは床に転がった。

 足音が近づいてくる。

「……なん、で」

 自分の銀の血の振動と、黒水晶の引力がせめぎ合い、自分の振動が乱れていくのを感じる。

「何に対して?」

 ――ゼクンが見上げれば、ベラーの姿がそこにあった。鎖で縛られていたはずの身は自由となって、手を構えれば、また黒水晶一つを、ゼクンの脇腹に放つ。

 うっ、と声を漏らして、ゼクンは口から血を漏らした。

「何に対しての『なんで』かな? 魔法がきかない身体であるのに、私の水晶が刺さったことが不思議なのかい?」

 それとも、と、ベラーの瞳が冷たく光る。

「魔法封じがかかっていたはずなのに、魔法が使えることが不思議なのかい?」

 その時にゼクンが見たベラーの顔は、まるで仮面を被っているかのように冷たく、異質に思えた。けれども、普段の表情よりも、瞳は爛々と輝いて――それが本物であると、気付かされる。

 まだナイフを一本、握っていた。投げようと、銀の血が滴るのも構わずぶんと振るうが、黒い結晶の盾に弾かれた。続いて水晶が放たれて、両手を床にうがたれる。

 もう攻撃はできない。

 恐怖はなかった。ただただ、困惑していた。

「まったく……ひどいことをしてくれる」

 ベラーがパウへと視線を向ければ、灰色の髪がゆらりと揺れた。

「あれは私の弟子なんだ……私が殺す予定でね? 横取りされては困るんだよ」

 ついに紺色の瞳から光が消えた。その瞳は黒水晶によく似て、漆黒を湛える。

 手が構えられる。魔法陣が花開き、大きな黒水晶の切っ先が現れる。

「普段ならいろいろ説明してあげてもよかったんだけど……悠長に話してる暇なんてないんだ。彼、死にかけているから」

 ――心臓を貫かれる間際に、ゼクンはようやく理解する。

 これがベラーなのだと。

 これまで見てきた笑みも、それ以外の表情も、何もない。

 虚ろ。いまは自分が放ってしまった火だけが、そこで燃えている。

「四肢を落として、最後に頭……悪くない。でも、時間がないし……お前は子供だからね。ああ、子供の悪さというのは、親が責任をとるものだよね?」

 ――骨を砕き、肉を貫き、魂を切り裂かれる。

 困惑したまま死に沈んだ。

 最期の時、双子の片割れの姿を思い出す余裕はなかった。

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