第八章(10) 私は何か、手に入れられるだろうか?


 * * *


 銀色の血が広がる。身体を改造され「道具」となっていた少年は、もう動かなかった。

 ベラーは死体にくるりと背を向ければ、瞳をパウへと向ける――壁に寄りかかって座り込み、全身を血に染めている。まだ息はしているが、おびただしい量の出血は見てわかる。

「……おもしろくないね」

 パウの前に立ち、死にかかっている彼を見下ろす。

「……お前を殺せば、私は何か、手に入れられるだろうか?」

 ベラーのその手に、魔法の光が宿る。

 しゃがみ込む。かつての弟子はぼんやりと目を開けていた。その目を覗きこんで、魔法を構えた手を、彼の胸元へ伸ばす。

 そのままにしておけば、死ぬだろう。

「ああでもね、パウ」

 魔法陣が展開されて、光が放たれた。

「これは……間違っていると思うんだよ」

 ――深く斬られたパウの傷。奥から、遅々としているものの、塞がっていく。

「ここで死なれては、困るのだよ……殺しても、いいのだけれど……」

 そこまで呟き、ベラーはその先、言葉を見つけられなかった。集中して、パウの応急処置を続ける。

 自分が何を求めているのか、自身でよくわかっていなかった。

 ただこんな状況でこの魔術師を殺したところで、何も得られない。そう思えたのだ。

 ……可能であれば、パウは生きたまま捕獲することが望ましい。この魔術師の記憶には――彼が行った実験や研究には価値がある。グレゴを変異させたことだけではなく、不老不死や「神に近づくこと」への手がかりがあるかもしれない。

 傷はなかなか、塞がらない。魔法による治療は、特別治癒魔法が得意でない限り、どうしても応急処置になってしまう。あらゆる魔法を使いこなせるものの、ベラーですらも「魔法で短時間で完治させる」ことは難しかった。その上、パウの傷はひどい状態だ。一度魔法で手当てしたところも、まるで糸がほどけたようにふつりと広がり、血が滲み出す。

 ひとまずは、大きな傷を塞ぐべきだと、肩の傷、身体前面の傷に集中する。

 ところが、集中するほどに思う。

 自分はいったい、何をしているのか、と。

「……ああ、まったく」

 またしても、傷を塞ぎきれなかった。魔法で出血を止められたかと思ったが、それは一瞬だけで、ぐぐ、と傷が開いて深紅が見える。

 応急処置を続けるベラーの手は、何度も傷に触れたことにより、すでにパウの血塗れとなっていた。その手でも、額の汗を拭う。赤色が伸びた。

 ――いま死なれると困る、という自身の気持ちは、少しわかった。

 しかし――死なせたくない、という気持ちは、確かにそこにあるものの、理解できなかった。

 何故、そう思う?

 「死なれると困る」と「死なせたくない」は、同じようにみえて、きっと違う。根本に大きな違いがあるような気がして、気分が悪かった。

 ――自分はいったい、何をしているのだろうか。

 彼に何を求めているのだろうか。

 そもそも、それ以前に、自分が本当に求めるものとは何か。

 どうしてか、いま、この瞬間、不老不死や「神へ近づくこと」、また新世界について、全てがどうでもよくなったように思えるのだ。

 それはいったい、何だったのか、と――

 うっ、と声が漏れる。パウがかすかに血を吐いた。

「動かないで、これはなかなか骨が折れる……」

 気を失っていたように思えたが、目を覚ましたのだろうか。ベラーは声をかけて魔法を施し続けたが、

 ――形の整わない水晶が、放たれる。

 ――瞬時に黒水晶の盾を作り、崩壊させ、パウから距離をとる。

「……パウ、私は君の傷を治しているだけなんだけどな。そのままだと死ぬよ」

 ベラーは両手を上げて見せたが、気付く。

 短く呼吸をするパウはひどく怯えたような、焦っているかのような表情で、そこに正気はなかった――大怪我により、錯乱しているらしかった。

 パウの震える手が、投げるように水晶を放つ。だがベラーは落ち着いて黒水晶の盾を出し、その盾に命中する前に、パウの魔法はほどけて消える。

 パウの水晶は歪であるものの、がむしゃらに魔力を固めたようなものに見える――いまの状態で魔力を消耗してはまずい。

「パウ、落ち着きなさい」

 魔力が底を尽きても、無理矢理使う可能性がある。というよりも、すでにその状態にあるかもしれない、あれほどの怪我を負って、まともに魔法が使えるわけがないのだ。命を削っているに違いない。

 ベラーは盾を消し、パウへと迫る。飛んでくる水晶を、黒水晶で迎撃し、相殺させる。パウ本人に一つでも黒水晶を刺せば、攻撃をやめさせられるかもしれないが、いまはためらわれた。これ以上怪我をさせたら、どうなるか。

 眠らせなければ。パウの目元に手を持っていきたいが、まだ距離はある。近づくにつれ、パウの魔法は激化する――応急処置をした傷が開き、また血が流れている。その痛みに暴れ狂うように、パウは声を漏らしながら水晶を次々に放ってくる。

 やむを得ない。

 一つの黒い輝きが、パウの足に刺さった。

 濁った悲鳴が上がって、攻撃が止んだ。壁によりかかり座り込んだパウは、全身を震わせて、動きたくとも動けないような状態だった――魔力の乱れに、全身を支配されているのだろう。

 ベラーは溜息を吐く。早く眠らせなくては――。

 そう一歩踏み出した、次の瞬間だった。

 パウの片手が上がった――魔法陣が展開される。

 放たれたのは、水晶一つ。白い水晶だった。正面からベラーへ向かって飛ぶ。

 七色を帯びた紫色が、見えた気がした。

 想定外だったものの、ベラーの反応は遅れない。すぐさま黒水晶の盾を作る。

 直後に、ガラスが割れるような音がして。

 ――砕けたのは、黒色だった。

 パウの水晶の輝きに、ベラーは瞠目する。黒に近い紺色の瞳は、光に照らされ、紫色を帯びた。

 ――風を切る音と、肉を裂く音が、走り抜ける。

 果てにパウの水晶は廊下の壁に刺さり、そこでぼろぼろと消え去った。

 ――すぐさまベラーは、パウの目元に手をかざす。

 意識を奪う魔法。以前のような抵抗はなかった。力が抜けたような声を漏らして、パウがぐったりと倒れかかる。その身体を支えて、ベラーは深く溜息を吐いた。

「……君は」

 自らの頬に手を伸ばす――先程のパウの魔法は、ベラーを貫くことはできなかった。

 ただ頬にかすって、長く、決して浅くない傷をつけた。ベラーは傷に触れ、ぬるりと指で血を拭う。

 あり得ないことだった。

 しかし触れた傷は、確かに痛みがあった。

「はは……」

 気付けばベラーは声を漏らして笑っていた。

「君は私に……本当におもしろいものをみせてくれる……」

 そうして改めて、パウの傷に手をかざす。

 こんなところで、絶対に死なせてはいけない。

 こんなことで、死んでもらっては困る。

 ……まだ可能性を秘めている。

 だから次に出会う時は、万全の状態でないと困る。

 だから自分が彼を殺すとき、彼は十分に戦える状態でないと困る。

「死なないでおくれ、パウ。私のために」

 ――自分が求めるものの光を、見た気がしたから。

 治癒の魔法で、これほどに魔力を消耗したのは、ベラーにとって初めてだった。

 ひとまずは止血を終えた。傷も、大きなものは塞ぐことができた。

 だがパウは血を失いすぎたし、何よりも治癒の魔法は所詮、応急処置。このままにはしておけないだけでなく、下手に動かすことすらできない。

 パウの手に触れると、冷たかった。どうしたものかとベラーは立ち上がり、考える。いまできる限りのことはした。そういえば、研究室か医務室あたりに、魔法薬があるかもしれない。魔法そのものよりも、薬にしたものの方が、複雑に魔法が組まれている。治癒に関するものもあるかもしれない。

 しかし――そんな余裕がなくなったことに気付いて、ベラーは顔を上げる。

「油断のできない男だ」

 廊下の先に、人影一つ。

「お前は……わざと捕まったんだな?」

 プラシドが表情を歪めていた。

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