第八章(08) うっかり殺した……そんな感じなら
「何が起きている?」
「船の翼か浮力がおかしいらしい……」
扉の向こうで声がする。数人の足音が軽やかに駆けていく。
静かになって、ベラーが扉を開けて外に出た。猫のように足音を立てずに進む。パウも辺りを見回し、人の気配がないことを確認して進む――向かうは、ミラーカがいると予測される、船の後方だ。
「プラシドって奴の部屋にいるのか?」
「恐らくね。彼は昔から、大事なものは自室に隠しておく」
プラシドは先程、船の前方の大研究室で見かけた――思い出し、パウは都合がいいと考える。まだあちらにいるだろう。
けれども、船の中はまだ落ち着いているように思えるものの、確かに異変に気付いて乱れ始めている。自分達の仕業だと気付かれる前に、ミラーカを助けなくては。
だが、そう考える中、パウは別のことも考える。
ミラーカを見つけたとして、その後、どうする? タイミング良く船が地上に近づいていれば、逃げられるが。
問題は。
――先を進む背を見つめる。彼が振り返れば、銀に近い灰色の髪が揺れた。紺色よりも深い瞳が柔らかく微笑んで、ベラーは再び正面を向く。
……ここまでベラーに、変わった様子は見られなかった。
だがこの後、彼はどうするだろうか。ただでさえ、何を考えているのか、わからない男なのだ。
魔法封じがかかっているものの、未だ彼は家畜解体のためらしい肉切り包丁を握っている。
すっと、パウは目を閉じた。
やることは決まった。けれども、いまではない――
――ぴたりと、足を止める。
何かが聞こえたような気がして、パウは息を呑んで振り返った。
「……パウ? どうしたんだい」
ベラーが気付いて立ち止まる。
「急いでおくれ。どうやら皆、船の前方に向かったようだが、まだ誰かこのあたりに残っているかもしれないから……」
その声はもう、パウには届いていなかった。
パウは別の廊下の先を見つめていた。
聞こえる。誰かが呼んでいる。
――こっちよ。
「―――ミラーカ」
吐息のように名前を呟いた。瞼の裏に、青い光を見た。
そちらへと、歩き出す。
「パウ」
ベラーに呼び止められたが、刹那、パウは手を構えた。瞬時に展開される魔法陣、蛇のように飛び出したのは魔法の鎖。ベラーを縛れば、床に転がす。
「……用心深くなったな」
「……おかげさまで」
ここまでは互いに大人しくしていたが、ベラーはやはり信用できない。ベラーの手から離れ、近くに転がった包丁を、パウは蹴って遠くに飛ばす。縛ったといっても、この男は本当に何をするかわからないからだ。
ところが、静寂の中、パウはベラーを睨んで、そこで動きを止めてしまった。
少し、考える。
「それで、私を殺すのかい?」
黙っていると、ベラーが口を開いた。
……悩んでしまったのだ。理由は簡単に言えない、まとまらない。
パウは顔を歪める。この男は、復讐するべき相手だ。自分はこいつに利用され、ミラーカもまた、この男を恨んでいる。だから、殺せるのなら、殺したい。だが。
「どうしたんだい、パウ……ああお前はそういえば、どんな人物であれ、誰かを殺すことにためらいを覚える性格だったな……」
ベラーはいまだに微笑んでいた。
それが怖かった。
何を考えているのかわからない。どうしてこうも、余裕でいられるのか。
いま魔法を放てば、首を落とすことだってできるのに。
――何か、まだある。
「……何を隠している?」
尋ねても、ベラーは微笑みを浮かべたままだった。しかし瞳が細くなり、笑みは歪なものに変わる。
背筋に冷たいものが走った。首に、細く冷たい指をかけられたような気がした。本能が危険を告げている。血の気が引いて、パウは慌てて退いた。
ベラーは何もしてこなかった。ただこちらを見据えたまま、溜息を吐いたのだった。
それと同時に。
――パウ、危ないわ。
青い光の幻が、目の前に星を見せた。風を切る音を捉え、パウは反射的に魔法で盾を作り出し――飛んできた細いナイフを弾いた。
「おや……おかしいな。まだ来ないと思っていたのに」
ベラーがのんきに先を見据える。
「パウ、どうやら私達の計画は、どこかで破綻したようだ、運がなかったらしい」
廊下の先に、黒衣を纏った小柄な人物が立っていた。黒い服装に対して、赤い髪が眩しい。
銀色の瞳と、目があった。その顔立ちに、パウは息を呑む。
――かつて戦った『掃除屋』のゼナイダに、よく似ていた。
恐らく、任務に失敗したから何者かに殺された、あの少女。
「……牢屋を見に行ったら、死体一つだけが転がってたんだ、解体でもしようとしたのか、ヘタクソな開き具合で……」
彼は足音を響かせながら、ゆっくり歩いてくる。銀色の瞳は、パウを捉えてはなさない。
「それだけしかなくて……牢の鍵は開いてたし、中に誰もいなかったんだ」
彼が何者なのか、すぐにパウは思い当たった。
『掃除屋』と並ぶ組織『仕入屋』、そのリーダー。
ゼナイダは自分に殺されたと思いこんでいる少年。
ゼクン――ベラーはそう言っていた。
「ちょうどよかった……ウィクトルが報告に走ったけど」
ゼクンは大振りのナイフ、二本を取り出す。恐ろしいほどに磨かれ、透き通っているかのように輝いていた。
「捕まえようとしたら、うっかり殺した……そんな感じなら、プラシド様も文句言わないよなぁ?」
「……パウ、逃げた方がいい。ゼナイダを相手にしたことがあるなら、わかるだろう?」
そんなベラーの声が聞こえたが、その前にパウは動き出していた。ベラーをおいて、廊下の先へと走る。
わかっている。あの少年がゼナイダと同じなら――。
――ばっ、と、跳ね飛ぶようにしてゼクンが追ってくる。ナイフを両手に構え、跳躍の勢いをそのままに壁を走り、パウに追いつく。ナイフを振るう。
わかってはいたものの、パウはとっさに、魔法の水晶を放った。それでナイフを弾こうとしたのだ。
しかし水晶はナイフに簡単に切り裂かれ、溶けてなくなる。正しくは、ゼクンの身体に流れる銀色の血、その魔力の振動が魔法を崩した。ナイフの軌道はパウの胸を狙う。
幸い、我に返って引いた一歩が間に合った。鋭利な刃物の輝きは、パウの目の前を滑っていく。
が、もう一つの輝きが迫ってくる――。
瞬間移動魔法は間に合わなかった。身をよじってナイフから逃れようとしたものの、肩に一閃が走った。切られたマントがずり落ちる。温かな鮮血が溢れ出す。
瞬間移動できたのは、その直後だった。ゼクンからいくらか離れた場所に、パウは姿を現す。そこで膝をついてしまった――肩から胸を走った傷は、深い。痛みに身体が熱く燃え上がる感覚を覚え、額に汗が浮かんだ。
顔を上げれば、ゼクンがナイフを振って、血を払っていた。パウが落としてしまった紫色のマントを踏みつけ、迫り来る。
「簡単には殺さないぜ、安心しろ。殺さないのは得意なんだ」
俺は『仕入屋』だから、とゼクンは続ける。
構えたナイフ、一方に映るのは、復讐に燃える銀色の瞳。もう一方に映るは、焦燥した赤い瞳。
「お前には……苦しんで死んでもらう。あのときのゼナイダの苦しみを、味わって死ね!」
「――待て! 俺は、殺してない……」
ふらふらとパウは立ち上がりつつ叫んだ。応急処置にはなるものの、斬られた怪我に治癒魔法を施しながら。
「ゼナイダは……あれは、内側から壊れたみたいだった! 誰かが何かしたんだ!」
「――お前が魔法で殺したんだろう! お前と、あの蝶々が!」
小さな身体が跳ねる。蹴りが飛んできた。さっとパウは避けようとしたものの、傷の痛みに遅れた。パウの身体ははねられたかのように飛び、壁に叩きつけられる。
ゼクンは続けざまに攻める。床にずり落ちたパウへと駆け出す。
ところがパウは魔法を放った。放たれたのは、水晶ではなく、光の球。ゼクンへ向かうことなく、その場に生まれたかと思えば、激しい光を発する。白くなる廊下。すべての輪郭がなくなり、ゼクンもとっさに立ち止まり目を瞑った。
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