第八章(06) あれこそがプラシドのいう神
「――まさか、グレゴ、なのか……?」
特徴として、それで間違いなかった。しかしこの渡り廊下の下、腹の膨れた巨人のようにも見えるそれを、パウは認められなかった。
頭は蠅化グレゴに似ていた。複眼は大きさこそ違うものの、全く同じ。だが口は大きくより鋭い牙が覗いている。長い一対の触覚に、もう一対、短い触覚。またその周辺には角のような突起物がいくつかある――冠を思わせる。
頭の下を見れば、嫌でも膨れた腹に目がいってしまう。まるで妊娠しているかのようで見続けていると、時折もごもごと動いている。その腹の下に、もはや飾りのような足が複数対。一瞬毛のようにも見えたが、恐らく足だろう。背中は見えないものの、細長い絹のようなものがそこから何本も生えているらしかった。正体を考えれば羽か、それとも未知の何かか。
巨大な虫のような何か。もはや虫ではない何か。いくつもの魔法陣に囲まれ、またいくつもの鎖に縛られ、鎮座していた。
足下には人影がいくつか。非常に小さい。
「面白いだろう?」
すぐ近くにいるベラーの声は、どうしてか、ひどく遠くに聞こえた。
面白くなんか、ない。
「あれこそがプラシドのいう神……『光神蟲』だよ」
その大きさは、確かに神といってもよかった。静かに座り込むような姿は、古びた遺跡に残された偶像を彷彿させた。
「あれは、私達の予想を遙かに超える力を持った……とはいえ、私の魔法薬でいまは眠っている状態。結局、私達で操作できるものだよ。それを神と崇めるなんて……おまけに知能は高くないし、姿もひどく醜い。力ばかりがある頭の悪い怪物、といったところだね」
パウが進めずにいたためか、先を進んでいたベラーが、隣まで戻ってきていた。
黒にも似た紺色の瞳は、好奇心に似た何かだけがあった。
「しかしあの醜さの向こうに……不老不死や神に近づく何かを持っているに違いなくてね。我々はそれを研究し、突き止めなくてはならない。そしてその後には、新世界を作るための兵器として使いたいのだよ」
「――正気じゃない。どうやってあんなものを」
あんなものを。
元は人間であったのに。
恐ろしい実験をして、その果てにこんな姿にして、まだ玩具のように扱って。
唇は乾いていた。声もかすれてしまっていた。
「わかるだろう? グレゴを喰わせ続けたんだ……そういえば、ミラーカはほとんど変化がないようだね? あれもグレゴを喰ったと言ってたけど」
そういう話をしたいのではないと、パウはゆるゆると頭を振った。
と、『光神蟲』の前に、人影一つが歩み出る。その人影は巨大な漆黒を眺めた後に、不意に、視線をこちらに向けた。
さっと、パウとベラーはしゃがみ込んだ。
「プラシド……彼がここにいるということは、まだ私達が牢を抜け出したことについて、気付いていないようだね」
身を屈めながらも、ベラーは彼を見つめる。パウもそろそろと眺めて思う――彼が、あの怪物を「神」として崇めている男なのか、と。
「あんなものを……」
全てが理解できなかった。だが自然と瞳を鋭くさせてしまう。
睨むは、自らが生み出すきっかけを作ってしまった、漆黒の存在。
「――あいつも、どうにかしないと」
「……いまは何もできない。やることはわかっているだろう?」
ベラーは先へ進み出す。
「あまりもたついていると、青い蝶もあいつに喰われてしまうよ?」
* * *
銀色の巨大な筒は、鋭い光を反射していた。地面に描かれた魔法陣は、その筒に繋がっていて、脈打つように明滅している。
と、銀色が蠢いた。波打ち、水面から、まだ幼い手が出てくる。
――その培養槽から出てきたのは、赤毛の少年だった。銀色の液体を滴らせながら外に出れば、すぐそばにかけておいたタオルで体を拭き、服を着始める。
培養槽は一つだけではない。もう一つが並んでいた。しかし空っぽのままだった。
「気分はどうだぁ、ゼクン。調整、俺、うまくできた? 身体、変なところないか?」
培養槽の影から、青年が一人――ウィクトルが出てくる。
改造されたことにより、銀の血が流れる人間であるゼクンは、定期的に「調整」を行わなくてはいけなかった。普段は母親であるトリーツェンが行うものの、彼女はここにはいない。だからこそウィクトルが行った。何度か経験があったのだ。とはいえ、慣れているわけではなかったものの。
「……お母さまは、悔しくないのかな」
服を着ながら、ゼクンは呟く。ウィクトルへの返事ではなかった。
――トリーツェンは、パウを殺すのは惜しいと考えていた。だからこそ、ゼクンは『遠き日の霜』を抜けるプラシドの提案を受け入れたのだ。
こちら側につかないか、という提案を。
「お母さまに反抗したの、初めてだ……」
そう呟くゼクンを、ウィクトルは黙って見つめていた。まるでゼクンには、自分が見えていない様子に思える。それも仕方がないかとウィクトルは考えたが、ふとゼクンが振り返った。
「プラシド様は、どう動く予定なんだ? あいつ、捕まえたんだろ」
「……とりあえずは脳を開くつもりみたいだ。で、その後ゼクンに引き渡される」
その後、ゼクンがそれをどうするか、全て彼の自由である。
黒い衣に身を包み終えて、ゼクンは最後に、ナイフを身につける。同時に、表情に重々しい影が落ちた。
「ゼナイダを殺した奴を、絶対に許さない」
影の中、炎が燃え上がっている。いまにもナイフを抜きそうな勢いがそこにあった。瞳に映っているのは、殺された片割れか、殺した魔術師か。
だがウィクトルは、知っていた。
――ゼナイダを殺したのは、あの魔術師じゃないよ、ゼクン。
――君達の「お母さま」、トリーツェンだよ……。
決して、口には出せなかった。まだ若い魔術師は、自分よりも幼く、けれども「道具」として作られた少年を見つめることしかできなかった。
言ったところで、ゼクンは簡単に信じてくれないだろう。
場合によっては大きく傷つくかもしれない。
すでにゼナイダを失っているのに。
つと、ウィクトルは懐に手をいれる。取り出したのは銀色の水晶――ゼクンの心臓ともいえるべきものだった。
トリーツェンからこれを盗み出してなければ、今頃ゼクンも殺されていたに違いない。
不要な道具だ、と。
――プラシドについてこないかと誘われた時、そこにゼクンもいると知って、急いで盗み出してきたのだ。
もう、友達を失いたくなかったから。
ゼクンは非魔術師であり、ただ自分達魔術師に使える者達の一人だ。
けれども仲間で、友達で。
「――脳を開いたら、死んだみたいになる?」
不意にゼクンに尋ねられ、ウィクトルは慌てて銀水晶をしまう。なんとか笑顔を作って、
「生きてる状態ではあるけど……まあ別人というかなんというか、いろいろ壊れちゃうらしいからなぁ」
それを聞いて、ゼクンが迷わず歩き出す。見えない何かを睨んだままで、ウィクトルは妙な予感を覚えた。
「ゼクン、どこに行くんだ?」
「牢に行く。あいつ、そこにいるんだろ?」
「殺しちゃだめだよ!」
とっさにウィクトルはゼクンを追いかけたが、ゼクンは振り返ることもなく、扉を目指していく。
「殺さない、プラシド様にちゃんと言われてるから。でも……ゼナイダが受けた痛みを、俺がどれほど憎んでいるかを、あいつが理解できるうちにぶつけておきたいから」
そこまで言って、やっとゼクンは立ち止まり、顔をウィクトルへ向けてくれた。
笑ってはいなかったが。以前はよく笑っていたのに。
「殺さないって、ウィクトル。俺、『仕入屋』。殺さないのは得意だって」
「――わかった、でも待って、俺も行くから。その前にここの片付けをしないと……」
――かつかつと、足音が遠のいていく。
ゼクンは待ってはくれなかった。歩き続ける。離れていく。
ウィクトルは溜息を吐くしかなかった。それでも、かつてを思い出す。ゼナイダがまだいた頃、三人でビスケットをかじった日を。
あの時、自分が間食しているのを双子に目撃されて、ねだられたのだ。
「……全部終わったら、またお菓子でも食べられたらいいな」
ゼナイダは、もういないけれど。
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