第八章(04) 取引をしよう
* * *
ベラーの言う通り、見張りはあの男一人だけだったらしい。階段を上り扉を開けた先、眩しい光に包まれた。まっすぐに伸びた廊下。窓の外には、絨毯のように広がった雲と、青空が見える――この船は雲よりも高く飛んでいる。
魔法は使えるようになったものの、敵にはできるだけ見つからない方がいい、だから派手な魔法は使えないし、相手を倒したとしても、その身体をどこ隠したらいいかわからない。
とにかく見つからずに進むこと。そして――ミラーカを見つけだすこと。
人影がないことを確認して先を進む。足音を響かせない、代わりに他の者の足音をきかなくてはならない、耳を澄ませる。
少し進んだところで、小さなホールのような場所に出た。そこから伸びる、手すりのある廊下は四つ。
この船の構造がわからない。どの道がどこに続いているか。
そもそもミラーカがいるとしたら、どこに。
不意に、すっと頭の中が冷えた。何もわからない。地図なんてものも、見つからない。
それでも、進むしかないから。
直感で一つの道を選んだ。進んだ先、もう分かれ道はなかった。ただ突き当たりに、重々しいドアを見つけた。この先に、何かがあるような気がする、そんな気配を感じさせるドアだった。
厳めしく思えるドアノブを掴む――動かない。だから少し、力を入れて。
――ほんの少し開いて、隙間から向こうを確認するつもりだったのだ。
ところが、重いドアノブを少し回した瞬間、身体を持って行かれた。
不意をつかれた悲鳴が、風の轟音にさらわれていった。激しい奔流になぶられ浮いた身体を、そのまま彼方へ持って行かれないように、パウは必死でドアノブを握った。しかし凍てつくような風が暴力となり、全身を蹂躙する。マントが激しく翻り、ばたばたと絶叫を上げ続けていた。
ドアを開けた先には、何もなかった。空だけがあって、扉を開けてしまったがために、激流がパウに襲いかかってきた。身体の全ては外に出てしまい、旗のように靡く。いまはなんとかドアノブを握ってはいるが、手を離したら最後、彼方に吹き飛ばされようとしていた。
「なんで――!」
風の勢いに浮いてしまっているパウはもはや、驚きを通り越して、怒りを覚えていた。普通、考えられない。廊下や部屋があるべきではないか。そうであるのに、何もないなんて。罠か何かか。
風はその勢いを落とすことなく、じわじわとパウの体力を奪っていく。ついにずるりと、片手がドアノブを離れてしまった。もう片手も、白くなるほどに力んでいるが、徐々に滑りつつある。
もう限界だった。
握力が抜けていく。ほどける手、指、離れるドアノブ。
慌てて宙を掴んでも、もう間に合わない。魔法で補う余裕も、ない。
「――そこは、そういう扉になっているんだよ」
何も掴めなかったその手を。
「飛行中でも、外壁点検する必要が出た際や、襲撃があった際、外に出られるようになっているんだよ――もっとも、空を飛ぶ技術のある魔術師でないと、その扉を開けるなんて、自殺行為と変わらないんだけどね」
しっかりと掴む手があった。手首には、ロープで縛られたあとが痣になって残っていた。
「――ベラー……!」
パウの片目しか見えない赤い瞳が、その姿を捉える。紛れもなく、牢においてきたはずのベラーだった。片手でパウの手を掴み、もう片手で壁にある手すりを掴んでいる。
「こういう扉は、ほかにもいくつかあってね……過去には死体を海に捨てるためにも使ったそうだよ」
暴風の中、ベラーはそれでも涼しげに言う。長い髪は風に踊るように乱れていた。
「どうやって、牢から――」
その上、手を縛っていたロープだって。そう思わずパウが尋ねれば、ずるりと、ベラーが一歩、空に引き寄せられる。手すりを掴む手が滑っている。
「……取引をしよう、パウ!」
轟音に消されないよう、ベラーが叫ぶ。
「取引に応じてくれるのなら、この手を掴んだままでおこう。そうでないというのなら、お前に用はない」
「何を急に――」
「時間はそんなにないよ。私も飛ばされかねないのだから」
また一歩、ベラーが外に引きずられる。一瞬身体が浮き、パウも激しくも気持ちの悪い浮遊感に襲われて、奇妙な声を漏らしてしまう。
それでも、パウはすぐに返事をしなかった。相手はあのベラーである。
「……内容を言え!」
時間がないのはわかっていた。それでも、何も聞かずに返事はできない。
「お前は魔法を使えるものの、この船については知らない。私は魔法が使えないものの、船についてはよく知っている」
ベラーは首を傾げながら微笑む、後はわかるだろう、と。
悪くない提案……ではあった。が、パウは反射的に悩む。暴風がしびれを切らしたようにさらに全身をなぶる。轟音は飢えた獣の咆哮に似ていた。
どうする。どうしたらいい。
「そもそもミラーカがどこにいるのか、わかっているのか?」
するとベラーは、少し意地悪く目を細めたのだった。
「見つけたとしても、どうやってここから脱出するつもりなんだ? ここは空なのに」
ついに怒り狂った暴風がパウもベラーも呑み込んだ。手すりから離れる、ベラーの手。それでも彼は再び掴むことに成功して、
「わかった! わかったから!」
次こそ助からない。パウは叫んだ。納得したわけではなかった。半分はやけになって、残り半分はこのままではいけないという、恐怖だった。
ベラーはやはり、いつもの笑みを浮かべていた。しかし普段のものと違って、少し安心したような様子も見えた気がした。手すりを強く握り直して、少し険しい表情を浮かべながら、なんとかパウを引き寄せる――意外にもベラーに力があり、パウは驚いた。先程本気だったのか、趣味の悪い冗談なのか「首の骨を折る」と言っていたものの、あれは、本当にできることだったのかもしれない。
やがて、掴まれたパウの手、その指先が手すりに触れた。次の瞬間、パウは死にものぐるいで手すりを掴み、身体を寄せて、もう片手もしっかり手すりを掴んだ。
見届けて、ベラーが開け放たれたままの扉に手を伸ばす。ドアノブを掴めば引き寄せて閉める。
外へと流れる奔流が止まった。あたりには静けさが戻り、パウはその場にへなへなと座り込んでしまった。
* * *
この部屋なら問題ないだろうと、ベラーに案内されたのは、倉庫で間違いない部屋だった。人の気配はない。
「何を考えているのか言え……あと、お前にかかっている魔法封じは解くつもりはない」
「頼んだところでお前にはどうにもできない代物だよ?」
倉庫の中は薄暗い。明かりはついているものの、高く積まれた様々なものが遮ってしまっている。その影の下、素早くパウはベラーを睨みつけて、ようやく気付く。
ベラーは、少し奇妙なナイフのようなものを片手にしていた。さっとパウは手を構えたものの、
「ああこれ? これで私がお前に勝てるとでも?」
大振りのナイフをよく見れば、ところどころ錆びているように見えた。古いもので、その上手入れもされていなかったものなのかもしれない。切れ味はよくなさそうだった。
「これは牢の奥で見つけたものだよ。これで縄を切ったんだ……言っただろう、あそこは、家畜を運ぶのにも使った場所だと……同時に、家畜を解体することもあったみたいでね」
「……そもそもどうやって牢を」
「鍵で開けたけど?」
見張りの男が鍵を持っていたのを思い出した。あれをどうにか拾ったのだろう。
それにしても、よく出られたなと、パウは怪訝な顔をしてベラーを睨む。
――扉の向こう、声がした。何人かが駆けていく足音が聞こえる。
音もなくパウは振り返り、扉に手を構えたものの、幸い、扉が開くことはなかった。
「脱獄に気付かれる前に動かないと」
そう小さな声で言ったベラーは、まるでからかっているかのようだった。
「ミラーカはどこにいる?」
単刀直入に、パウは一番知りたいことを尋ねる。ベラーは少し考えて。
「船の後方かつプラシドの近くだろうな」
「……本当だろうな?」
「昔はすぐに信じてくれたのに」
こいつは自分がこれまでに何をしてきたのか、本当にわかっているのだろうか――呆れよりも、冷ややかな恐怖を感じてしまい、パウは顔を歪めた。何もわからない。何も。弟子として暮らしていた時は偽の姿だったとはいえ、こうして本性を現した後でも、まず人間として、理解できない。
「いまは嘘を吐く必要がないからね」
ベラーは肩を竦めたものの、それでもパウは信用できなかった。それすらも嘘かもしれない。そもそもベラーは『遠き日の霜』。ミラーカを含むグレゴを狙っていたではないか。
「お前達だって、ミラーカを狙ってるんだろ?」
「それもそうだけど、プラシドの手に渡っていることは大問題だし、あれの居場所はあくまで予測だよ……プラシドが私に言うとでも?」
彼は続けた。乱れた長髪を整えながら。
「船の前方にはいないと思うよ。プラシドはあれを『光神蟲』から遠ざけたいと思うに決まっているからね」
「それじゃあ、船の後方に行かないと」
そう歩きだそうとしたパウの肩を、素早くベラーが掴む。
「それは後回し。先に船の前方に行くよ。ここからそう遠くもないし……やってもらわなくてはいけないことがある」
思わずパウが苛立ちに満ちた視線をベラーに向ければ、ベラーは何もわかってないな、という微笑みを浮かべていた。
「ああ、いいかいパウ。この船にはね、多くの魔術師が乗っているんだよ。魔術師だけじゃなくて、プラシドと同じ思想の人間だって。そいつらの目をかいくぐり、お前がやたらと大切にしているあの青い蝶のところまで行けると思うのかい? それだけじゃない、脱獄がばれたのなら、すぐに彼らは私達を探しに動くぞ……そしてミラーカを見つけたとして……その後、どこに行くつもりなのかい? 空?」
ミラーカを見つけることが目的ではない。
ミラーカを見つけて、この船から脱出すること。それが目的なのだ。
自然とパウは手に力を入れていた。
――悔しいことに、ベラーの言うことは全うであるのだ。
「じゃあどうしろって言うんだ」
「――動力室に向かう。船の前方にある一室だよ。この船の原動力である魔法の仕掛けを壊すんだ」
ベラーの言葉を、パウは理解できなかった。拒絶ではなく、正しく理解ができなかった。言葉だけが耳から脳に入ってきて、数秒遅れて理解する。
「そ、そんなことをしたら船が墜落する!」
つまりベラーは、そう言ったのだ。原動力である魔法の仕掛けを壊したのなら、魔力魔法で空を飛んでいるこの船は、ただの物体と化す。何の力もない、重力に従うだけのものに。
「それでいいんだよ。船内に混乱を起こし、私達はそれに乗じるのだよ。そして船が墜落すれば、無事に外に出られるだろう?」
混乱が起きるとか、無事に出られるとか、そういう問題ではない。船は真っ逆さまに落ちてしまうのだ。頭がおかしいのか、とパウが徐々に口を開けてしまう中、ベラーは人差し指を立てた。
「どうやら君の頭の中では、船は気絶した鳥みたいに落ちてるのかな……もちろん、本当に墜落させられては困る。だから緩やかに落ちるように、丁寧に墜落させるんだよ。鳥に眠気を覚えさせるように。あるいは、布に小さな穴をあけるように……」
と、扉の向こう、また話し声が聞こえて、通り過ぎ、去っていく。
「……原動力に魔法で干渉できるのはお前だけだ。私はまだ魔法が使えない状態だからね」
全くプラシドは本当に、とベラーは苦笑する。
「そして道案内や何かあったときに回り道を選べるのは私だけ……わかるね? なに、敵は同じだよ」
――肉切り包丁こそ持っているものの、いまのベラーは魔法が使えない。大したことはできない。
そして計画も問題ない、むしろ助かる。
パウは決して「わかった」とは言わなかった。けれども顎で扉をさし、催促したのだった。ベラーはにこにこと笑い「じゃあ行こうか」と扉をそっと開ける。
「頼んだよパウ、船を落とせるのは、お前だけなのだから」
返事はしない。どんな状態であれ、この男については警戒しなくてはならなかった。
共に行動するのなら、なおさら。
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